第1話 露見する魔導書という名のエロ本

 ここから語るのは三日前から今日、今に至るまでのお話だ。

 一介の男子高校生であるこの俺、森田俊平もりたしゅんぺいがムッツリ田スケ兵衛を襲名してから少し先まで。思い出すだけでも忌々しい。自業自得といえばそれまでであり、不運だったといえば片がついてしまうような些細な出来事からすべては始まった。


 * * *


 三日前の金曜日、時刻は午前8時40分――朝礼開始5分前。

 教室内、黒板上中央に壁掛けされているアナログ時計の針が指し示している。長針と短針。そして秒針は一秒一秒一定のリズムを刻みながらも音もなく進んでいく。正しくは多彩な雑多音にかき消されていると表現する方が正しいのだろう。飛び交う挨拶、吹奏楽部による楽器音、廊下を走る学生、そしてクラスメイト同士による雑談。小さな、些細な音はかき消されるのは当然の摂理なのである。

 が、そんな雑多な喧騒すべてを何もかもをかき消すかのようにざわつきの塊が徐々にここ三年一組に近づいてくる。三年になって二週間たった今でこそ慣れたが、初めてこれを経験した時は何事かと身構えてしまった。今や懐かしい。


 ほら、やってきた。


 ざわつきの原因となっている女子生徒が教室の入口に。

 腰まで届く栗色の髪は柔らかに揺らめき、綺麗というよりも可愛いという言葉がお似合いの端正な顔立ちから溢れ出す笑みに誰しもが虜になってしまう。

 無論、俺も例外ではない。

 彼女のことを美人のひと言で言い表すのは気が引けるし失礼なので、控えめに言って、という枕詞をつけさせてもらう。彼女は控えめに言って世界一美人だ。ああ、思わず世界一とまで言ってしまったが、差し障りない、何一つ問題ない。


 安城寺聖来あんじょうじせいら――。


 その容姿と人当たりのよさで校内で圧倒的人気を博し、それだけでは満足することもなく、多方面で才覚を発揮してはさらに注目を集めてやまない。高校二年の時には芸能事務所からスカウトがあったという噂があったりなかったり。今では生徒会長を務め、誰もが認めるこの北川高校の頂点に君臨している。

 そのひと際目立つ存在が教室へと足を踏み入れる。と同じくして「おはよう」と微笑みながらおっしゃれば、教室内のすべては安城寺さんのもの。男女関係なくクラスメイトすべての視線、意識、感覚を独り占め。可愛らしい笑顔も一層輝きをはらんだものになる。


「相変わらず大人気だなぁ」

「森田ァ、一限の数学の宿題、見せて!」

「うおっ……なんだわたりかよ。ビックリさせんな」


 意識の外からの不意打ちにかなり……少し驚いたせいで、平静を装うこともできずに素直にビクンと体が跳ねた。


「今日もセイラちゃんに見惚れてたのか? 人を見る前に自分を見てみろって。ぱっとしない顔があんなカワイイ子の隣に並ぼうなんてムリだぞ。妄想することすらおこがましいって。そんなことよりさ、宿題見せてくれない?」

「……ん? 今、俺に頼み事してたのか。てっきり喧嘩売ってんのかと思った」


 席順が出席番号順のせいで、俺の隣に並ぶのは破天荒の代名詞こと、わたりひろ。三年になってからの友達で付き合いこそは短いものの、渡のフレンドリーさに甘えてよく話をするようになった。

 小顔を備えた身長174センチという高身長、脚長。清潔感のある短髪と持ち前の面構えルックスを活かしたコミュニケーション能力は群を抜いて高く、こいつもこいつでクラスの人気者。ただ、ご察しの通りちょっと不真面目な要素もあり、良く言えばムードメーカー、悪く言えばトラブルメーカーとしてクラスでは名が通っている。


