裏切りと背徳の炎

 十二歳のロベルトにとって、アドリアンはたしかに騎士だった。しかし、そこから数年間の記憶だけをたどれば、騎士よりも教官の印象が強い。

 教官のアドリアンは、ロベルトにさまざまなことを教えてくれた。剣術や槍術に、体術や馬術もアドリアンが担当で、同級生たちのなかでも身体のちいさいロベルトは、苦労ばかりだったように思う。負けず嫌いなロベルトは皆に後れを取らないようにとにかく必死で、アドリアンはロベルトの補修にも付き合ってくれた。教官は贔屓など絶対にしないけれど、思い返せば他の生徒よりもロベルトを目にかけていたような気もする。はじめて王都マイアへと向かったあの日から、アドリアンはずっと見守っていてくれたのだ。

 そのアドリアンは、何を言ったのか。

 理解の追いつかない頭ではいくら思考に時間を使ったところで無駄だ。ちいさくあがった悲鳴につづいて泣き出す侍女もいる。男たちの動揺は怒りへと変わり、若者たちだけに留まらずに、年配の者たちすら怯えた顔をする。アロー家はどうなってしまうのか。皆がそれぞれ不安と戦っているなかで、アドリアンだけが冷静なのが不自然なのだ。

「皆まで言わねばなりませんか? アロー伯爵。あなたは、そこまで愚鈍な方ではないはずだ」

 アドリアンは悪魔に魅入られてしまったのだろうか。そうでなければこんな言葉は吐けない。アロー伯爵の肩は細かく震えていたものの、アドリアンに気圧されているのではなかった。現実を認めようとしていないのは何の説明もないからで、それはこの場に立つ全員がアドリアンに求めていることだった。希望とは呼べない、その声を。

「私の友人がここにいないのが、すべての証というわけか」

「そうなりますな。あなたのご友人は油断のならない御方だ。甘言に乗せられたのか、もしくは最初からそのつもりであったのか」

「やめてくれ! 彼は、そんな人間ではないのだ。私の友は、」

「没落した貴族ほど惨めなものはありますまい。あなたが手を差し伸べて、彼をアロー家に迎えたのだとしても、彼の心に何が残りましょう」

「だ、だが……、友はこの家に尽くしてくれた。いつも私の味方をしてくれた」

「だからこそですよ、伯爵。私はまんまと彼に騙されていた」

 アドリアンの双眸には笑みさえ見える。しかし、どこか違和が残るのはなぜか。ロベルトは二人の会話を追いつつも、もっと過去を見る。会話の内容からこの場にいないある人物を指しているのは明らかだとしても、ロベルトもその人を疑ったことはなかった。それこそ、アドリアンの言葉どおりに。

 庭師は明け方に医者を送って以来戻らない。それが、なによりの証拠ではないか。もう一人のロベルトが冷静な声で諭す。庭師はそれなりに爵位を持つ身分にあったのかもしれない。没落し、その後は友人であったアロー伯爵のところで世話になる。ここまでの話は読めた。ロベルトの目にも、誰の目にも庭師は好々爺だった。けれど、役者は一人だけだったのか。

 アドリアン。ロベルトはかつての教官の名を口のなかでつぶやく。二人の話はまだ終わってはいない。

「アロー伯爵。ここにきて白を切るというのならば、私はあなたを失望します。そもそも私があなたに呼ばれたというのは間違いだ」

「私を監視するために、あなたがこの家に来たことは知っていた」

 アドリアンは首肯しゅこうする。

「そのとおりです。しかし、どうも私はこういったことが下手らしい。……いや、なるべくしてこうなった。おまけにこちらの動きは、彼のおかげで筒抜けだったようですな」

 そうだ。役者はもう一人いる。ロベルトはアドリアンを見つめる。

「アドリアン、私は……」

「認めてください。アロー伯爵。あなたは覚えがあるはずだ」

 アロー伯爵は何かを言いかけて、しかしそれは声にはならなかった。沈黙が訪れる。その数呼吸は伯爵にとって懺悔の時だったのかもしれない。

「たしかに私には欲があった。だ、だが……、それは保身のためではない。私は、イレスダートの未来を思って、」

「この国ではなく、と言い換えた方が正しいでしょうな。あなたは焦っていたのです」

 ふたたび、アロー伯爵の唇が閉じた。そういうことか。ロベルトはやっと理解をした。国王アナクレオンが教会を嫌悪しているという噂は本当のようで、敬虔な信徒はさぞかし不安に思っただろう。信徒にとって信仰を奪うものは悪だ。

「わかっております。あなたは教会に利用されていただけだ。それから、白の王宮にも奴らにも」

 それなりの権威が手に入れば王に近づくのも可能だ。アロー伯爵はヴァルハルワ教会の力が弱まることをおそれていた。壮大な計画に見えてそうではなかった。アナクレオンという王は、一人の大貴族の動きを見逃したりしない。

「しかし、陛下は教会の存在を否定するつもりはないのです。これもまた想定内だったのでしょう。おそろしい人だ。あの御方は。なにを、どこまでが見えているのか」

 最後は独白にも近い声だった。もしかしたら、アドリアンも悔いているのかもしれないと、ロベルトは思った。そうでなければおかしいのだ。ロベルトの知る、アドリアンならば。

 一瞬でもアドリアンを疑った自分を責める前に、もうひとつだけ明らかにすることがある。ロベルトはもうそこまでたどり着いていたもの、答えを出すにはまだ欠片ピースが足りない。ロベルトがそれを導き出すより前に、アロー伯爵の声がつづいた。

