第2話 邂逅する魔術師と悪魔(1)
三日前、あの日起きた事件はひとつだけではない、もうひとつ起きたんだ。
もしグリモワール露見事件が起きなければ起き得なかった事件。これは大衆野次馬にさらされることはなく、俺と安城寺、二人だけのあいだで誰にも知られずにひっそりと起きた秘密の事件。強烈で鮮烈で、ただのクラスメイトという距離感を一気に縮めるどころか距離という概念そのものを破壊した。
* * *
深呼吸をして息を整えていると、不思議なことに昼休みを迎えていた。
今から一時間目が始めるんじゃないのか……?
教室内の掛け時計を何度確認しようが事実は変わることはなく、十三時を少し回ったところだった。
混濁していた意識が覚醒して正気に戻るまでに時間がかかった、と考えるのが妥当らしい。四時間も昇天したままだったとは、卒倒した
さて、冷静になって状況を確認してみよう。
俺の視線を感じた女子たちは死んだ魚も顔負けの死線をよこす。一方で男子たちは女子たちの死線の餌食にならないように俺のことを見向きもしない。言うまでもないが、俺に話しかけてくる物好きはいるまでもなく。
これが社会的抹殺というのか。
黙殺や視殺からの耐えがたい空気による圧殺。高校という社会における味わいたくもない苦い苦い三重苦を噛みしめれば、どうしようもなく喉が渇いていることに気がついた。登校してから何も飲んでいないのだから当然と言えば当然だ。社会的には死んでいても俺の体は確かに生きている。
とりあえず自販機にでも行こう。
いつもこの時間に向かうは購買部だけど、今はこれっぽっちも食欲はない。靴ではなく苦痛を履き、服を着こなすのではなく不幸を着こなす。そして席から立ち上がれば、嫌でも体が重いことがわかってしまった。
廊下を歩けば、もう噂が広まっているのか、囁き声や聞こえてくる。まだ内容が聞き取れないだけましか。後ろ指も指されているような気がする。これからこれが日常茶飯事になり、陰口が陰口ではなくなり、結果、やはり社会的抹殺が俺の行く末に待ち受けているというわけだ。
人の噂も七十五日。では七十五日を超えて噂されれば、それは噂ではなく伝説となって語り継がれるのだろうか。噂というマイナスイメージの言葉も伝説と言い換えてしまえば、いささか気分がよくなる。
「きゃっ」
「す、すみません」
いつもより視線が下に傾いていたせいで注意が散漫になっていた。今日ばかりは、わざと視線を下げて女子のナマ脚、黒スト黒タイツ、ニーソにニーハイ、稀にルーズソックスを見て鑑賞していたわけではない。断じて。
そもそも靴下って下着?
さすがにこれは大袈裟かもしれない――が、靴下も肌着だという前提を頭の片隅にでも置いておけば、靴下に対するエロみが少し増すと思うのだがどうだろうか。今日のあのコは黒、白、シルクではなく綿、だとか。これはもちろん、おパンツの話ではなく、靴下の話だ。
黒ストやニーハイ等の靴下関連に極度に欲情する人は本能的に靴下を下着、肌着だととらえているから興奮するのではないか、そして素足はノーパンノーブラと同等である、という結論に至るまで数日にわたって考え抜いたことが今では懐かしい。確か高校一年生の夏休み前、衣替えも完了した頃だったな。ああ、もし相手がいて時間があれば語ってみたい証明過程だが、とてつもなく長くなるのでここでは省く。
なぜならぶつかった相手に誠心誠意、謝罪しなければならないからだ。
「本当にごめんなさい」
深々と頭を下げると、相手はスカートをバッと勢いよく手で押さえつけた。何かから中を覗かれないように。俺は覗こうとしていたわけじゃないよ、ホントだよ? 顔の真正面にスカートがあるけど。布一枚隔ててヒミツの花園があるけど。
俺も彼女の手に負けないくらいの勢いで頭をあげた。
そこでようやく誰にぶつかったのか知った――
