第10話 家庭訪問と恋のキューピット(2)
「本当にうちのバカ息子でいいのかい?」
「とんでもないです、これからよろしくお願いします、お父さん」
「お、お父さん……だと!? か、母さん、僕たち夫婦にも、ついに念願の娘ができたんだな」
「そうね、叶ったのね。ようやく我が家にも娘が……男なんてのは一人で十分だったのよ」
女の子じゃない次男の俺はいらなかった――的な本意が見え隠れしているような。
最後にボソッと呟いたことが何よりもリアリティを醸し出している。
「こうしちゃいられない。めでたいんだから、こう、何かいるんじゃないのか? 鯛の尾頭とか、御赤飯とか。なあ母さん」
「そんなのあるわけないじゃないっ! だからそれは日を改めて。それと赤ちゃんができてから……ってまさか、もう?」
「すみません、赤ちゃんはまだいません……」
「まだですって、あらヤダもうっ」
恥じらいの渦中にいる保科先生を差し置いて、母上は照れくささを誤魔化すために父さんの背中をひっぱたいた。
思いのほか痛かったらしく、声にならない鈍い唸り声を上げる父さんは、痛がりながらもどこか嬉しそうだ。
こうして突然として家の中が騒々しくなった。
本来の家庭訪問はどこに行ってしまったのやら。その姿は跡形もなく消し飛び、俺の説教のことは完全に忘れ去られ、兄貴と保科先生の婚約祝いに向けて急遽準備の始まりだ。保科先生による家庭訪問には違いないのだが、意味合いが大きく変わってしまった。
「あ、そうだ、お父さん! お赤飯のかわりに赤ワインを開けましょうよ!」
「よし、そうしよう! 一番高いの開けていいからな」
父さんは背中をさすりながら母上にワイン解禁のゴーサインを出す。
この浮かれ調子のバカ夫婦に、途中途中「そこまでしなくても」と保科先生が遠慮を促すも、義父と義母の暴走は止めようがない。聞く耳を持たず、逆に「まあまあ今日くらいは」といった感じでなだめられる始末。
兄貴はいつの間にかちゃっかり保科先生の隣に座っている。
安城寺が兄貴に席を譲ってあげたのだろう。兄貴に席を譲ってくれと言う度胸がないことと、安城寺の人当たりの良さを考えると、俺の考えは妥当なはず。
「俊平、あんたも手伝いなさい。ワイングラス持ってってちょうだい」
返答しないと怒られるので「へーい」と気のない返事だけはしておいた。
準備を手伝おうと俺は立ち上がろうとした――が、ろくに立つこともできずにバランスを崩して倒れてしまう。足が痺れていることを、失念しておりました。
本日二度目の顔面からダイブ。
エスカレーター降り口で味わった床の固さと冷たさとは正反対で、今回のダイブ先は人肌くらいに生温かくて究極的に柔らかい。二日前、背中に押しつけられた安城寺のおっぱいを思い出すほどの柔らかさ……柔らかさ?
——むむっ!?
——むむむむむむっ!?
——むくむくむくむくッ……とは俺のはうならなかったが、この感触はまさか。
俺は確認するためにとっさに手をついて顔を上げた。その手をついた場所もとてつもなく柔らかく、しかし、ダイブしたのはおっぱいではないことがわかった。
これは、保科先生の太ももだ。
俺が太ももをおっぱいと勘違いしてしまったのも仕方のない話。なぜなら太ももとおっぱいにつく脂肪の種類が同じだからだ。
エストロゲン――略してエロゲン由来の脂肪であるガイノイド脂肪。これは女性特有の脂肪であり、これが男性を本能的に魅了するのだ。おっぱいやおしり、大腿つまりは太ももにつく脂肪。つまり、おっぱい、おしり、太ももの柔らかさはそれぞれ等しいということ。
だから俺は今、疑似的に保科先生のおっぱいを揉んでいる!
「てめえ、さっそく人様の嫁さんを寝取るつもりか」
「ち、違うっ、そんなつもりあるわけ――」
むふっ。焦って手が滑った。そして再び太ももにダイブ。ああ幸せ。まるで甘い花の香りに誘われて顔を突っ込んでいるミツバチのよう。
——じゃないだろうがよおぉおおおおお!!
