第12話 心配の目

 家に戻ってきて、夕食も終わり、母も睡眠導入剤のおかげでもう床についた。

 おれは自室で、先日もらった名刺を手に持っていた。鈴城と書かれたちえみの名刺だ。化粧が厚く、垂れ眉気味の少し困った風な顔が思い出される。一体何を考えておれたち家族に接触してきたのか。近所の人たちの心配事とはなんなのか。彼女とのやり取りを思い出すたびに不信は募っていく。


 しかし一方で――

 実を言うとおれは、赤堀がさりげなく放った一言にズシリと衝撃を受けていた。


“プロじゃないんですから”


 それを聞いて、なんとなくハッとした気がする。

 今までおれは、少し〈サービス〉というものに慣れ過ぎていたのかもしれない。自分に接してくる他人たちに対し、何らかの形で自分を満足させてくれるはずであるという消費者としてのある種の期待感を無意識のうちに持っていたように思う。


“なにかあったときのご近所さん役”


 この言葉も不思議なニュアンスだ。

 街から天然の小川がなくなってしまったから人工的にを作り出したかのような――不自然ながらもひたむきなルネサンス。


「はい、鈴城です」


「もしもし。三上と言います。夜分遅くに申し訳ありません」


 思い切って、おれは名刺の番号をスマホでコールしていた。


「えっ! 三上さん!」電話口のちえみはおれの不意打ちに裏返った声を上げた。「突然どうされたんですか!?」


「いや――そういわれると、特に別に……特段なにかあったわけではないのですが……。どうやら母の事を心配してくださっているようでしたので、改めてご挨拶をと思いまして」


「あ、え、そうですか……! えっと、うふふ、ごめんなさいね! 少し驚いちゃって。まさか息子さんの方から連絡をいただけるなんて思っていなかったから」


 どうやらちえみは、おれからの電話に心底驚いているようだ。もしかしたら昨日の自身の対応がおれに対してとてもまずいものであったという自覚があるのかもしれない。あるいは、おれという存在に相当期待をしていないのか――


「でも電話をしてくれてうれしいです。ありがとね。それで……、お母さんのことで、なにか困っている事はないかしら」と、調子を取り戻したちえみがおもむろに聞いてくる。


「それなんですが、実を言うと特にないんです」


 これは正直な言葉だった。不思議な感覚だ。

 母についてあれほど困り果てていたのに、いざそう聞かれるとこう答えてしまう自分がいる――そしてそれが現時点では、大して嘘とも思えないのだ。困ることは当然あるのだか、まだ誰かの力を借りるほどでもない――


「そう」と短く答えたちえみは、少しだけ間を置いた。「昼間はどうしてるのかしら? 息子さんはお仕事に行かれるでしょうから、お母さん一人よね?」とても何か言いたげな――示唆的な含みを持った質問だ。


 そしてもちろんその質問に答えは単純で、頭の中に潜って記憶を探る必要すらない。


「……わかりません」と、こう答えるしかないからだ。「私はいつも朝六時くらいに家を出て、夜は今日みたいに早ければ六時頃、遅いと八時か九時か……残業しだいで前後しますが、それくらいには帰ってきます。その間、母はずっと家にいると思います。買い物も全部私がしていますし」


「そうね。家にいる事が多いと思う」


 ちえみは何か言いたそうだ。おれの言葉を肯定しつつも、それとは違う例外が存在しているかのような口調。もしかしたら、家にいない事もあるのかもしれない。


「日中、母と会ったんですか?」


「私じゃないんだけどね。近所の人が最近お母さんと話されたみたいなんだけど。たま~に外に出てくるらしいわよ。ゴミを持って。きっと、収集所に持って行こうとしているのね」


 その言葉のニュアンスは、母の“収集所へゴミを持って行く”というミッションの失敗をにおわせていた。


「それでみなさん、お母さんに声を掛けてくれてるらしいんだけど。でも、場所が分からないようだったし、曜日が違う事を伝えても無視されるし――どういう風に関わったらいいかわからないって、私に連絡が来て。それで、訪ねたの」


「母は耳が遠いんです」


 咄嗟に出た言葉だった。

 そしておれは心の底で僅かに自虐してみる。未だに認めたくないのだろうか。コミュニケーション不全の原因は難聴だからであると――しかしそうでない事はもうよくわかっている。


「それと、ゾンビトランス」とおれは続ける。


 喉のどこかに言葉の引っかかりを感じたが、強引に押し出してやった。そして勢いに任せ、おれは母について今までのできごとをちえみに説明していった。日によって波のある混乱。徘徊。喧嘩。病院受診。薬の飲み忘れ。そしてそれ以上に、母と向かい合って過ごしてきた毎日の自分の感情の話。


 このマンションから、でなくてはいけないのだろうか――

 ふとそんなことを思った。

 母は確かに周辺住民からしたら懸念材料だ。それでちえみが様子を見に来たのかもしれない。


「私、謝らなくちゃいけないわね」というちえみの声で、おれは自分の心の暗い部分から目を開ける。「私たちね。息子さんがお母さんになにもしていないと思っていたの」


「なにもしていない?」


「そう。多いんですよ」一呼吸置いてから、ちえみは続ける。「ゾンビトランスってとても難しい物なの。対応一つとってもそうだし、なにより特に男の人は中々その変化に気付かないし、それにほら、お仕事もしていらっしゃると、気付けたとしてもどうしたらいいかわからない事が多いんですって。それでそのまま放置してしまって、結局手遅れになってしまうという世帯がね。最近多いのよ」


 なるほど――

 ちえみの言葉を聞き、おれは納得した。自分も危うかったのだ。もし赤堀がいなければ――


「幸い、相談できる友人がいたんです。ゾンビ禍の時も、生き残るために色々と道を示してくれた若い友人です。母についても同じように道を示してくれています。今日、……」危うくちえみの名を言いかける。いかに誤魔化すか、おれは脳を加速させる。「今日、鈴城さんに電話をした方がいいとをくれたのもその人です」


 うまく誤魔化せたようだ。


「相談できる人がいるんですね。それはよかった。最近のお母さんはどう?」


「落ち着いています。まだまだ噛んだり皮膚が腐ったりするほどではないので、ゾンビトランスとはいえ初期の状態だと思います。薬も定期的に飲むことができています」


「それはよかったわね。よければ今度お母さんに挨拶をさせてもらえない? もし昼間、何かあったら力になりたいから」


「じゃあ、マンションから出て行かなくても?」


「なに言ってるの。誰かにそう言われたの? だったら私はあなたの味方ですからね」


 

 なんだよ。いい人じゃないか――

 そんな人をちえみと呼んでいたことに――本物のちえみもいいキャラなのだが――おれは少しだけ反省した。じんわりと目元が熱くなるのを感じた。

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