「き、気にしないで! わたしこそ、ちゃんと前、見てなくて」
「いいんです、いいんですよ、安城寺さん。俺だって全然、これっぽっちも、これっぽっ……ちも前を見てなかったんで、本当にごめんなさい。ゆるしてください。勘弁してくださいぃいいい」
「全然気にしてないからいいよ!? それにどうして敬語なの、森田くん?」
「え、あ、いや、その」
天使だ。女神だ。ヘスティア様。アフロディーテ様。
思いつくだけの言葉を並べてみてもまだ足りない。こんな俺のことを許し、それに俺のことを知っていてくれた。俺にはもったいないほどのぬくもりで瞳を見つめ返してくれる。この優しさは今の俺には熱すぎて、背中がむず痒くなった。
安城寺さんは口ごもってしまった俺に優しく「じゃあまた教室でね」と言うと、自分の胸の前で小さく手を振り柔らかく微笑んだあと、甘い残り香を置いて横をさらりと通りすぎていった。
ぶつかった相手が安城寺さんでよかった。唯一今日の救いだ。
――と思うも束の間、晴れた気分は瞬く間にドン底に落ちる。
安城寺さんと話をしたせいか、おかげか、周囲の囁き声がクリアに聞こえるようになった。今まで無意識のうちにフィルターをはさんでいたらしく、彼女の声がそれをこれまた優しく剥がしたのだ。無防備になった耳からガンガン攻めらたてられる。耳攻め囁きボイスなら気持ちよくもなっただろう。が、世の中そんなに都合よくできてはいない。
やっぱり俺の噂は知れ渡っていた。
ほとんどが「最低」や「最悪」と単純な言葉だが、その単純な言葉ほどグサグサと容易に突き刺さる。心に。心に。心に。悪辣辛辣なフレーズも聞こえてくる。その中でも『ムッツリ田スケ兵衛』という明らかに俺の名前、
もう自販機に行く気すら失せた。
教室に戻り、自分の席に座る。学校生活、残り一年間、俺の居場所はどこにもなく、針の
時は放課後になり、生徒指導室に呼び出された俺と
生まれて初めて書く反省文。一体何を書けばいい。
不肖森田俊平、この度はエロ本を学校内に持ち込んでしまい、大変深く反省しております。申し訳ありませんでした――ふざけろ。反省文なんてただ書くだけでまったく意味のない定型文だと思っていた。だけど、これは……これはひどく酷だ。羞恥心と自尊心が信じられないくらいに侵される。エロ本もといグリモワールは俺の宝物、それについての謝罪をどうしてしなければならないのか。それに反省文にエロ本って書くのにも抵抗がある。ここは卑猥な書物に書き直しておこう。
俺が消しゴムを手に取ると、隣から椅子が床に擦れる音が聞こえてきた。
「じゃあ、先に行くわ」
毎週反省文を書いて慣れているのか、早くも書き終えた渡が立ち上がっていた。
「あ、あのさ、森田、朝のことなんだけど――」
「うるせえよ。さっさと行けばいいだろ」
「ごめん、わるかった。悪気があったわけじゃないんだ」
悪かったと言いながら悪気がないとはよく言えたもんだな。
「それに、それにな、実は俺、森田に――」
「もう黙ってくれよ。それに反省文書き終わったならさっさと出してこればいいじゃんか。俺なんかにかまってないでさ」
「……ちッ」
舌打ちしたいのは俺の方だ。
「じゃあ、行くわ」
「…………」
何かガツンと言ってやろうか思ったが、プライドが邪魔をした。無用な気遣いに腹が立つ。話しかけてくれて嬉しかった自分に腹が立つ。そもそも渡が余計なことをしなければ、今日という一日は昨日までと同じように何もなく終わったはず。元凶に同情されるほど屈辱的なことはない。そんなプレイは誰も望んでない。
渡が生徒指導室出ていった。悲壮感漂う後ろ姿を見るに、反省はしていることはうかがえた。もっとも許しはしないけど、心の片隅には留めておこうと思う。
さて、怒りに身を任せて筆を進めよう。
五分後、十分後、十五分後――。