 もし安城寺さんの隣に並ぶとすれば、渡のようなカッコイイ奴なのだろう。


 こんな奴に宿題を見せるのは癪だ。となると、さっきから散々右隣りから謝罪と懇願を繰り返している渡へのアンサーは決まりきっている。


「今日くらい真面目に宿題やれよ」

「頼むって、ホント、マジで、お願いぃ」

「……今日は先生に怒られなさい」


 渡は拗ねて自分の机に突っ伏した。一応、朝礼が終わったら見せてやるか。

 ——そう思ったのが俺の運の尽きだった。

 朝礼開始を知らせるチャイムが鳴る。

 安城寺さんの周囲にできていた人だかりが別れを惜しみながらも消えていく。朝から多くの人にもみくちゃにされようと、笑みに濁りは一切ない。それどころか登校した時より笑顔が生き生きとしている。毎日毎日朝から人にさらされる疲れや鬱陶しさは存在しないのだろうか。きっと人とふれあうことが大好きなんだ。俺も触れ合ってみたい、いろんな意味で。


 担任の保科ほしな先生がやってきた。


 長い黒髪を片ポニーに結っては精一杯の若作りをしている三十路までゴール間近の女教師で、絶賛婚活中と言いながらかれこれ三年経っているという。正直なことを言わせてもらおう。どうして婚活が難航しているのか理解に苦しむ。本当は結婚したくないのではと疑問にすら思ってしまう。程よく肉づいた体躯にはしっかりとしたメリハリがあり、おっぱいとかおしりとか出るところは出て、締まるところは締まっている。夜の方もきっと締まって……ごほんっ。とにかく大人の色気が半端ない。法と倫理が許すのなら、先生と生徒という禁断の恋を実らせてみたいものだ。最近イケメンとデートしていたという噂を耳にしたが、きっと嘘だ。絶対嘘だ。

 とにかくこのクラスでよかったとしみじみ思う。毎日ヤル気満々で授業に臨める。


「さてみなさーん、今日は抜き打ちの持ち物検査の日ですよー。カバンを机の上においてくださーい。時間もないからチャチャっと始めていくからねー」


 三十路まじかとは思えないほど若々しさに満ち溢れた声。ああ、耳元で囁かれてみたい。

 さて、恒例行事である毎週金曜日の抜き打ち持ち物検査。

 抜き打ちでもなければ、持ち物検査も名目上であり、形式的に行われているもはや形骸化された恒例行事には、緊張感がまるでない。それもそのはず。今時、今のご時世、鞄の中を無理矢理あさったり、ましてや鞄をひっくり返したりする先生なんているわけがない。もし先生がそんなことをしようものなら、すぐにPTAで取り上げられて保護者から激しいバッシングを受けることになるからな。

 さらに仮に荷物検査で持ち込み禁止物が見つかって没収されたとしても、下校時、職員室に反省文という引換券を持っていけばその日のうちにそれを容易に取り返すことができる。


 だから名目上で、形式的で、形骸化され、緊張感もなく事は淡々と行われる。


 例えばゲーム機が見つかったとしよう。見つかったところで、またお前か、またあいつか、と生徒はおろか先生も笑ってにぎやかに終わるのだ。ちなみにこれは先週、俺の右隣で勃発した出来事であり、二年になってからかれこれ一年も続けている悪ふざけらしい。三年になってからも続けることを右隣の渡は先生に宣誓した。

 だから今日もいつも通りやるのだろう。

 やはり渡は鞄を開いてニコニコしている。だが前回と違って目の奥がギラギラと輝いている。こういう時は関わりたくない。トラブルメーカーとして本領が発揮されようとしている証拠だ。触らぬ渡に祟りなし。


「はーい、森田君、渡さん、カバンの中見せてねー……渡さんっ!」


 俺は無事

 だが渡は堂々と、鞄を覗けばすぐわかるように、携帯ゲーム機を晒していた。保科先生に軽く小突かれて笑っている。それにつられてクラスメイトからも自然と笑いが起きる。

 ——が、俺は笑えなかった。嫌な予感がする。

 渡の笑っているその視線の先。ギラギラとした目つきで確かに捉えているのは俺の両目だ。ターゲットは俺なのか? 一体何をするつもりだ?

