第20話 嵐の前の静けさ、天災の訪れ

 夢というものは、ああ、素晴らしきかな。

 未来に実現させたいと抱いている願望も睡眠中に見る幻覚も、ともに男のロマンを孕んでいる。いつしか『脱童貞脱包茎』となる日を思い抱いて、何をしても咎められない最高の妄想の世界で馳せる想いを描いては、さらなる夢を膨らませて心を躍らせる。

 しかし時に、目覚めると素晴らしい夢も悪夢の類に豹変することがある。

 それは現実と直面した瞬間。

 違和感を下半身に覚え、とりあえずシャワーに。後ほどカピカピのパンツをこっそりと洗っている時にタイミング悪く母上が――もう続きはわかるだろ?

 ま、今日はなんとか大丈夫だったわけだが。俺はこれを機に毎晩必ず寝る前に儀式を行うことになった。あんな恥辱はもうこりごりだ。


 俺が起きたことを渡ママに伝えるために、渡は先に部屋を出ていった。きっと俺を気遣ってのことだろう。下半身が落ち着いてから茶の間リビングに来い――男の朝事情に精通しているとは、なかなかやりおる。

 ――という冗談はさておき、本当は気を遣った以上に気まずかったのだろう。

 とくに今のことより昨晩のこと。俺、渡とキスしちゃったんだよな。

 もしかするとその話をしようとして俺を起こしに来たのに、俺の息子が早起きだったせいでタイミングのがしちゃった感じ? 悪いことしたな。俺の見られたくない朝事情を見たんだから、お互い様ってことでどうか許してほしい。

 ふう、どうやら俺の息子も悪いと思ったのか、ようやく筋トレを自重してくれた。


 茶の間に行くと、あったかいお茶を啜っている渡ママとテレビアニメを見ているゆうちゃんが「おはよう」と出迎えてくれた。俺も「おはようございます」とひとまず応え、渡の姿を探す。と、向こうからやってきてくれた。台所キッチンから両手に食欲そそらせる料理を持って。


「お、おう、森田ァ、おめざめかい。随分とお寝坊さんじゃねぇか。もうとっくに太陽のぼっちまってんぞ」


 俺と目があった途端にスッと視線を部屋のスミに逸らしてよそよそしく俺に話しかけてきた。渡のかわりにエプロンの胸元に小さく刺繍されている猫ちゃんと目があった。大きさ的にはお乳首様程度か。普段の俺なら乳首の位置がああだこうだと妄想を膨らませるのだが、エプロンがとくに隆起せずにストンと落ちているせいで、おっぱいという概念が消え失せている。さらに言わせてもらえば、男っぽい渡におっぱいという期待は最初からしていない。


「ゆっくりさせてもらったよ。しかもベッドまで使わせてもらったみたいで」


 どうしても俺と視線をあわせたくないらしく、渡は料理を机の上に置いていく。


「わりぃな、客間どころか客用の敷布団もなくてな」

「別に……ん?」


 女の子の部屋で女の子のベッドで寝るって……ぱないよな。渡のベッドで渡の匂いにつつまれていた。だからあんな夢見ちゃったのかも。夢の中の渡は最高にエロかったなぁ。おっぱいもあったもんなぁ。しかももうちょっとで――ってまさか、俺はああいった展開を渡に求めて――ダメだダメだ、冷静になりなさい。

 顔を首がもげる勢いで左右に振り、煩悩を消し飛ばす。

 

「お前な、本当にわりぃって俺に謝るくらいなら、まず俺を殴ったことから謝れよ」


 思わず理不尽にも八つ当たりして当たり散らしてしまった。


「ご、ごめん」

「え、あ、いや、いやいや素直に謝るなよ、そこはいつも通りケンカ売ってこいって。フライパンでってこいって」

「……昨日フライパンで殴ったことだけどよ」

「ああ、痛かったよ。今でもズキズキする」

「……だから、何も覚えてないよな?」


 なるほど、それでこの三文芝居か。俺が起きていることは知っているはずなのに、わざとらしい挨拶から入ってきやがって。いつも通りに振る舞おうとして逆に演技がかった受け答えからは怪しさダダ漏れだったぞ。

 えー、こほん。あー、あー。


「いやー前後のことはあんまりよく覚えてないなー。何かで喧嘩になりかけたことだけは覚えてるんだけどなー」


 どうやら俺も役者としての才能はないらしい。渡のことをバカにできないほど棒読みで、抑揚もなく文字羅列をただ口ずさんだだけ。

 ――昨日のことはすべて忘れろ、とくにキスしたことを忘れろ。

 渡の言いたいことはこれだ。事故であって自己的にやってはいない。時効になることのない事件を向こうの方から許してくれると言っているのだから、ここは乗るしかない。彼氏のいる渡に迷惑をかけるわけにもいかないし。もし万が乳……万が一、俺のせいで別れることになったら後味が悪い。