なんとか原稿用紙の半分まで書き上げることができた。それからさらに十五分後にようやく完成させた反省文に感動を覚えたのはここだけの話。反省文というよりはエロとは何かについて熱弁してしまった感がいなめない。
この反省文を渡せば、没収されたグリモワールが返ってくる。
手放すのはもったいない気もするけど、ここは仕方がない。
しかしここで問題が発生する。誰が俺のグリモワールを所持しているか、だ。通常なら担任である
しかし、俺が行かずに誰が行く。俺が聞かずに誰が聞く。
俺は満を持して部屋から飛び出した。待っててくれ、マイスウィートハニー、俺の心を癒してくれるのは今やお前しかいないんだ。
——というわけで、反省文を保科先生に提出すると、グリモワールが返ってきただけでなく、とんでもないオマケまでついてきた。
「というか、後日の三者面談ってなんだよ、家でも針の筵かよ、むしろ家での方が扱いひどくなりそうだよ」
グリモワールを生贄に捧げるからと保科先生に懇願しても三者面談を回避することは叶わず。なぜなら、保科先生はすでに親と連絡を取り、日程を調整してしまっていたのでね。今日はもう家に帰りたくない。
とぼとぼと誰もいない廊下を歩く。窓から差し込んでくる夕陽は、どこか寂し気でどこか美しく、まるで異世界にいるような雰囲気を醸し出してくれる。自分だけが異世界に迷い込んでしまったという錯覚に陥ってしまう。ああ、家に帰りたくない。
本当に異世界へと迷い込めたらいいのに――。
中二病さながらの思考に苦笑してしまう。俺は異世界に興味はない。興味があるのは異世界ではなく、異性や快だ。
とはいえ、現実逃避の手段として今の状況を異世界と捉えてみてもおもしろい。
回収したグリモワールを鞄から取り出し、適当なページを開いて、頭をよぎった呪文を唱えてみた。
「エロイムエッサイム、我は求め訴えたり……やべ」
思わず空気に流されてやってしまったが、これは満場一致で自殺行為だった。誰かに見かけられでもしたら……って今さらか。
——と思った瞬間だった。
視界の先に生徒が現れ、こちらに歩いてくる。おそらく少し先に行ったところにある階段からやってきたのだろう。グリモワールはとっさに鞄の中に隠したので心配ご無用。この距離から出はエロ本と悟られることはあるまい。
あれはもしかすると、安城寺さんでは?
互いが距離を縮めたことで顔を認識した。どうやら安城寺さんも俺に気づいてくれたようで、昼休み同様、胸の前で控えめに手を振ってくれた。今回はそれにならって俺も手を振り返す。
「森田くーん、今から帰るなら一緒にかえらなーい?」
「うぇええ!? 俺と!? どうしてまた!?」
「理由はとくにないけ――」
安城寺さんが何か言葉を続けていたことはわかった。
だけど両目から入ってきた情報量が膨大すぎたせいで、音による情報はすべて遮断された。脳内では視覚情報が飽和し、思考を凍結させてしまう。思考が情報に追いつかずに情報がただひたすらに錯綜する。いや、もしかすると呼び出してしまった悪魔のせいで思考停止に追いやられたのかもしれない。
エロイムエッサイム、我は求め訴えたり。
つい数十秒前に思わず口ずさんでしまったフレーズ。これは
今ここに確かに悪魔が降誕したのだから。異世界には行けなかったけど、異世界の魔物をこちらの世界に顕界させることはできた。
ギリシャ神話に登場する有名な怪物――メデューサだ。
昼休みに顔の正面、スカートという布一枚隔てた向こう側にあったのは、ヒミツの花園でもユートピアでもなく、悪魔の潜む魔界かディストピアか。
こうして運命の三秒が風とともに吹き抜けた後、夜の帳が下りて、スカートは再び定位置へと戻ったのであった。
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