痺れている脚のみを無理矢理駆使して強引に立ち上がる。が、案の定バランスを崩してテーブルの縁に額を思いきりぶつけてしまい悶絶。テーブル上の食器が音を立てるも被害は奇跡的にゼロにとどまってくれている。
めちゃくちゃ頭いってぇ。
でも、頭を打った痛みのおかげで脳内から煩悩がキレイさっぱり消失し、正常なコントロールが理性のもとに可能になった。
これ以上の乱暴
断じてそのようなことはあってはならない。
グリモワール《エロ本》の代替品はこの世に存在しないのだから。
だから、今やらなくてはならないことを全力で行うのみッ。
「保科先生、本当にすみませんッ」
額を押さえながら、よろめきそうになりながら、俺は全霊で頭を下げた。
「ちょっと俊平、そんなとこにつっ立ってないで、さっさと手伝って」
今度は「はいっ」と、ありったけの感謝を込めて返事をした。さっきは気のない返事をしてごめん、母上。この窮地から俺を救ってくれて本当にありがとう。
保科先生もキッチンへと向かう俺を無言で見逃してくれて本当にありがとう。保科先生に関しましては、明日改めて学校で謝罪させていただきます。
兄貴の嫉妬にまみれる血眼を背に感じながらも母上のもとへ避難成功。
どうしたものか、この余裕の欠片もない兄貴の反応。もしかして夜の営みどころか軽いボディタッチすらまだしたことなかったりして。相手が保科先生だけに妙に現実味の出てくる邪推なんだよなあ。
——まだ快楽を知らないピュアな人妻、だと……?
食器棚からワイングラスを取り出そうとしていた手が不覚にも止まってしまった。
学校の先生であり、義理のお姉さんにもなる。
乳ビンタが無理でも極上のパフパフが期待できそうなおっぱいに、腰のくびれをさらに際立たせんとする安産型のおしりを持ち、男を知らない穢れのない無垢な身体はもはや御神体とも言える。
二十代後半の女性にのみ醸し出すことを許された独特で最上の色気によって幻術をかけられでもしたら、俺はもう、確実に性欲の奴隷に成り下がることだろう。
「なんだこのコラボ祭りは。よだれ出るわ」
今度こそワイングラスを二つ手に取り、兄貴と保科先生の前に持っていく。
「私はいいから、ぜひお父さんとお母さんに」
「まだいくつもあるし大丈夫。俺、取ってくるし」
俺はもう二つのワイングラスを棚の中から食卓へと運んだ。どうしてこの家には酒飲みが三人しかいないのにグラスが山ほど棚に並んでいるのか、大人の嗜みというものを知らないお子様な俺にはまだわからない。あー早く童貞卒業したい。
「俊平、お前はここに座りなさい」
「……父さん」
保科先生の対面にしれっと置いてある新たなお誕生日席。
ちょっとした気遣いが乙女心をくすぐる。俺の父さんはこんな感じで気難しい母上を落としたのだろうか。
ようやく居場所をゲットした俺は兄貴と安城寺のうしろを通って着席した。
食卓をはさんで向かいにいる保科先生が微笑みかけてくれ、ドキッとする。
やばいやばいやばいやばいやばい。法と倫理が許すのなら、先生と生徒という禁断の恋を実らせてみたいものだ、とつい最近思った俺だったが……これはやばいな。語彙力が皆無になってしまうほどに、やばい。
「もしかして森田くん、保科先生に欲情してるの?」
全身に電撃が走った。反射的に身を引けば、背もたれに強く腰をぶつけてしまう。
けっして図星をつかれて動揺したからビビッてビビッときたわけではない。まあ、まったく的外れかと問われれば咳き込んで答えを濁してしまうが。
電撃が襲った主たる原因――それは、耳元にダイレクトに囁かれた音。漏れた吐息で語られた言葉と唾液による粘着音だった。イヤホン推奨、高音質ハイレゾでバイノーラル録音を駆使したエロボイスとは比べ物にならない。イヤホン越しから聞こえる全身を舐めまわされている錯覚に陥る淫音でも、リアルでの行為と見知った人物によるコンボには敵わないのか。
右耳を押さえながら安城寺に目を遣ると、わざとらしくニッコリ笑顔を作っては、俺だけに振り撒いてくれた。
「なにしやがるッ。てか、欲じょ……してねえわ!」
「だって森田くん、私のことずーっと放置してくれちゃってさ。全然かまってくれないんだもん」
「もんっ、じゃねえよ。さっきまで俺説教受けてたんだから仕方ないだろ」
「ぶーぶーいじわるー、森田くんのドえすぅ」
「俺はドMだって今日の昼言っただろ。もう忘れたのかよ」
「間違えた、森田くんのいけずぅ、だった」
「……ふぇ?」
えっと、何を言い間違えたのでしょうか。そもそもさっき何て言ってたっけ?
