第3話 トランス後遺症

「……ただいま」


 が物音に敏感だという事は身に沁みて理解している。人の声ともなると尚更それが言えた。警戒すべき場面ではまず声を発し、こちらも物音を伺う必要がある。


「……母さん?」


 念のためもう一度呼びかけてみる。シンと無音が続き、遠くの電車の音がこだまして聞こえる。歩みを進めてドアを閉める。キィ……ガシャンと、少しだけ大きな音が出た。目の瞳孔が光の変化に追いつかず、真っ暗な廊下に見える。電気をつけたが、それでもやや薄暗い。


 革靴を脱いで、奥からの反応に神経を使う。物音はしない。ふと、思考の続きがはじまる。



 オウウィルスはどこから来たのか。感染力は弱いとされているものの、なぜ災禍パンデミックが起こったのか――

 現在のオウウィルスに対する日本政府の手厚い体制は完璧と評していいだろう。このシステムが正常に機能している限り、日本ではもう以前のようなゾンビ禍は起こりえない。しかし――おれはもう一度スマートニュースアプリを起動させる。インデックスに並ぶゾンビの文字。

 なぜ今も、ゾンビは生まれ続けているのか――


 リビングのドアを開ける。途端に人の気配がした。息遣いだ。「フー、フー」と力が込められた、不自然に繰り返される荒い呼吸。ソファに誰かが横たわっている。母だ。おれはスマホの緊急判断アプリを起動させた。これでなにか異常が起これば、それを検知し分析したAIが自動で緊急要請をかけてくれる。


「母さん……?」


 おれはソファの横で膝を落とし、母の肩に手を添える。パチッと目が開いたのがわかった。外からの僅かな明りによって暗闇の中で瞳に反射し光ったのだ。その光を二つ携える首がぐるりと回転し、尾を描く軌道でおれを見つめる。噛みつかれるだろうか。


「おれだよ。佑介だよ」


 難聴でも聞こえるよう耳元でそう言ってやると、母はホッと身体から力を抜いた。アプリのAIは問題なしと評価し、おれもそれを肯定してアプリを終了した。部屋の電気をつける。母は上体を持ち上げた。


「なんだ、よかった~」

 そしてソファから立ち上がる。

「ゾンビ禍の夢を見てたのよ~。私もゾンビになっちゃってね~」


「……昼間から寝てると昼夜逆転するぞ」


「ホントそれよね」そう言って母は笑う。いつもの母だった。「ちょっと待っててね。すぐにご飯つくるから」


 その明るい背中をおれは見送った。昨日のあれはやはり何かの間違いだったのだ、と思いながら。人はちょっと調子が悪いと混乱することもある。今日一日、深く考え込んでいた自分がバカバカしく思えた。母は大丈夫だ。母を信じよう。母は母だ。そんな当たり前の事が、なぜかおれには希望に思えた。



 それからは特に問題もなく数日が経った。

 大声で会話するのも疲れてきたので、小さなホワイトボードを買ってきた。一重に難聴といっても波があるようで、どうしようもない時に限って筆談でやり取りをしている。時々うっかり家事を忘れていたりすることもあるが、歳を取ると誰しもがこうなることをおれは知っていた。


 そんな変わりのない日々に変化をもたらしたのは、赤堀の一言だった。


「おれのばあちゃんが、ゾンビになっちゃったんですよ」


 いつも昼食を食べる不忍池での告白だった。この日は運よくベンチに座ることができていた。今日は初夏のわりに風は涼しく、日向ひなたでも汗は生じない。赤堀は、いつもと同じような、余裕で、強靭そうな表情をしていた。優しそうな目だった。前髪を垂らし、それ以外の髪はツンツンと後頭部に向け固められている。ジッと池を眺めている赤堀の言葉を、おれは待つことにした。


「長野県にいるんですけどね。久しぶりに帰ったら物忘れがすごくって、おれの顔も覚えてなくて。慌てて病院に連れて行ったら、CTとMRIと血液検査をして、ゾンビって告知されました」


「家の人は噛まれたりしなかったのか?」


「今のところは」


「でも今の時代、ゾンビになっても治す薬はあるんだろう?」


 新薬の情報はたびたびニュースでも流れてくる。日々増えていくゾンビ起因のニュースの隙間に垂らされた細い糸のような希望のニュースだ。しかし赤堀は首を振った。


「抗ウィルス剤の事ですよね。おれも先生に聞いたんですけど、一度ゾンビ症発症トランスを起こした場合、オウウィルスが破壊した細胞を復元するような薬は存在していないらしいですよ。抗ウィルス剤はあくまでオウウィルスの“増殖をストップさせる”ためのもので……。まぁその薬のおかげでオウウィルスが増殖しなくなれば細胞破壊は最小限で済むんですよね。でも増殖してトランスまでいってしまったら、どんなに薬を飲んでも破壊された部位はどうしようもできないらしいんです。例えばおれや三上みかみ先輩が知ってる急性のゾンビトランスって、結構身体カラダとか腐るじゃないですか。そういうのをトランス後遺症って言うらしいんですけど、そういうのまでは治せないらしいんですよ」


 赤堀は手に持ったクロワッサンに噛みついて頬張った。


「つまり、ゾンビになったら終わりなんです。その為の社会医療連携ケアパスですしね。……でも、それでもおれのばあちゃんはゾンビになった。国は急性ゾンビ症に力を入れてますけど、イマ増えてるのは慢性型らしいです。オウウィルスに予防ワクチンはないから、慢性からのトランスを抑える手段は単純に“早期受診”ってやつらしいですけどね。おれのばあちゃんはそれがちょっと遅かったから、後遺症として物忘れが残っちゃいました。しかも高齢なので、そもそもの人間の性質としてこれから連鎖的にガタガタと物が分からなくなってくらしいです」


 すべてのパンを食べ終えた赤堀は、最後にグッとコーヒーを飲み干した。時計を持ち上げる。


「あ……。おれだけ話しててすみません。そろそろ時間っすね」


 赤堀はいつもこの言葉を合図に立ち上がる。暗い身の上話であろうはずなのに、いつものように目を輝かせて。しかしおれは、こいつのように立ち上がる事ができなかった。


「これから大変だろうな」


「まぁ、そうですね」


 おれは赤堀から、笑顔の奥底にある覚悟を感じた。世間でこれだけゾンビに対し風向きの強いニュースが流れているなかで、よくおれに話してくれたと思った。世間では赤堀の祖母のような慢性型のゾンビトランスが深刻化しているのだ。

 そして必然的に、おれは自分の母の事を思い出していた。あの深夜以降、特に問題なく生活しているが――


 おれはベンチから立ち上がった。歩き出そうとすると、さりげなく一歩身を引く赤堀。できた後輩だった。同時に、なぜ今までおれは黙っていたのだろうと気付いた。


「おれの母親も、一時期、少し変だったんだ」


 公園を抜けた遠くの道路で、歩行者信号機が点滅し赤に切り替わる。赤堀は特に驚く様子も見せず、黙っておれの次の言葉を待ってくれていた。




----------------------------------------------------------

参考:

        オウ ノロ インフル

抗ウィルス剤  〇  ×   〇

予防ワクチン  ×  ×   〇


抗ウィルス剤:ウィルスの増殖を防ぐ薬。

予防ワクチン:毒性を抑えたウィルス。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る