前章 向き合い編

第2話 不忍池のフラッシュバック

 小さなジェット機が、音もなく水色の空を進んでいる。グッピーのように小さなひれをピンと広げ、少しだけ青の大気にかすんで、一直線に――

 ビルとビルの隙間に見える、ほんのわずかな頭上の水槽を泳ぐ。


三上みかみ先輩。……最近調子どっすか?」


 オフィス街から横断歩道を渡ると緑が増え、視界が開ける。不忍池しのばずいけだ。


「先輩?」


 隣を歩く赤堀あかほりは、おれと同じくコーヒーの紙カップを右手に持ち、左手には昼食のビニール袋を提げている。社会的な立場とすればこいつはおれの部下となるが、それ以上に――過去には力を合わせてゾンビ禍を生き抜いた、互いに背を守り合った盟友だ。当時の勇敢な戦士もすっかりスーツが似合う男になっていた。ツンツンと短く切り揃えられた黒髪が初夏の生ぬるい風に揺れている。


「調子?」


 仕事の話かと思った。池の果てに高層マンション群が見える。首都圏の人口は一極集中をさらに進行させていた。


「そうだな。人口も増えてきて、最近はおれの担当エリアも全体的に売り上げが――」


「そうじゃなくて。なんか元気ないっすよ」


 ぱっちりとした瞳がおれを見つめている。「元気?」と咄嗟に笑顔を作って誤魔化してみるが、目元の筋肉がうまく動かない。考えるふりをしてコーヒーを一口すする。甘いコーヒーだ。ショートサイズの紙カップにガムシロップを三ついれている。


 頷くのには時間を要した。

 空の色ほどあでやかでない水面が風に波を立て、太陽の光をキラキラと反射させている。周辺にはおれたち同様、公園で昼食を食べようとするサラリーマンが多い。すでにどのベンチも満席状態だ。おれたちは座れる場所を求め、池の淵を歩いている。白鳥の足漕ぎボートがおれたちの横を追い越していく。


「……そうかもな」


 ようやくして、おれは肯定した。

 というか元気がないもなにも、まず第一に寝不足だった。結局、おれは母を家に連れ戻してからも眠ることができなかった。母は警察への文句たらたらで全然眠る気配がなかったので、頓服の睡眠導入剤を勧めてやった。母も一時期はフラッシュバックに苦しめられていたから、特に抵抗なく言う事を聞いてくれていた。


「……すっかり日常だよな」


 そう呟きながら、平和な公園を見回してみる。陽の光が目に沁みる。しかしなによりそれが心地よかった。自ら率先して太陽を見上げ、その眩しさに強く目を閉じるのだ。間抜けのようにも見えるかもしれないが、不思議と力が充電されていくかのようだ。徹夜をして翌日も元気だったのは二十代前半までだった。四十後半にもなるともう限界がある。疲れというより、そもそも全身に力が入らない。

 赤堀は二人が座れそうな木陰を発見し、おれを導いて道を外れた。この導きに何度命を救われたことだろうと、ふと思い出す。フラッシュバック。血塗られた空。ドロドロの両手。紫色の池。鼻を衝く腐臭と耳にこびり付いた呻き声。足元には、動き出す死体――


 赤堀は明るい表情のまま手持ちのハンカチを広げた。おれも同じように背の短い緑の草の上にふわりとハンカチを落とす。母が選んでくれたハンカチだ。腰を下ろすと「ふぅ」と気分が落ち着いた。思い出は視界の奥に引っ込んで現実の感覚が強化される。


 赤堀は察してくれているのか、カップを口に当て――時々傾けて僅かにコーヒーを口に含みながら、どこともなく正面の池を眺めている。おれはスマホを取り出してスマートニュースアプリを起動させた。今日のニュースインデックスはゾンビ絡みのものばかりがピックアップされていた。今は――少し、目を背けていたい。画面を暗く落とす。


「よかったですね。ホント」呟くように赤堀が言う。「世界は平和に――」


「“なった”と言っていいのかどうか」


「ハハ。まぁニュースは絶えないっすもんね」


「ゾンビが潜んでる世界」


「そんな世界でおれたち普通に生活してるって、なんかビビりますね」


「そうだな」


 生産性があるのかないのかわからない会話をしながら飯を口にかき込み、その後はしばらくボーっとして過ごした。木陰で体育座りをしているサラリーマン二人の図だ。きこきこと白鳥の足漕ぎボートが正面の池を通り過ぎていく。


「そろそろ時間っすね」


 赤堀のその言葉に頷き、おれたちは不忍池を後にした。



 母のことがあったので、この日は寄り道をせず家に帰る事にした。

 道中、世間はもうゾンビなど忘れたかのような明るい装いだった。仕事上がりのサラリーマンに備え戦闘態勢に入る飲み屋街。ラッシュで人が行き交う駅ビルとバーゲンセール。自動改札の通行音。ホームに張られた整列線に忠実なおれたち。電車内で揺れる広告――生き方と黄金を得るための啓発本や、自由ヶ丘駅から徒歩九分の新築レジデンスが月十万円台から分譲可能との宣伝だ。一方で再びニュースアプリを起動すると、やはりインデックスはゾンビが原因の交通事故、介護自殺、徘徊、噛みつき事件――



 オウウィルスは慢性期に入っていた。

 感染力はノロウィルスより弱く、急性ゾンビ症発症者から直接噛まれでもしない限り感染することはない。また万が一噛まれたとしても、発症を阻止する抗ウィルス剤はすでに開発済みであり――日本においては明確にルート化された社会医療連携ケアパスによって優先的に医療機関へ搬送され、現在はすべてのケースについて三十分以内にそれが投与されているという。オウウィルスは感染から一時間以内に細胞破壊を引き起こすとされているが、迅速な対応があればそれを最小限に留めることができる。


 日本政府はさらに連携体制を整備して二十分以内の対応を目指すとしている。つまり、ただでさえゼロに等しい細胞破壊のリスクをより抑えていくということになる。おかげで街を歩いていても、もう災禍時のようなゾンビらしいゾンビは見かけなくなった。


 しかし――

 おれは緊張しながらゆっくりとドアを開ける。母がおれの帰りを待つ自宅のドアだ。重いスチール製のドアだった。もし昨日のあれが何らかのルートからの感染による異変であれば、母はもう手遅れであろう。急性ゾンビ症を発症していた場合、おれは母を殺さなければならない。


 暗い廊下に白い外景の光が差し込む。おれの影が伸びる。電気はついていなかった。

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