第13話 グラン・グリモワール


 各休み時間ごとにわたりに宿題を見せ、見ているだけではわからないと言うのでいつも通り教えていると、たった十分という休み時間はあっという間に終わってしまった。

 四限目の現代文も登場人物をすべて女子に置換した上で、各々の心理描写を考え、そこから読み取れる筆者のエロエロいろいろな考えを考察していると、五十分なんて時間は瞬く間に流れ去る。ちなみに、登場人物も筆者も全員が変態になるという変態エンドがお約束。


 学内に響くチャイムとともに昼休みが始まった。

 購買部に向かおうとすると、「おい」とぶっきらぼうに渡に止められた。


「宿題見せてくれた礼に、飯くらい奢ってやるよ。お前いつもパンばっかり食ってるしな」

「うげ、気持ち悪ッ。今まで一回も宿題見せたからってお礼したことなかったくせに。何かたくらんでるわけじゃないだろうな」

「はあ!? ありがとうって言ってんだろうが! それに、べ、別に、何もたくらんでなんかねぇし」

「あやしさプンプン臭ってくるんだけど。本当にどうかしたのか? もしかして授業と宿題真剣にやりすぎたせいで頭イカれたとか」

「ち、ちげぇよ……こ、この前のお詫びもかねてだな」

「え、ごめん、聞こえなかった。もう一回言ってくれない?」

「てんめぇ……人の親切はありがたく受け取っとけって言ってんだよッ」


 さっきと言ってることが違うぞ、と聞き直すのは意地悪がすぎるか。


「ったく、人の気も知らねぇくせに。もういつも通り、焼きそばパンとメロンパンとコーヒー牛乳でいいってことだな?」

「そこは食堂でメシ奢ってください。……って俺の昼ごはんの献立バレてる!?」


 何コレ恥ずかしい。エロ本を選ぶときとまったく一緒の行動原理で、気に入ったものばっかり手に取ってしまうこの習性。母上に部屋のゴミ箱を片づけられた時くらいの気恥ずかしさはある。

 そこは察して触れないでほしいデリケートゾーン。

 メロンパンは菓子パン史上最高のエロさを誇っている。メロンパンという言葉の響きがそもそもエロい。なぜだか俺にラブジュースを連想させる。それに、大きさは程よく手に収まるか収まらないかくらいで揉みやすいおっぱいみたいだし、手に取った触感はふわっふわで気持ちがいいおっぱいみたいだし。しゃぶりついた時の食感は口の中に蔓延する適度な甘みと女の子のような香りが俺を天国へと導いてくれる。

 ちなみに『メロンパン』のことを『エロンパン』だなんて陳腐な発想は中学卒業と同時に捨てた。

 焼きそばパンとコーヒー牛乳は、メロンパンのせいで浮ついた気持ちをリセットするために飲み喰いしているだけ。焼きそばパンのモッサリ感とコーヒー牛乳の極度の甘ったるさが、俺の妄想を途絶えさせてくれる。これで午後からの授業も支障をきたすことなく受けることができる。

 

「まあ仕方ねえか。今日は特別だからなッ! そのかわり、今後もちゃんと俺のために宿題を見せるように」

「へいへい、わかりましたよー、紘ちゃん」

「ひ、ひろちゃんって言うなッ!?」


 あ、こういうイジリもありなのか。これはドSじゃなくてもドS心くすぐるな。

 頬を紅潮させている渡らしくないドギマギした姿からは、常日頃、孤高に振る舞う気高い様が微塵も感じられない。持ち前の男らしさは消え、今をときめく女の子に早変わりだ。

 まさか渡が俺の嗜虐心を煽ってくるとは。

 世の中ってのは何が起こるかわからない、最近つくづくそう思わされるよ。


「森田くん、渡さん、私も一緒していい?」


 ほんと、何起きるかわっかんないよね。

 いつも多くの友達に囲まれて弁当を食べている安城寺が、俺たちのことをランチに招待してきた、だと。

 無言の制圧によって否定的回答を試みる渡だが、安城寺はケロッとして気にも留めない。もう私ついてくの決定してるから、的な強制イベントが今ここに執行されようとしている。


