第8話 グリモワールの調達者

「右手が恋人の童貞よ……間違えた、愚弟よ! 今日はさらに三冊追加だ!」

「右手が恋人ってのもちゃんと訂正しろ!」


 唐突な轟音とともにドアが開かれたかと思えば、俺には何度も聞き覚えのある口上とともに、今最高に顔をあわせたくない奴が現れてしまった。

 蹴破られたドアの向こうに仁王立ちしているクソ兄貴。

 大学を卒業して社会人になっても何も変わらない。彼女の一人でもできれば少しは大人しくなってくれるのではと期待したが、彼女ができてもこの一本調子で困ったもんだ。彼女の前でもこの調子なら、その彼女も極上の変わり者、つまりは変態に違いない。


 さて、安城寺はといえば、音と兄貴の登場と兄貴の発言、何に驚いたのか定かではないにしろ、一瞬身体をビクンとしてから、姿勢を正したまま膠着してしまった。

 俺と向き合って座っているせいで、安城寺の瞳は自然とこちらに向けられる。じっと見つめられて緊張で俺の体まで固まってしまいそう。俺の体のドコからナニまでは固まっていない、それはすでに確認済み。


「シュ、シュン、てめえッ!? 女ァ連れ込んで何してやがる!?」

「何もしてない。ただ家に来たいって言うから連れてきただけ」


 新たなエロ本グリモワール三冊を大事に抱えながら、兄貴は後ずさりして廊下の壁に激突していた。そのまま尻もちをついて、目を何度もパチパチと開いては閉じ、現実を疑っている。動揺してもグリモワールを手から離さないとは。さすがはクズ兄貴、同じ親を持つ以上血は争えない。

 生まれて初めて自分の部屋に女の子を連れ込んだ俺。

 だけど安心してくれ兄貴。こいつはただの変態さんで、露出狂で、ノーパンノーブラで、誰もが疑いようのないほどの美貌を持ち……上げれば上げるほど危険なニオイが。でも俺たちは兄貴に勘違いされるような間柄ではない。『あるじと使い魔』の関係でしかないから。


「まさか、ドドドドドド童貞卒業したのか!?」

「やかましいッ! 廊下で叫ぶな、母さんたちに聞こえちゃうだろうが!! ドドドドドド階段上ってきちゃうから!!」

「……失敬失敬。それでは失礼」


 珍しく空気を読んでくれた兄貴はそっとドアを閉めてくれた――


「いやいや出てけよ。どうしてそこまで空気読めて、もう少しができない。あともう少しだけでいいから空気読んでくれよ」

「いいじゃねえか。せっかくだし、俺にも紹介しろってんだ」


 ドアを閉めてくれたまではよかったが、どうして俺の部屋に入ってくる。

 さっきまで後ずさりしてた人間と同一人物とは信じ難い俊敏な動きでヌルッと部屋の中に侵入してきやがった。

 身体の膠着から解放された安城寺は、落ち着きを取り戻して他人行儀に我関せずみたいな態度。しれっと長い髪を指先でクルクルして遊んでいる。


 ここでまたしても轟音。

 次は兄貴がフリーズしたまま動かなくなった。


 兄貴はいきなり机に両手を叩きつけたかと思えば、体を前のめりにして不自然な体勢で動きを止めたのだ。鼻先と机の距離、わずかに数ミリ程度、最後に「パンツ」と吐いて息を引き取った――次の瞬間、ふたつの鼻の穴からたっぷりと空気を吸い込んだ。

 机の上にはプレゼントしたパンツが置きっぱなし。

 ――けっして脱ぎっぱなしではない。これ重要。さらに付け加えると、これ新品。

 パンツの匂いを嗅ごうったって無駄だからなッ。

 真正の変態であり、魔術の書物エロ本の調達者。中学三年の秋、受験勉強も佳境の頃、俺に『エロのいろは』について書かれたグリモワールを初めて持ってきたエロスの先駆者。高校生の時に群を抜いて変態だったために『モッコリ田』というあだ名をつけられた自称伝説の勇者。