「……わかった。私も潔く覚悟を決めよう。しかし、どうか娘のことだけは助けてほしい。あれは不憫な子だ」

「もとより、そのつもりです。フレデリカ嬢もこの家の者たちも」

 ロベルトの思考をそこで止めたのは彼女の名だ。いち早く動いたのは侍女頭で、嗚咽する侍女たちを現実へと戻させる。男たちも遅れて行動しはじめた。執事長はアドリアンに一揖いちゆうし、それからアロー伯爵を伴ってその場をあとにする。皆はもう迷いがなく、しかしまだ動けずにいるのはロベルトたち騎士だ。

「私は残ります」

 壮年の騎士だった。数ヶ月前にアロー家に入った騎士たちのなかで、もっとも年嵩の騎士だ。

「それはならん。君には一番大事な役目を引き受けてもらわねばならない。然るべきところへと真実を届ける。他には頼めない」

 命令というよりは懇願のような声だった。だから、壮年の騎士はそれ以上の言葉を紡げずにいる。彼らの会話はほんの二呼吸くらいのあいだで、それでももっと長い時があったのかもしれない。壮年の騎士が、アドリアンをよく知らないと言っていたのはつい昨日のことだ。それが、嘘だったのだと思うくらいに。

 逡巡のあとに壮年の騎士は広間を出て行った。他の騎士たちもそれにつづいて、残っているのはロベルトともう一人だけになった。

「何をしている。君たちも早く行きなさい」

 ロベルトは咄嗟に声が出なかった。まだ頭が混乱している。いや、まともでいられる方がおかしい。

「アドリアン。あなたは、なぜ……」

 ブレイヴは途中で首を振った。気持ちはわかる。ロベルトもおなじだ。ひどい裏切りだと思う。これまで信じてきた者への裏切り。正義とは逆の、これまで教わってきた騎士とはいえない行いを。

「どうか早まらないでください。アナクレオン陛下は、俺たちの王は……、こんなことを許すはずがありません」

 声が震えているのは、彼がそれを認めたくないからだ。

「ブレイヴ。君は陛下と親しい仲であったな。もう、遅いのだよ。私たちの仲間は傷ついてここに戻ってきた。彼には申し訳ないことをしてしまった」

 そうだ。すでに一人が死んでいる。もうどこにも行けない。おれたちも、アロー家の人たちも。

「そんなのは、おかしい」

 アドリアンとブレイヴと。二人の視線がこちらに向いた。

「たしかにアロー伯爵は悪いことをしたのかもしれない。でも、こんなのってないよ。ここが襲撃される? どうしてそんな話になるんだ? これじゃあ、まるで、」

「そのとおりだ。しかし、抗えばアロー伯爵は本当に叛逆者と見做される。抵抗せずに連行されたとしても、罪人には変わりがない。罪人の子は罪人とおなじ扱いだ。フレデリカ嬢は無関係だというのに」

 ロベルトは息を止めた。アロー家はこれで終わる。それだけではなく、罪人の娘はもう人間の扱いを受けないだろう。家も財産も、身分も名誉も何もかもをいっぺんに失って、父親までも奪われた彼女がどうなるのか、想像したくもない。

 そして、アドリアンはアロー伯爵に死ねと言っている。

 そんなことを口に出してほしくなかったし、そんなことをさせたくもなかった。ロベルトはかぶりを振る。それにヴァルハルワ教徒には自害は許されない。これは伯爵の無実を証明する行為だと、アドリアンはそう言いたいのだ。

「だから、あなたがすべてを引き受けるというのですか?」

 もうそこに、尊敬も憧憬も見えない。彼はつづける。

「答えてください、アドリアン。俺たちはあなたを信じてきた。これからもそうだ」

「それは過大評価だな。私は君たちが思っているよりもずっと汚い。だが、騎士とはそういう生きものだ。正しさや己の矜持よりも、もっと大事なものがある。私はそれを選ぶ」

「だとしても、これではあなたが……! それに、あなたの家もただでは済まない。こんなことは、」

「それなら問題はない。あの家とは縁を切ってきた。今の私はただのアドリアンだ」

 アドリアンは剣へと手を伸ばす。もう、騎士ではないのに、それでも戦うことをやめようとはしない。

 何のために? ロベルトは問えなかった。きっと、声も返ってはこないだろう。

 騎士たちが戻ってきた。あれはもともとアロー家にいた騎士たちで、つまりは伯爵とともに最期の時を迎えるつもりなのだろう。

「話は終わりだ。早く行きなさい。君たちにも証人になってもらわねばならない」

 人形のようだ。ロベルトが見てきたアドリアンじゃない。うそだ、と。ロベルトは口のなかでつぶやく。ほんとうのアドリアンはこんなことをしない。

「いやだ。わからない」

 一目見て気に入った玩具おもちゃをねだる子どもみたいに、ロベルトは繰り返す。見限ってくれてもかまわない。この声が届かないというのなら、もう戻れないのならば、せめて共にありたいとねがう。だから、ロベルトはアドリアンを見た。その目はロベルトを映してはいなかった。

 ロベルト、と。呼ぶ声はすぐ隣からだった。彼はロベルトの腕を掴み、そうして悟らせようとしている。

「離せよ。おまえ、一人で行けよ」

「……っ、ロベルト!」

 なぜ、わからないのかと、問う声がする。掴まれた腕は振り解けないくらいの強い力で、いかりとかなしみと、ブレイヴはその両方をのぞかせながらも、泣いてはいなかった。泣いているのはロベルトだった。

「アドリアンは俺たちの教官だった。それから、騎士だった」

 彼は自分へと言いきかせるように言った。

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