 安城寺と一緒にお昼ご飯、ああ幸せ――ってなるわけがない。


 確かに、学校内カーストトップに君臨する安城寺様直々にランチに誘われることは大変光栄なことである――これがここ北川高校の一般常識なのかもしれないが、俺は勘弁してほしい。安城寺といると何かとトラブルに巻き込まれる。それにまたあの風紀委員にも悪絡みされる可能性がある。そう何度も耐えられるメンタルを俺は持ちあわせていない。

 今回ばかりは渡に加勢した方が何も起きずに済みそうだ。


「いいよね……ね?」


 返事を先延ばしにしている俺に苛立っているオーラを隠す素振りすら見せず、顔面を急接近って顔近いッ。

 そんなに顔接近させてきたら、まるで俺に興味があるみたいじゃないか、紛らわしい。お前が興味あるのって俺じゃなくて、俺のエロ本だろ。だったら別に昼まで俺と一緒にいる必要はないだろ。

 ……ちくしょう、ののしってやりたいけど、ここは学校。こいつの面目を潰すのは造作もないが、醜態をさらす苦しみを知っている俺はそうすることに心が痛む。何より同時に喜ばせてしまうことになりかねないのが癪に触る。この変態生徒会長め。

 あ、そっか、エロ本か。

 俺は鞄からスマートフォンを取り出し、メッセージを送りつける。放課後にエロ本貸してやる、と。


「よし、渡、食堂行くか」

「え、お前、安城寺どうすんだよ」

「放置プレイ」


 言葉と安城寺を置き去りに、俺と渡は教室を出た。

 この学校の生徒なら絶対に断るはずもない誘いを断った俺。もちろん盛大に注目を浴びたさ。俺も安城寺も。

 どうせ好きだろ、教室内の注目を一気に集めた上での放置プレイ。学校内において、安城寺の行動には常に人目がつきまとう。ならばそれを最大限に引き出した状態での放置プレイは、お前にとっちゃ昼飯よりも極上のオカズになるに違いない。

 どうだ、おいしいだろ。たっぷり味わいたまえ。みんな見てるんだ、どうせならもっともっと、はしたなくしゃぶりつきなさい。

 あれ、おかしいな。ドMの俺らしくない振る舞いだな、これ。


「森田すげぇな、安城寺にあんな仕打ちできんの、この学校でお前だけだろうぜ」

「朝礼前にその安城寺にメンチ切ってたのどこのどいつだよ」

「俺だけど、それがどうかしたか?」

「自覚なしかよ、このバカは。……ところで後ろが騒がしいな、何かはっ」


 振り向きざまにドロップキック、だと……!?

 振り向きざまにキッスではなく、キックだと……!?


 そうそうコレコレ、ドMの俺にこの痛み――と冗談めかしている余裕はない。

 俺は回避することができず、左下腹部へと飛び蹴りを入れられた。鈍痛が鮮明に身体を蝕んでいけば、俺をうずくまらせて起き上がることを許してはくれない。

 誰が、誰がこんなことを。

 体中を激走する痛みに悶えながら顔を上げられるだけ上げる。と、眼前にスカートがあった。裾が翻り、少しばかりめくれ上がる。ちょうど俺にしか中が覗けない絶妙なスカートの揺れ。

 ラッキースケベともう言わない。

 身に覚えのある光景。幾度と見たことだろう。慣れは怖い。興奮なんて微塵も覚えない。何のひねりもない。一芸ばかり披露し露出する。

 よう、メデューサ。反抗期ですか、この野郎。

 下着の方がよっぽどドキドキさせてくれる。今日は俺の買ってあげたパンツ履いてくるんじゃなかったのかよ、安城寺。


「――――ッ」


 訳も分からずに蹴られた俺は様子を気にかけるも、俯いているせいで長い髪が安城寺の顔面を覆い、肝心の表情を読みとることができない。だが、見え隠れする笑っていない口元を見るに、それだけでも彼女の心情を知るには十分すぎた。