 俺は身構えるも遅かった。

 すでに火種は仕掛け済みだった。渡に宿題を見せなかったことで、怒りの炎とも言い難いちょっとした悪ふざけの火の粉が俺に襲いかかる。早めに宿題を見せておけばよかった。そうすればたかが火の粉のせいで大炎上することはなかったのに――。


「なァなァ、森田ァ、お前もなんか持ってんだろォ? たとえばやってない数学の宿題とかさァ!」


 ここで再度確認しておきたい。今時、今のご時世、鞄の中を無理矢理あさったり、ましてや鞄をひっくり返したりする先生はいない。だが、悪ふざけをする生徒がいなくなることはない。形式だけの荷物検査は——今までは。

 イタズラ大好きっ子顔負けの悪悪しいツラを俺に見せつけた渡は俺の鞄を手に取った――刹那、鞄を盛大にひっくり返した。

 鞄の中身は見る見るうちに机の上にお披露目されていく。そして、重力に抗っていた底も抜け落ち、最後の中身がとうとうお披露目のラストを飾った。重力に頑張って抵抗していた底のせいで、その中身が落ちるまでやや間があった。そのせいでそれはスポットライトを盛大に浴びてしまった。

 誰もが息をとめているかのごとき静寂が俺を苦しめる。

 唯一聞こえてくる掛け時計の秒針の奏でる音は、激しくなる心臓の鼓動とセッションするかのように鼓膜を叩き打ちつけてくる。


「きゃあぁあああああああああああああああああああっっっ!! ……うぅ」


 そうか、保科先生の婚活が難航する理由がなんとなく、少しだけわかったような気がする。今みたいなちょっとしたことで卒倒するからだ。

 このクラスでよかったとしみじみ思う――誰だこんなこと思った奴は。まあ、俺なんだけど。これは訂正するしかない、訂正させてくれ。


 渡の悪ふざけは最悪で厄災でカタストロフィー。

 保科先生は卒倒するくらい激しく甚だしいまさかのオーバーリアクション。

 先生が倒れたと職員室に駆けていくクラス委員長。

 何事かと他の教室からも野次馬がやって来る。騒がしくなる教室内で殺人事件でも起きたのかと勘違いしてしまいそうだ。有志により担架で運ばれる保科先生はピクピク痙攣している。ああ、ぜひ俺のことも保健室に連れていってほしい。


 鞄がひっくり返されてからわずか数分の出来事。

 この出来事があった瞬間、クラス内注目度ランキングは安城寺さんを抜いてトップを勝ち取った。


 * * *


 こうして魔術の書物エロ本が露見してしまったのだった――。

 少年誌見開きグラビアなら茶化されるくらいで済んだはずだ。でも俺が持っていた書物は、俺的には無罪セーフなのだが公的には死刑アウトであるのは当然のことで、R18であることが一発でわかる表紙に家庭教師という文字が羅列したものであり、保科先生には致命傷を与えるに十分すぎた。

 そもそもグリモワールを持っていくな、という話である。

 だけどわかってほしい。大好きなんです、エロ本が。大好きなんです、エッチなことが。グリモワールなんて言っちゃうくらい大好きなんです。毎日毎日二重底にして鞄の底に潜ませて高校に持っていっちゃうくらい大好きなんです。

 はてさてそれの何が悪い。

 開き直ってなにが悪い。

 思春期真っ盛りの男子高校生の性事情の一端が垣間見えただけじゃないか。いやいや何が悪いって、本当はわかっているさ。人目にさらされてしまったこと。高校に入学して以来欠かさず鞄に隠して持っていったグリモワールが、とうとう人目にさらされてしまったことだ。



