第14話 先のこと
見慣れない私服姿の赤堀が隣を歩いている。
おれは、その若者に謝ろうと思った。
「悪かったな。わざわざ家にまで来させて」
赤堀は黒のスキニーパンツに足首を隠すブーツ、上は焦げ茶色のトレンチコートを着ている。両手はポケットに入り、背を丸くして、寒さに耐えるようにして白い息を吐く。おれの寝坊によって本来は駅で集合するというところを、赤堀はわざわざ家にまで迎えに来てくれたのだ。
「大丈夫っすよ。久々に先輩のお母さんにも会えましたし」
おれの手もポケットの中にある。澄んだ冷たい空を見上げて、フッと息を吐いた。
「ずいぶん様子が変わっていただろ」
「そう……っすね」赤堀はゆっくり間をとった。「なんか、痩せたというか」
「なんとなく“老人っぽい顔つき”になってきてるんだよな。もちろんこれまでの面影は充分にあるんだが」
そしてやがて、肌や脳内細胞が腐っていくのだろう。
ゾンビトランス――おれは今朝見た夢を思い出した。いつか訪れるだろう母のそれを目の当たりにしたとき、果たしておれは適切に対処できるのだろうか。ゾンビになってしまった家族をおれはすでにこの手で殺めている経験がある。なのでいずれは母も同じだろうと、ある種、楽観的に考えていた。しかし夢の中のおれはそうではなく、それどころか、ゾンビとなった母の行為を甘んじて受け入れていた。
現実でもあり得る最期だ――
世間のゾンビトランスのニュースを見ていると、そのすべてが悲劇的に報道されていた。手元のスマホで目についたのは、トランスによって自分の名前を言えなくなった十代女性が保護をされ、身元不明のまま施設に収容されているニュースだ。このまま家族が現れずオウウィルスの増殖が止まらなければ、彼女は施設職員によってその人生の幕が下ろされるのだという。
あるいは、ゾンビトランスした両親が障害を持つ三十代ヒキコモリの我が子を今も面倒をみているというニュースには胸を打たれた。その両親はまだ受け答えが可能な程度の――おそらくおれの母よりも軽度の状態であろうが、病状が進行したとき、おそらく大切なその子供の命をゾンビとなった彼ら自身が奪う事になるだろうとのことだ。しかし確固たるその未来が見えていてもなお、今までずっと寄り添って育て、ゾンビ禍からも守り抜いた我が子を、彼らはどうしても他人にゆだねられないのだ。
そして気付けばおれも、いつの間にかそんな悲劇の一派の一人となっている。そう思うとなんとなく、少しだけ笑えてくるような気がした。
きっと世間から見える物語は、おれの中にある真実とは少し違ったものであることだろうからだ。しかしだとすると、おれが悲劇と感じたニュース一つ一つにしても、その人、その家族、友人、関係者だけが共有する、目に見えない感情の物語が存在していて然るべきだ。
心が満たされる介護の話など、ゾンビ禍や震災以前の少子高齢化にあった思春期時代に散々聞かされ、そのたびにおれは寒々とした気持ちになっていた。“やりがい”で飯は食えない。もっと心の濃度を下げて淡々と生きてしまえば楽なのに――介護についてのニュースを見る度に、おれの若い心はそう思っていた。しかし人は感情一つで電車に飛び込んだり奮い立ったりする。今のおれもまさにそれだ。
朝起きて、母の調子がいいとこちらもうれしくなる。逆に混乱からはじまると、その日の過酷を覚悟する。調子のいい日が当たり前でなくなったからこそ、その瞬間がとても大切に思えるのだ。“何気ない日常が実は幸せな時間だった”という月並みのアレだ。今日がダメでもまた明日もと希望が持てるのだ。つまりおれは、母とできるだけ長く暮らしていたかった。
その先の事など、今はどうだっていいと思えるほどに。
*
駅に到着した。日曜日ではあるのだが、自宅から最寄り駅は休日こそ人が少なめだ。日本は相変らず人口減少に悩まされてはいるものの、この駅に関してはそれ故の寂しさではなく、休日はみな二子玉川や自由が丘、渋谷まで遊びに出てしまうのだ。
チラシの案内にしたがって、おれと赤堀は駅ビル併設の多目的モールの建物に入った。広いフロントには地域の大学の活動をアピールするブースが並び、そのおかげで狭くなった通路の正面に、貸室予定モニターが案内板代わりに設置されている。おれたちの前後の人々もおれたちと同様、不慣れな様子でそのモニターを確認し、目的の文字を見つけて指をさし、モニターをよけて通路の先に進んでいく。
“正しいゾンビ対応講座 A-B会議室"
「先輩。正直に言っていいっすか」
いつも正直な赤堀だ――それを拒むことは彼を拒むことと同義になる。それでもその赤堀がわざわざ許可を求めてきたということは、その正直さは世間の常識と多少すれ違った感情論なのだろう。若干ふてくされた口調の赤堀に向かい、おれは顔を向けてみた。肯定を感じ取った赤堀が続ける。
「“正しい”って、なんなんすかね」
おれは前を向き、会議室を目指す。
「哲学的にきたな」
「ゾンビから逃げたり殺したりするための方法には、確かに明確な正しさがあると思います。奴らは人の声に反応しますし、頭を壊せば動かなくなる。この基本さえ押さえれば案外だれでもゾンビに対応することができますし、おかげで僕らはゾンビ禍を乗り越えた。でも、今回の対応って、そういうものじゃないですよね。なのにこれの表現って、いいのかなぁって思うんですよ」
赤堀は今日の講座のチラシを取り出している。
『大切な人がゾンビかもしれないと思った時、あなたはその人とどう向き合いますか? 物忘れにはどのように対応しますか? ゾンビの事を正しく学び、正しく対応しましょう』と、そう書いてあるチラシだ。
会議室の入り口には簡素な案内板があり、おれたちはA-B会議室に足を踏み入れた。本来は二つの会議室だったのだろう中間のパーテーションが壁に収納され、横長のテーブルが縦に三列、あちらのホワイトボードを正面に横十五列ほどが並べられている。鈴城をはじめとした数人のおばさんと、スーツを着た中年の男性たちが前の方の隅っこで談笑している。テーブルにはすでに十人ほどが点々と席についている。
おれと赤堀は、二人が並んで座れるテーブルを探し、適当な中ほどのテーブルに腰を下ろす。鈴城がおれに気付いて挨拶に来る。
「来てくれてありがとう! お母さん、どう?」
「いつも通りです」と、おれは愛想よく笑ってみせる。
鈴城も愛想のいい――眉をハの字にさせた遠慮がちな笑顔で、あれやこれやとおれに向かって世間話をはじめる。そしてそれをやや不満気に見つめる赤堀の視線に、おれは気付いていた。
時間が迫り、鈴城は準備に戻っていく。
「人と人の関わり方の中に、正しさって存在するんすかね」
それは誰にも聞こえないように囁かれた、赤堀の呟きだった。
「それこそ百発百中で、ナンパが成功でもするかのような」
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