 こんな兄貴に安城寺を紹介してたまるか。さっさと出ていってもらわなければ。


「兄貴、あとから事情説明するから、やっぱり今は出てってくれないかな」

「それって今から、お、お楽しみタイムが始まるからなのか。おいコラ、となりに俺の部屋があること忘れんなよ。盗み聞きして俺もお楽しみタイム始めちゃうぞ」

「だだだ黙れよ、クソ兄貴!! 女の子の前で何言ってんだよ!!」

「俺の穴獲るなよ。間違えた、俺の穴掘るなよ。また間違えた、俺をあなどるなよ。大学生時代には、エロ貴公子エロ男爵エロ将軍と三大称号総めしたこの俺、森田一輝をな!! たとえ女の子が目の前に存在しようと、俺はためらわない!!」

「それ初耳。大学生の時なにしてたんだよ。さっさと逮捕されてしまえ」

「犯罪はしていない。清く正しく美しくは守っている。エロ本を買うのは必ず午後十時以降、エロ動画を見る時は両親が寝静まってからスタート、弟に様々な宝を授ける時は消臭スプレーで臭いを消してアルコール消毒を済ませてから譲渡する」


 兄貴から毎日毎日逸話を聞かされている俺だけど、まだまだ知らないことは多いらしい。エロ本のアルコール消毒ってどうするんだろ? というか消臭スプレーを使うくらい何かの臭いが付着してんの? だからアルコール消毒もしてんの? いったい何をこすりつけてんだ!? やっべえ、気になる。そんでもって知りたくない。

 ——じゃねえよ。今は顔だけはそこそこイケメンなエロ貴公子をなんとしてでも追い出さなければ。


「は、はじめまして、俊平くんのクラスメイトの安城寺聖来といいます」


 って思ってんのに、自己紹介を始めないでくれ。相変わらずのタイミングでブチ込んでくるな、この女は。もしかして、実は、エロ男爵と話がしたいのか。エロトークに花を咲かせたいのでしょうか。


「俺は森田一輝いっきだ。よろしく……よろしく」


 右手を出しては引っ込めて、改めて左手を出したのはいったいどうしてだ。よろしくと言い直してまで差し出す手を変えたのはどうしてだ。握手の前にお得意のアルコール消毒でもしてこい! とくに右手な!

 さすがに安城寺は兄貴の左手を取ることなく、苦笑いで終わらせた。

 握手をしてくれなかったことに疑問を抱く兄貴は肩をすくめる。が、まったく何に疑問を抱く必要があるのか俺には理解できない。理解もしたくない。

 兄貴が俺のことを睨みつけてくる。握手してくれなかったのは俺のせいとでも言いたげな視線にどう対抗すればいい。そうだ、消臭スプレーで撃退しよう。

 

「ところでセイラちゃん、知ってるかい? こいつ、自分のお気に入りのエロ本、枕の下に隠してるぜ?」

「ふざけんなよゴミ兄貴ッ、俺にやつあたりかよ!? 腹いせも大概にしろ。そんでもって――」

「はい、見つけました! いい趣味をお持ちで」


 あらあら安城寺さん、いいお返事だこと。

 俺が『彼女とやる時は体外にしろ』と続けようとしたところ、安城寺の無邪気な返事で一発ブチ抜かれた。

 枕下のエロ本はすでに発見され机の上に。

 パンツの存在感が半端なく強すぎて兄貴は気づかなかったのだろう。男は欲情駆り立てられるモノには抗えず注視してしまう。その時、周囲はわずかにも見えなくなってしまう。これがかの有名な男の本能を利用したミスディレクションなのか。

 

 安城寺に『いい趣味』と言われたグリモワールのタイトルは露出定番モノでまさに彼女の守備範囲であり専門分野。むしろ守備というよりは攻めの姿勢がよく似合う得意分野というに相応しい。