 ところで、万が乳って表現、いいな。しかも渡に使うからいい。ではここで一つ。


 万が一 夢の中では 万が乳 ひとたび覚めても 万の乳かな


 この歌には、可能性はほぼ皆無なのかもしれないけど、夢の中で奇跡的に膨らんだ十分な乳が、夢から覚めてもそのままであってほしい、という悲痛の叫びが込められている。しかしながら願いは届かず、夢は夢、現実は現実。ひとたび夢から覚めてしまえば、『万』という幻影に隠れた本物の乳――Manマンの乳が現れる。男のように乳がない、という痛切な想いがそこには確かにある。

 将来、枕を濡らさずにはいられない貧乳女性への鎮魂歌になることだろう。


「そ、そっか。じゃあご飯食べるか」

「うん、ありがとう」


 朝から腹筋背筋と逆立ち腕立て伏せの繰り返しでお腹が減っている。ちなみに汗は一滴も掻いていないからね。頭の方からドッとビュッと。


 時刻はすでに十二時。朝食を逃した俺はブランチを楽しむことに。和風造りの家には似つかわしくないブランチを食べながら優雅なひと時をすごす。


「そういえば、坊やのご家族には連絡済みだからね。勝手に携帯見たのはこの際許してほしい」

「あっ、ありがとうございます。何も見られちゃいけないものは入ってないんで大丈夫です」


 昨日の夕食時に現れたみにくいがっつきはどこへ行ったのやら。

 それにしても、俺、馴染んでるよなぁ。ここにいることが当たり前のように居座ってるもんなぁ。

 俺は渡の家に何をしに来たんだっけ? ……ああ、思い出した。


「ところで坊や、キミは何をしにウチに来たんだったのかな?」

「渡に授業ノートを見せに来たんでした。ご飯のお礼に、これ食べ終わったらたっぷり見せてやるよ」

「どうして休みの日まで勉強しなくちゃいけねぇんだよ」

「お前どうせ毎日やってないだろ。学校でもしてないし、いっつもいっつも俺の宿題ねだりやがって。……森田ァ、宿題見せて!! ……今の似てね?」

「ちょ、おま――」



 紘、こっちに来なさい。



 ゆうちゃんが何かを察したのかフォークをそっと机に置き、お口の中にあるナポリタンをモグモグしてごっくんと飲み込んだ。そして動かなくなった。視線はまだ半分以上残っているナポリタンに注がれている。食べたいんだろうなぁ。お口の周りにケチャップつけて、あー口モグモグしてるよ、ヨダレ垂れてきそうだよ。

 張り詰た空気が場を支配する。人間の放つ声とは到底思えない冷たい物言いは、室温を低下させ、空気を一瞬にして凍らせた。ビキッと空気が鳴る幻聴が俺には確かに聞こえた。

 あれは俺の認識の外にいる存在だ。悪魔なんて優しい存在ではない。

 自壊した人形のようにゆうちゃんは口だけを動かし、操り人形のように渡は糸に釣られて歩かされ、渡ママの前に連れていかれた。


「そこに座りなさい」


 糸がぶつりと切れ、渡が力なく正座する。


「あんた、ちゃんと勉強やってるって言ってたよね」

「し、してるってちゃんと。だから成績は悪くねぇだろうが、このクソババア」

「その口の利き方は何。いつもは大目に見てたけど、あんまり調子に乗るなよ」

「……ごめんなさい。……で、でも成績はちゃんと、悪くはないです」

「その通りだけど――ねぇ」


 ひぃい!? こっち見ないで死んじゃうから!?

 けっして睨まれているわけではない。渡ママは単純に俺に視線を運んだだけ。それだけなのに、形容しがたい異様なすごみがある。嘘をつけば容赦なく躊躇ためらいもなく殺される。

 ゆうちゃんが顔を青ざめさせてカタカタ震えている。でもナポリタンは食べたいんだね。とうとうヨダレが出てきたよ。 


「ねぇ坊や。さっさと応えたらどうなの」

「あ、はい、紘さんはまったく学校で勉強どころか授業すら――」

「ねえ、森田君、違うよね、ちゃんと勉強してるよね」


 俺に投げるな!? 助けを求めるな!? 確かに一人で対峙すると、メンタルが二度三度崩壊しても勝てる相手ではない。それだけはよくわかる。だから俺には無理なんだ、手に負えない。

 おい、目で訴えるな。訴えてくるな。

 鬼の形相で睨みつけたって無駄だ、お前の母さんの方が怖いからな。

 子犬みたいに瞳を潤ませて見つめてきても無駄だ、お前の妹さんの方が可愛いからな。……もちろん色仕掛けしても、む、む、無駄だからなッ!