 その鬼人の唇が何かを呟いている。声は単なる一定音として、かすみがかった低音が俺の鼓膜を刺激する。だから聞いているだけでは何を言っているのか理解できなかった。が、唇の動きである一つの単語を発し続けていることを読み取った。これは読唇術などと大層なものではない。単にこれは俺だからわかっただけ。彼女の唇は『エロ本』と何度も何度も口ずさんでいた。

 エロ本エロ本エロ本エロ本エロ本エロ本エロ本――。

 背後にまとう暗黒も呑み込む深黒な邪気の中にも『エロ本』という文字の螺旋が巻いて見えるようだ。

 目の前にいるのは、本当に安城寺聖来なのか。

 前傾に身構える姿勢は獣のごとく狂恐しく、吐き出される息吹は化物ごとく荒々しい。


「――――ッ」


 俺は悟った。安城寺は俺と同じく真に変態を突き進む者だから。

 今の安城寺はエロ本グリモワールに宿っている魔の力に体を支配されてしまっている。俺にも身に覚えがある。やめようやめよう、と強く思っていても止められない。それどころかやめようという否定的な心が俺の右手を背徳感からさらに加速させる。まさに悪魔に憑りつかれたかのように一心不乱に右手を動かし続ける。


 ――まさにそれに似たような状況が安城寺の身に起きている。


 むしろ俺の状況よりもよっぽど重症だ。

 朝からずっとエロ本を読むのを我慢し、昼休みになってやっと読めるかとおもいきや、放課後までのお預けを喰らう。やっとのところで理性を保っていたのに、俺がさっき中途半端に放置プレイというを与えてしまったせいで、理性が消し飛び、本能が悪魔を呼び寄せ安城寺に憑依させた。

 さらに安城寺には不運にも素質があった。ここまでてき面にエロ本グリモワールから魔力を引き出して己が身に取り込んでしまうとは。吸収過多で身を滅ぼしかねない。


 こいつを救ってやれるのは、俺しかいない。

 事情を理解している俺が悪魔祓いをしてやるしかない。


 立てずにいる俺をもどかしく思ったらしい。安城寺が俺の胸ぐらを掴んで無理矢理起き上がらせようとした。しかし男の俺を腕一本では締め上げることはできず、お互い中途半端な姿勢で顔を突き合わせる羽目になる。


「森田くん、早くして、もう我慢できそうにない」


 教室で顔を急接近させた時とは違い、煩悩任せな感情を今は抱いていない。

 一瞬だけ垣間見た正気がどうしようもなく俺に助けを求めて、闇落ち寸前、血走った瞳で訴えかけてくる。

 耐えられない苦しみに悶えるそのつらさ――俺はよく知っている。末期の禁断症状だ。今すぐに解放してやらないと、悪魔の呪刻に蝕まれて後戻りできなくなってしまう。


「森田に触れるんじゃねぇ!! てめぇ、よくも、よくも森田に――」

「わ、渡ッ、お前までヒートアップしてどうすんの、やめろって。それに安城寺は俺がなんとかするから!!」

「この手を離しやがれ、クソ野郎がッ」


 渡は俺の言葉に耳をまったく傾けない。口調以上にヒートアップしている手癖の悪さで、安城寺の手を俺の胸ぐらから強引に千切った。

 そして次の瞬間――、


「かはっ」


 と、命の源が絶たれた音とともに、安城寺は気を失った。

 打ち所が悪かったのかもしれない。壁に激しく叩きつけられた安城寺。男子並みの背丈を持つ渡に手加減なく突き飛ばされてしまっては、耐えられるわけがない。


 廊下に横たわる安城寺を見て、渡は動揺を隠せない。明らかに冷静さを欠いており、乱れる過呼吸が何よりの証拠だ。

 そして、たった一度の暴力が彼女のセーフティをはずす。

 暴力を振るうことに躊躇なく、長く伸びた脚を振りかぶって――、


「ごっ……うぅぇ。……おい、渡、ちょっと落ち着けって」


 ドロップキックの数倍は痛かった。陣痛ってこれの何倍痛いんだろ。女の人ってすごいと思う。マジ神秘。だから俺は将来産婦人科医になってその生命という神秘が誕生する瞬間に立ち会いたい。

