母がゾンビになりまして

丸山弌

プロローグ

第1話 母がゾンビになりまして

「母がゾンビになりまして……」


 年季の入った荒い木のテーブルの上で、二つのビールジョッキが汗をかいている。お通しとして置かれた申し訳程度の一口湯豆腐に目を落とし、おれは向かいの席に座る常務にそう告げた。


 2040年、5月。

 上野駅前にある、おれたちの事務所御用達の格安居酒屋は、それなりの賑わいをみせていた。

 アメ横方面や動物園方面から少し外れたこの店には仕事から上がりたてのサラリーマンが多く、業務から解放されたリラックスと明日への苦笑いががやがやと交差している。


 おれはジョッキを持ち上げて少しだけビールを喉に流し、ガラスの淵に新たな泡の断層痕を残す。コトリ――と、その重いジョッキを置く。常務の視線が、どこかからそれに導かれる。


「そうか……」


 やがて重く口を開いた常務は、白髪交じりの髪の毛をきっちりとオールバックにまとめている。黒い淵の細長い眼鏡の奥から、穏やかな瞳を覗かせている。その瞳が、おれに向けられる。


「これからどうするんだ?」


 彼の横でビールが黄色い星色に光っている。細かな気泡が点々と生じ、泡の蓋へと向かっていく。その白い層はすでに力なく潰れており、幾ばくもなくすべてが溶けて失われようとしていた。常務はビールに一切手を付けないまま、周囲の細やかな騒ぎも耳に入れず、おれだけに集中してくれている。


「まさか、辞めるつもりか?」


 その瞳が、より深くおれを見つめる。温かい口調も相まって、おれのことを本当に心配してくれているのだと伝わってくる。



「ゾンビですね」


 レントゲンやMRIの写真を眺めながらそう言った医師は、どこか心ここにあらずのようだった。おれの手前に座っている母の肩がビクリと揺れる。そこは地域の街医者クリニックで、家から歩いて五分ほどの所にあった。白い床と壁。パソコンが置かれたデスク。簡素なベッド。古臭いパイプ椅子。どこかに窓があるのか、淡い緑色のカーテンが揺れている。


「薬を処方するので、しばらくこれで様子を見てください」


 医師は椅子をくるりと回転させてこちらを向き、母を通り越しておれを見つめた。紺色のスラックス。白いYシャツ。ワインレッドのネクタイには猫のシルエットが水玉状に描かれている。おれと同年代程度――ギリギリ昭和生まれだろう医師だった。表情には皺が多いがまだ活気の色も残り、それなりの苦労を経て開業医に至ったのだろうと想像してみる。



 2040年、3月。

 おれと母は二人暮らしをしていた。過去のゾンビ禍により、日本人はその三割が犠牲となった。父も妻も息子も死んだ。おれの家族は、もう母だけだった。


 そんなおれに突き付けられた、新たな現実。

 ゾンビ禍は終わっていない。頭が真っ白になった。



 2039年、7月。

 人類の文明はゾンビ禍によって世界レベルで停滞あるいは後退をしていた。今年でゾンビ禍から十年となる日本は、そのさらに前に起こった首都直下地震も乗り越え、経済や文明レベルは2020年代にまで回復していた。とはいえ国民の多くが今もPTSDに苦しんでいる。あっという間の十年だった。そしてゾンビ禍をもたらしたEND-Oエンド・オウウィルスも、まだ消滅はしていない。


佑介ユウスケ~」


 扉の向こうで母が呼んでいる。その呼びかけ方は、おれが学生時代「うるせぇババァ!」と返していた若かりし頃と全く変わらない。そんな母も今年で六十歳になる。


「ちょっと買い物に行ってこようと思うんだけど、欲しいものある~?」


「はぁ?」


 川崎市、某所。

 駅から徒歩十分程度の場所にある3LDKのマンションに、おれと母は暮らしている。リビングから聞こえてくるテレビの音声はゾンビ禍から十年の特集で、初めてウィルスを特定した遠藤エンドウ博士のインタビューだった。ちなみにエンド・オウウィルスという名称は子供たちの間で遠藤という苗字の子を対象にイジメの温床となったため、日本ではOオウウィルスと呼ばれている。


「何買ってくんの?」


 扉の向こうで母の気配がリビングから玄関へ移動したので、おれはドアを開けて聞いてみた。歳を取った背中が丸まり、靴を履いている。その母が、再び呼びかけてきた。


「ちょっと佑介! なにか買ってほしいものはある~?」


 母は最近、耳が遠くなってきている。

 トントンと背中を叩き、おれも大声で返した。


「買い物って、なに買ってくんだよ!」


「びっくりした! 野菜もうないのよ~。これじゃ夕飯作れなくて」


 はぁ……。と、おれは溜息を吐く。これもPTSDの一種なのかと思った。念のため確認のために腕時計を持ち上げる。やっぱり間違いはない。時刻は午前一時。真夜中だ。


「こんな時間に行く意味ないだろ! おれは明日も仕事なんだから、今日はもう寝てくれ!」


 別に怒鳴っているわけではない。そんなにイラだっているわけでもない。母は耳が遠いのだ。だから会話のためには大きな声を出す必要があって、そうすると自然と張った声になる。アパート両サイドの部屋の住人にもきっと筒抜けだ。


「寝るって、こんな時間に――」


「もう夜中の一時だよ!」


「ええ? もうそんな時間? おかしいわね……」


 首を傾げながら不満そうな顔をする母。そんな顔をされても、おれにはどうしようもないのだが……。靴を脱いでリビングへ戻っていく。おれも自室へ戻った。今日はまだ水曜日で、明日は木曜日なので、当然おれも仕事だった。自宅から職場の上野まで通勤には一時間かかる。朝は早めに起きたい。部屋の電気を消して、おれは布団に潜り込む。



「佑介~! 買い物行ってこようと思うんだけど!」


 母の異変――

 PTSD以上の、何か得体のしれない異常をこの時おれは確かに感じ取った。しかしだからといって、時間も時間だったのだ。おれは優しくなることができなかった。


「寝ろって言ったばかりだろ!」


 しかしこの声も、遠い場所からでは難聴の母には届かない。


「ちょっと佑介!」


 なぜか苛立っている母がおれの部屋の戸を開ける。おれはムカつき過ぎて、無視をして寝ているフリをした。溜息を吐いて戸を閉める母。昔のままだ。やがて、玄関から出て行く音がする。


 そしてこの日、母は迷子になって警察に保護をされた。深夜三時に警察から電話がかかってきて、おれは警察署まで身柄を引き取りに行った。


「オウウィルスに感染していないか検査をしてみたらどうですか?」


 おれと母にそう言った警官に、母が怒っていたのを覚えている。しかし眠さとストレスとで、その内容はほとんど覚えていない。とにかく繰り返し母が叫んでいた言葉だけが、おれの頭の中に刻まれていた。


「私はゾンビじゃありません!」


 そうだよな。

 もちろんおれも、そう思っていた。

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