 どこの家庭も母親は怖いもの。まるで家庭訪問時の俺を見ているようでこっちまで息苦しくなってきた。


「どこ向いてるの、紘」


 ミシミシミシミシ――。またもや幻聴が聞こえてきた。右手一本で渡の頭を握り潰そうとしているのか。必死に両手でもがいて抵抗するも、渡はまったく相手にされていない。首からギリギリと肌が粟立つ不協和音を響かせながら、向き直された。

 睨み合う親子、膠着状態が続く。


 ピンポーン。


 これももしかすると幻聴か? 来客用チャイムが鳴り響いた。


「あ、あいつもう来やがったか……よかった」

「そういえば、今日お客さん来るんだったね。……今回はその友達に免じて許してあげる。一緒に勉強するんでしょ?」

「そ、そうそう、そいつもノート見せてくれるらしくてよ。いやー持つべきものは友だね」

「それなら早く出てあげなさいよ。……ああ、いつまでも頭掴んでたら行こうにも行けないか」


 と言って渡ママは渡を解放した。ドタドタと慌てて逃げるように渡は玄関へと向かった。

 ゆうちゃんはいつのまにやらブランチを再開させている。もしかするとこの中で一番メンタルが強いのはゆうちゃんなのかもしれない。

 俺もゆうちゃんを見習ってナポリタンをひと口。あーちょっと冷めちゃったな、でも美味しい。これってオカワリないのかな。

 ――というか、俺はここにいていいの?


「クソババア、これ菓子折りだってよ」

「あらご丁寧に。できた子ね、紘と違って」

「……まあ確かにアイツはできた人間だよ。……ってか言い方にトゲがあんぞ、クソババア」

「へぇ珍しい。アンタが素直に褒めるなんてよっぽどね。ちょっとお母さんお茶の準備でもしようかしら。……こっちはわざと刺してんだよ」


 重い腰を上げて渡ママは台所へ。


「ちっ、聞こえてやがったか」


 俺とゆうちゃんは来客が茶の間に通される前にナポリタンを食べ終わるために、次から次へとバクバクと口に運ぶ。俺はここにいてもいいのか――という疑問はさておき、渡が素直に褒める人物ってのは俺も確かに気になる。どんな聖人君子が現れるのやら。出てけと言われるまでもう少しここにいさせてもらおう。


「ほら入れよ。中でまだメシ食ってるけど気にすんな。お前なら大丈夫だろ」

「うん、大丈夫。おじゃましまーす」


 背中に扉の擦る音を受ける。


「失礼します。初めまして、この度は紘さんにご迷惑おかけして本当に申し訳ございませんでした」


 丁寧でありながら、わざとらしく言わされている空気はない。誠心誠意謝っていることがよくわかる。

 さて、どんな人物だ? 声には聞き覚えがあるから、同じ学校の人だろうな。

 俺はナポリタンをムシャりながら振り返る。そして盛大に噴き出した。


「自己紹介が遅れました。私、紘さんと同じクラスの、安城寺聖来、と申します。以後よろしくお願いします」

「本当に礼儀正しくてウチの子にも見習わせたいくらいだ、わッ」

「いでぇッ!? なにすんですか!?」


 思いきり頭を殴られた、渡ママに。理由はわかる。吐き出したものはちゃんと片付けます。ウチの子でもないのにすみませんでした。

 というか全然聖人君子じゃなかった、とんでもない悪魔だったよ。


「こんにちは、森田くん。どうして渡さんの家にいるのかな。昨日メッセージ送ったのに返ってこなかったのって、渡さんとお愉しみだったからかな。私のことをほったらかしにして。一度ならず二度までも放置プレイとは、やってくれたわね。もしかしてまた私に蹴られたいの? 踏まれたいの? ののしられたいの? あらやだこれじゃドMの森田くんにとってご褒美になっちゃうわね。まあいいわ。ではさっそく、、でのことを皆さんに聞いてもらおうかしら。どうだった? 私のおっぱいの揉みごこ――」

「ご、誤解だ、昨日はフライパンで叩かれて。前は教室にわざと置いてったけど、昨日はやむにやまれぬ事情があったんだよッ」


 何から否定すればいいのかわからない。安城寺の登場で一気に変わってしまった空気に、俺はついていくことができない。


「ふーん、やっぱり渡さんとお愉しみだったんだ。フライパンで叩かれていたなんて、私もびっくりするほどの変態さんね。……さすがに引いちゃった。でもそんなプレイ中だったなら私の連絡に気がつかないのも納得がいく」

「……もうそれでいいや」


 一人で勝手に暴走して納得してふむふぬと頷いている。

 昨日の着信音は安城寺からだったのか。さしずめエロ本貸してとかそんな感じの用件だろ。鞄の中に一冊あるからそれをとりあえず見せてやることにしよう。何を持ってきたかは覚えていないけど。どうか安城寺のお気に召すものであってほしい。


「ところで、森田くんはどうしてここにいるの?」

「ま、まあ、あれだ、お前と同じで、ほら、勉強するんだろ、勉強!? この成績優秀者であるこの俺、森田俊平が、手取り足取り腰取り骨取り教えてやるからよ」

「そ、それって私たちのこと骨抜きにするまで攻め続けるってこと……?」

「どうしてお前はいつもそうなんだ、安城寺ッ!?」


 どこにいても安城寺節は健在である。

 悪魔の来訪を告げる家のチャイムを、俺は嫌いになってしまいそうだ。

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