もしかして俺、また変なこと口走っちまったのか? やばいな、安城寺との会話にもはや何の違和感も覚えない。
「さて、それじゃあお祝いパーティ始めましょうか」
最後の空席が母上によって埋められた。
ワインの栓を父さんが開けると、保科先生、兄貴、母さんの順に注ぎ、最後は母上が父さんに代わって残りのグラスを少しだけ赤く満たしていく。
これにて準備は整った。
俺と安城寺はお茶の入ったガラスコップを持つと、全員が示し合わせたかのように各々飲み物を掲げ、「かんぱーいっ!」と盛大に祝賀会の幕が上がった。
兄貴と保科先生が控えめにワインをひと口だけ口に含んだのに対して、うちの親どもときたら……。一気に煽って速攻で二杯目に。三杯目に。四杯目に。
一時間後――。
食事はまだまだ残っているのに、空きボトルやら空き缶やらが大量に発生していた。テーブルには乗らないので床に転がっている悲惨な状況。お見苦しいところをすみません。こんな家に嫁いでくる保科先生、本当に前途多難でごめんなさい。
「この人ったら若い時すごく激しかったのよ」
「へ、へー、そうなんですねー」
ぼふぁっ。何を言い出しやがる、この母上はッ。
口に入っていたものを盛大に噴き出してしまった俺は、テーブルの上に置いてある台拭きに手を伸ばすと、父さんと兄貴の手に触れた。どうやら噴き出してしまったのは俺だけじゃなかったみたい。
俺は気を落ち着かせるためにお茶を啜る。
「激しいというか、あれはもう暴力だったわ」
「へ、へー、そうなんですかー」
ぶしゅふぇっ。いい加減にしなさい、この母上はッ。
今度は鼻から盛大にお茶を噴射してしまった。父さんは鼻と口から赤ワイン。兄貴は気管内に食べ物の侵入を許してしまったらしく激しくむせ込んで呼吸困難に。人間の皮を被った安城寺も先ほどとは違い、さすがに笑いを堪えるのに必死そうだ。
保科先生が悶絶必至な状況を決死に耐えて母上の話を聞いている。
耐える代償としてビールを煽る。もはやグラスに注ぐこともなく、缶を直飲みでグビグビと。できあがるのも時間の問題と見る。なんと男勝りな……。
――でもそのギャップ、半端なくグッジョブ。
ビールを煽る姿も勢いもこりゃたまらん、もう、なにこれカッコイイ。最初こそは遠慮がちに飲んでいたが、酒が進むにつれて大胆に。普段の大人の女性から漂うオーラとはひと味違うオーラを纏っている。お酒とワルツでも踊っているかのように、大胆さの中にも繊細さが溶け込み、魅力が新たな魅力を創造している。
ふと俺は思った――保科亜衣というこの女、ただ者じゃない。
俺たち
安城寺から感じられる類のものとは正反対の狂気。
故意ではなく、偶然より顕現する未知の狂気。
俺はキューピットとして、兄貴にとんでもない
天然ジゴロ系女教師兼義姉――サキュバス亜種。
自分からは相手を射止めようとしないが、溢れ出る魅力により無自覚に男を誘惑しては虜にし、相手の心を蝕んでは喰らわんとする。三十路前の強迫観念に憑りつかれて生まれてしまった恋焦がれる悪魔、それが
さらに一時間後――。
サキュバスの毒牙にかかった父母は瀕死、兄貴は瀕死寸前だ。
兄貴はサキュバスを両親に紹介した緊張感から抜け出せず、アルコールで誤魔化そうとして。父さんは調子に乗ってお酒を
父母は可愛い娘に、兄貴は可愛い彼女に、精気をぽっくり持っていかれた。
「いっぱいのんじゃった」
目尻が落ちて蕩けそうな表情。潤んだ瞳。酔った
保科先生みたいな良物件、よく今まで手もつけられずに残ってたな。信じがたい。
「もうすこし、ほしいなぁ」
俺と兄貴は喉を鳴らした。
「じゃあ、亜衣ちゃん、もう少しだけだぞ」
「えー、もっと……もっと、いっぱいほしいよぉ」
「――がはっ」
兄貴の理性がぶっ壊れた。ワインをボトルごとラッパ飲み。
こうして兄貴も瀕死状態に――。
「保科先生ってば飲みす」
「いいのいいの。安城寺ちゃんらって、ほしいんれしょー」
「えー私まだ未成年だからお酒はまだ飲め」
「安城寺ちゃんもスミにおけないのねー。高校生なのにもう彼氏作っちゃってさー」
「彼氏じゃないで」
「もー隠さなくてもいいのよぉ。ちゃんと内緒にしておいて、あ・げ・る」
「……この女、一発ぶん殴ってもいいかな」
安城寺のすべての発言を食い気味に。これが引き金となり、終始大人しくしていた安城寺の怒りの沸点を易々越えた。縄を自分に絡みつけるのは好きなのに、うざったい絡み酒はアウトらしい。
ともあれ、こうも俺との関係を否定されるとちょっとショックというか……ってこれっぽっちも思ってねえし。俺だってこんな奴の彼氏はごめんだっつーの。清々するわ。
この後、安城寺に保科先生を任せ、呼んだタクシーで帰宅させた。兄貴はともかく両親共々酔い潰れてしまってはもう面倒を見きれない。なので今日のところはご帰還してもらった。
それに俺には重要な大役が――家の清掃という仕事が残っている。
これ以上長居されては俺としては困るってことで。
ひとまず空き缶をすべて流し台に。
宴会後、兄貴が成人するまではきまって二人で片づけをしていたのだが、今となってはその役目も俺だけとなってしまった。できればいつもより盛大に散らかっている今日くらいは手伝ってほしいのだが、本日の主役の座に免じて叩き起こさずにそっとしておいてやろう。
さて、さっさと掃除終わらせて宿題も片づけるするか。
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