 当たり前の高校生活の中にちょっとした刺激エロが欲しかっただけなのに。

 休み時間にタイミングを見計らって、こそっとエロ本読んでるだけでよかったのに。

 

 俺は、人知れずしてエロを堪能したいんだ。

 俺に限らず、似たような健全男子はたくさんいるはずだ。

 例えば、パンチラはあっても胸を揉むということはあってはならない。行為の当事者にはなってはならない。他人を鑑賞しても他人に干渉してはならない。偶発的に起きるラッキースケベにも越えてはいけないラッキーが存在する。越えてしまえば、俺にとっちゃアンラッキーだ。

 触りたい、ヤリたいと思うのは自由。だけど思考を実行に移してはならない。

 俺は、最低限の学校生活は保証されたいんだ。もし何かあって人に後ろ指さされて学校生活を送るなんてまっぴらごめんだからな。

 ただこっそりと、ひっそりと、満喫できればそれでいい――それでよかった。


 なのに、どうして、どうしてこんなことになっちまったんだよッ!!



 それにしても、こうして三日前の記憶をさかのぼっていると、存外、自分のことを他人事のように語れるものだな。今でこそこの語り調子だが、事実、当時の俺はこんなに冷静ではなかった。この時考えていたことを少しだけ白状すると――やばいどうしようどうしようどうしようやばいやばいやばいやばいどうしようやばやばやばいよやばいよどうしようやば――こんな感じだ。


「ちょっと聞いてんの? モッコリ田スケ兵衛くん」

「何をだ……って待て待て、安城寺。ムッツリ田だろ、モッコリ田ではなく」

「そうだったっけ? 、私に後ろから抱きつかれてモッコリさせてなかったっけ?」

「してない、断じてモッコリしていない。ざけんなよ。ホント勘弁してくれ。どうせムッツリ田からモッコリ田にはなるだろうけど、まだやめてくれ。ましてやお前から言うなよ、絶対に」

「それが人に頼む態度なの?」

「もし言えばお前の素性、全部バラしてやるからな」

「やってみなさいよ。あなたの妄言なんて誰が信じるかしら」

「誰が妄言を吐くっていったよ。俺は全部バラしてやるっていったんだ。俺が何を言おうと信用してもらえないかもしれないけどな、匿名でネットとかSNSにさらせば、一瞬でお前の素性なんて赤裸々にできるんだよッ」


 限界露出24時間視――と題されたグリモワールを両手で強く握り締めたままフリーズしてしまった。さすがに言い過ぎてしまったか。

 安城寺は唾を飲み、ひとつ深呼吸を置いてから喉を鳴らした。そしてひと言。


「意外とありかもしれない」

「この露出狂が」

「露出はしてない。露出するかしないか、そのギリギリを楽しんでいるの。もしネットに私の噂が流れれば、その噂は真実か否かというギリギリを堪能できる。さらにそんな状況下で――」

「もう言わなくていい。今回は俺が悪かった」

「ん? 何も悪いことはしてないじゃない?」


 もうバカだ。煎じるクスリはなさそうだ。こいつの真剣な目つきからは冗談を言っているようには見受けられない。

 ひっそりと自分だけの世界に閉じこもって事を堪能したいという俺の欲求に対し、安城寺は堂々と他人と共存する世界に溶け込んで事を堪能したいと欲する。俺は自分だけの狭い世界に閉じこもるがゆえに独りだけの自由空間を生成し、安城寺は自分を他者のいる広い世界に身を投じるがゆえに常に人の目にさらされる緊迫空間を生成する。


 辿り着く先は互いに快楽であることには間違いない。


 だけど、そこに至るまでの過程、快楽の味わい方が許せない。

 自分から危険を犯そうとする意味がわからない。俺の事件を知ってなお直そうとせずに、自分のスタイルを貫き通そうとしている。安城寺は俺と違ってすべてを持っているのに、そのすべてを犠牲にしてしまうかもしれないリスクを背負ってまで主義主張を変えない、それが俺は気に入らない。

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