 そして守備範囲外からの返答という名の攻撃を受けた兄貴は、返答に困って「あは、あはは」と薄ら笑いを浮かべている。

 あのエロ将軍と名高いゴミ兄貴が圧倒されている。変態ベースの会話では軍配を我が物にできなかったことはないと豪語しているゴミ兄貴が、引き攣った表情を隠せずにいるだと。


「こ、こいつ毎日学校にエロ本持ってってんだぜ?」

「私も驚くくらいの目立ちたがり屋さんのようで、この前はクラスメイトに見せびらかせてました。しかも担任を卒倒させて保健室送りにしました」

「そそっそそそそんなことを……ってそれは昨日の夕飯の時に聞いたな」

「こんのクソ兄貴ッ、思い出したくもないこと思い出させやがって。さっさと出てけよ。ガミガミひがみやがって。どうせ俺が家に女の子と連れてきたからって嫉妬してんだろ!」

「し、嫉妬なんてしてないし? というかさ、セイラちゃん、こいつと二人きりでいたら襲われるぜ? 俺さ、いた方がいいよな?」

「大丈夫ですよ! すでに今日、ランジェリーショップの試着室で背後から襲われました! 激しく抱かれました!」

「語弊ッ!? 語弊しかないから、その言い方!! 何が大丈夫なのかわからなくなるからな!?」

「へぇー、言い訳するんだー。私の下着姿どころか全裸もガン見してたくせに」

「全裸は見てないッ!」

「じゃあ何を見たんですか」

「後ろ姿を……なんでもないです、ごめんなさい」


 やばい、言い訳はやめた方がいい。すればするほど墓穴を掘ってしまう。


「家族以外の異性に裸見られるの初めてだったから、ドキドキしたよ」

「だから違うって、お前――」

「あっ、そっか、今日が初めてじゃなかったね。金曜日にもう見られたね、学校で」


 安城寺の『学校で』という語尾を強調した言い方は、すでに怒りアングリーを忘れて口をアングリしてダンマリを決め込んでいた兄貴をノックアウトするには十分な威力だった。

 とどめを刺したのは、まさに『学校で』という締め台詞であり、創作物中だけの出来事だと思っていた兄貴にとって、現実でも『学校で』というシチュエーションが成立するという衝撃には耐えられなかったらしい。

 人間味のないうめき声をあげながら、兄貴は床を這って部屋から出ていこうとする。エロ本三冊をちゃっかり持ち帰っているのを見るに、俺への復讐には余念がないようで、これからはしばらく提供が滞りそうだ。

 さらば、兄貴。隣にある自室にご帰還召されよ。


 何はともあれ久しぶりの二人きり。ちょっとした沈黙のあとに安城寺は控えめに笑い始めた。かと思えば、その微笑みに悪意が入り混じっていく。


「ちょっと、森田くん、そこはダメ、もっと優しくさわって……いやっ」


 壁ドーン。隣にある兄貴の部屋からの強襲。俺たち兄弟の部屋を仕切る壁って喋り声が筒抜けになるほど薄かったのか。今後気をつけなければ。


「私、初めて壁ドンされた」

「もうお前の行動には驚かされないよ。ったくよ。お前って奴は」

「私ってやつはなんの?」


 長い髪を耳にかけながら安城寺が俺の顔を覗きこんできた。

 優美なラインを描いた両腕、その先にある小さくて真っ白な手を優しく床について、俺にゆっくりと身体を這って寄せてくる。気がつけばすぐ隣にいて、肩と肩が触れ合いそうな、少しでも気を許せば押し倒してしまいそうな。