 ――ダメだ、気を逸らして紛らわそうとしても痛いものは痛い。

 とっさに安城寺をかばったはいいものの、蹴りを受ける場所まで考慮する気力は俺に残さていなかった。右下腹部に入った蹴りは内臓にも直撃するほどめり込んだのか、体の芯から強烈な痛みが襲ってくる。一瞬、食道の奥から生命の神秘を誕生させかけるも、昼食前だったことが幸いした。

 ――ダメだ、内臓破裂してんじゃねえかこれ。

 咳き込むことさえ許されない。堪えきれない涙と吹き出す汗が頬を伝って流れ落ち、床に水滴を幾度となく弾けさせる。

 視界がふらついて意識が飛びそうだ。でも、まだ倒れるわけにはいかない、俺にはまだやらなければならないことがある。

 とりあえず俺はカーディガンを脱いだ。


「これで、よし」

「す、すまねえ、森田、こんなことするつもりじゃ――」

「俺はいいから、後で安城寺に謝っておけよ」

「……ごめんなさい」


 倒れた安城寺のスカートの中を覗かれないように、自分のカーディガンで申し訳程度に覆ってやった。傍から見ればなんて紳士的な行動。本来なら女性のことを考えての行動なのかもしれない。まあ俺の場合は、メデューサを人目にさらすわけにはいかないから渋々ってところだ。


 騒ぎが騒ぎを焚きつけ、駆けつけた教師陣。

 やることをやって気が抜けた俺は、仰向け大の字に力なくぶっ倒れた。

 天井が少しずつ遠くなっていく。


 魔王の禁術書グラン・グリモワール――。


 わずかに限られた適応者に対して高い同調を示し、正気を狂わせる。一般人、ましてや人格者すらも変質者へと変貌させてしまう。人間の下心を巧みに操り、もてあそんでは狂わせ、人生を破滅の道へと誘い込み追いやる。

 それはもはやただの魔術の書物グリモワールではなく、俺は、魔王の禁術書グラン・グリモワールと呼んでいる。

 今回のエロ本グリモワールは、俺に干渉することはなかったが、安城寺にとってはまさに禁術書の類だった。昨日俺の家で見せたときに、妙に食い入るように見ていたことに気づいていれば。

 あれは安城寺にとって危険なものでしかない。とにかく家に帰ったら押し入れに封印しよう。


 目の前を渡の顔が覆った。一生懸命に何か言ってはいるが、頭に言葉が入ってこない。ただ、落ちてきた涙が、渡が後悔にさいなまれているということを痛烈に物語っていた。

 涙を拭ってあげたいが、これ以上何かをする気力が湧いてこない。動くことはおろか、喋るために口を動かすことさえも。かろうじて呼吸をするのがやっとなのに、心臓は慌ただしく鼓動を打っている。きっと俺が生きている証拠なのだろう。


 俺の記憶はここからは定かではない。


 なんとなく、渡が先生に弁解しているところまでは覚えている。

 補填すると、あの場の事後処理は保科先生が先立ってしてくれたようで。俺は担架で保健室に運び込まれしばらく、一時間ほど気を失っていたらしい。女子の蹴り一発ごときでやられるとは、我ながら情けない。

 安城寺はまだ眠りから覚めていない。涎を垂らして熟睡しているという。

 手を上げた渡には一週間の停学処分が下され、俺はのちに厳重注意を受けるらしい。事の発端である安城寺はお咎めなしということで、今回の騒動は幕を閉じた。


 ――と、目覚めた保健室で、保科先生が教えてくれた。

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