 ——そこに、すぐ側に、彼女がいる。

 タートルネックで胸元を覗くことができないのに、視線は迷いなく胸へと直行してしまう。下着姿を見ても男として興奮しなかったはずなのに、今は確かに――。

 覚えのあるほんのりとした甘い香りが俺の鼻腔をくすぐって、本能をさらに刺激し暴走寸前まで追いやろうとする。

 手を出してしまえ、抱き締めてしまえ、唇を奪ってしまえ、と。

 彼女の下着姿を思い出してしまう。あの艶やかで滑らかな肌や下着に隠れた美乳をもう一度見たい。そして触ってみたい。


「はーい時間切れでーす」

「え、あ、そっか、時間切れか」

「もう少しで、キス、できたのにね。残念でしたー」


 冗談でからかわれていたと理解していても、胸をギュッと締めつけられる痛みが俺の中には確かにあった。

 本能と理性の板挟みで味わう正常な痛み。

 これからは絶対に一時的な感情で払拭されない鋼の心、抵抗心をもたなければ。俺にはエロ本で遊んでいるくらいがちょうど。自分の身の丈にあった振る舞いをしないとな。

 こいつは露出狂で、人をからかって楽しむ変態鬼畜系女子。

 だけど、高校では俺とこいつの住む世界が違う。

 どうしてだろう。今さらになって急に現実に引き戻されてしまった。


「お前もう今日は帰れ。このエロ本持ってっていいから。あとパンツもちゃんと持ち帰るように」

「じゃあ履かせてよ? ほらほら」


 俺はパンツを手に取ってビニール袋の中にしまった。

 心身ともに疲弊しきっている俺にはもう安城寺の冗談に付き合ってやる体力は残っていない。


「ちゃんと持ち帰れよ。捨てんじゃねえぞ。じゃあな」

「えーまだ帰りたくなーい。晩ご飯ごちそうになれないかな?」

「なれないから――」


 俺が続けて、いいからさっさと帰れ、と安城寺をあしらおうとすると、タイミングよく家中に来客用チャイムが鳴り響いた。夕飯前のこの時間帯に来客とは珍しい。

 一階がドタバタと騒がしい。

 と思っていると、続いて階段から足音が徐々に駆けあがってきて、


「俊平、保科ほしな先生が来られたわよ。さっさと来なさい」


 などと開け放たれたドアから母上がおっしゃるもんだから、とりあえず決まり文句をひと言だけ添えておこうと思う。


「ドア開ける時はノックしてって言ったよね!?」


 ナニゴトデスカアァアアアッッッ!?!?

 今世紀最大のハプニングが連日立て続けに更新されてたまるかッ!!

 ―――――――――思考停止―――――――――

 ―――――――――リロード―――――――――

 ――――――――― 復旧 ―――――――――

 がはっ、状況整理。エロ本を机上に広げて、見てくれだけは可愛い女の子が俺の隣にいて、その子にパンツ(の入った袋)を渡そうとしていて、その一部始終を母上に目撃されて、下にはなぜか保科先生がスタンバっていて、俺はテンパっていて。


 問1、上記の状況を乗り切る方法を導き出せ。

 正答、母上に従って裁判の場に赴く。

 解説、我が家は母上が最高権力保持者なので、従っておけば問題は起きない。

 つまり、問題が起きない以上『問1』を解く必要はなくなる。解答は問題あってこそであり、問題が解消されれば必然的にすべては丸く収まる。


「安城寺、そういうことだから今日はもう帰ってもらえるかな?」

「あら俊平。せっかくだから彼女さんにも晩ご飯食べていってもらおうと思ってたのにわざわざ帰ってもらわなくてもいいじゃない」

「安城寺、そういうことだから今日はご飯食べてってもらえるかな?」

「え、いいんですか! ありがとうございます、お母さん!!」

「やだもう、お母さんだなんて恥ずかしい」


 あははははははは! あははははははは! あははははははは!

 あがうわぁあああああああああああああああああああああああ!

 ……はぁ、人間の闇鍋状態だな。なんでもかんでも混ぜればいいってもんじゃないんですよ、何年主婦やってるんですか。あなた料理得意でしたよね。


一輝いっきもおりてきなさいよ、夕ご飯にするわよー」

「だからなんでも混ぜるなって」

「何か言った?」

「今日の夕飯はなーにかなー」


 最後の晩餐。あんたはおばさん。俺はおばさんに降参ッ、ヒェッ☆

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