意地と矜持と懲罰室(1)

 イレスダートは夏を迎える前に雨期がはじまる。

 鉛色の空はずっと雨を降らせるので外の実習は中止となり、室内の訓練場も限られているためにいつも順番待ち、そのうちに身体も重たくなるし腕も鈍ってくる。

 例年のことだからと慣れている上級生たちはこの期間を上手に使う。試験に向けて自習室に籠もったり図書室を利用したり、あるいは外出の許可を取って市街地に出るそうだ。たしかに気分転換は必要だろう。しかし、新入生はそうもいかない。いきなり外出するのは教官に目を付けられるのだ。

 湿っぽい室内に閉じ籠もってばかりだと、心の方が先に参ってしまう。このところのロベルトもため息の数が増えていた。

 窓の向こうを眺めていても雨、雨、雨ばかり。もう何日も太陽を見ていない。同室の美少年の姿はなく、どうも本が好きなようでほとんど毎日図書室へと通っている。一度誘われたものの、読書が苦手なロベルトは断ってしまった。

 小一時間ほど前までは次の試験に備えていたロベルトも、教科書を捲るのが嫌になり寝台に転がってはため息をまたひとつ落とした。日々の授業に加えて予習も復習もしているのに、どういうわけかロベルトはいつも平均点そこそこしか取れない。すっかりやる気を失くしてしまったのである。

 実技だって成績が良い方ではないので、特に馬術はどうにも苦手なままだった。馬を扱えない者など騎士ではない。揶揄した奴らを拳で黙らせようとしたロベルトは、なんとか自分を抑えた。おれは別に騎士になりたいわけじゃない。

 湿った狭い部屋に籠もっていれば、余計に気分が沈みそうだ。ロベルトは立ちあがり部屋の扉を開けた。

 しかし、夕食の時間まではまだ早く、どこへ行くという当てもない。気が変わったという口実で図書室へと入るのもいいかもしれないが、今はとにかく文字を見たくないのだ。ところが、廊下を歩いていたロベルトは急に立ち止まった。

「なんだよ」

「そっちが避けろよ」

 小肥りのニコラは身体が大きいので、擦れ違うときに邪魔になるらしい。ロベルトはむっとした。

「おれは嫌だ。おまえがどけよ」

「ロベルトのくせに、僕にわざわざ遠回りしろだって?」

「なんだよ、それ。上流貴族サマはそんなに偉いのかよ」

「当たり前だろ。少なくともお前なんかより、」

「なんだと……! 小肥りニコラのくせに!」

「僕は太ってなんかないぞ!」

 揉み合いとなる頃には数人が集まっていた。ロベルトも小肥りのニコラも、互いに引き離されても、まだ鼻息を荒くしている。そこで乾いた音が響く。皆の視線の先にはマルクスがいて、二人を鎮めるために手を打ち鳴らしたのだ。

「はい、そこまで。もういいだろ?」

「マルクスがそう言うのなら……」

 丸い顔をもっと丸くさせていたニコラは急におとなしくなる。やがて散っていった連中のなかで、ロベルトはのっぽのマルクスの顔を見た。唇はたしかに笑みの形をしていても目はそうではなかった。あれは、嫌悪と蔑みの表情だった。

 十日ぶりの晴れ間が訪れたときに、ロベルトたち新入生たちは校庭に集められていた。とはいえ、全員となればあまりに物々しく、残りの半数は教室でお留守番だ。

 引率する教官たちもそこに並び、これから校外実習がはじまる。新入生たちにはこれが最初の野外実習であり、ひさしぶりの外の活動だから皆は急に元気になった。

 途中で休憩を挟みながら三時間を徒歩で移動し、マイアの平地へと出た。大地は長雨によってたっぷりと水分を含んでいるもの、清々しい空の青と風が気持ちいい。普段は士官学校という閉鎖された場所にいるのでなおのこと、ロベルトは故郷の街を思い出した。

 これまでの日々が何かと忙しかったのもあって、特別家が恋しくなったことはなかった。なにより、ロベルトはあの家に戻りたいとは思わない。それがここに来て離愁の念が現れたのはどうしてだろう。

 しばし懐古していたロベルトは、教官の声で現実へと戻された。

 新入生たちは指示されたとおりに班を作る。そこから役割が分担され、天幕の用意をする者と水を調達する者と、野草や木の実を集める者と野兎を追う者とそれぞれ別行動だ。昼食は白パンとソーセージと林檎が支給されたが、夜の分はない。自分たちの手で用意するしかないのだ。

 ロベルトは水を汲む係になり、小川へと向かった。水袋はあまり大きくはないので何往復かしなければならない。しかし、ここはさほど難しくはない係だろう。天幕を張るのも、火を熾すのも、王都育ちの坊ちゃんたちに慣れた者はいない。そもそも野営自体がはじめての士官生には、教官が一から説明をする。野兎を狩るのもそう簡単ではないし、野草を集めるのも時間がそれなりにかかるだろう。あまり良い夕食は期待できそうもなかった。 

 水汲みの往復が三度目のときにロベルトはある決意をした。ここは下流の河であり、その先のアストレア湖へと繋がっている。先ほどからきらきらと輝いているのは魚たちでけっこうな数だった。新鮮な魚を捕まえて焼いて食べれば、それは美味しそうだ。

 ぐいと腕まくりをしてロベルトは水のなかを一気に掴んだ。しかし惜しいところで掴み損ねて、今度は両足を水のなかに入れる。水深は浅いものの、背の低いロベルトは膝まで浸かってしまった。同級生たちがぎょっとするのを無視して、ロベルトはもう一度試してみる。ゆったりと泳いでいた魚は、ロベルトの右手を擦り抜けても左手にはしっかり収まっていた。

「おい。いいのかよ」

「構うもんか。教官は自分たちで食糧を集めろって言ったんだ。これも立派な食糧だろ?」

 ロベルトは落っことしそうになった魚を、慌てて水袋のなかへと仕舞いこんだ。それを見ていた他の奴らも真似をはじめる。二人、三人とつづけば、最後は全員が河のなかだ。おっかなびっくりと魚に触れる者たちも、全身びしょ濡れの者たちもいて、今だけは上流貴族も下流貴族もなかった。皆が悪ガキの一員で、あとから教官にこっぴどく叱られるだろう。

 ロベルトたちが魚をたくさん取って帰れば、待っていた連中は大喜びをした。そのうちに食料係たちも戻ってくる。どの顔も気まずそうに見えるのは、上首尾とはいかなかったからで、活躍したのもきっと教官たちだ。

 捕らえた野兎は教官が慣れた手つきで肉を削ぎ、野草とともにスープにする。ぞくぞくと皆が集まってきた。お腹を空かせた見習いたちは、碗を持って順番を待つ。ロベルトたちは魚を勝手に捕ったことを叱られずに済んだので、焼き魚にして口いっぱいに頬張っていた。

 ただし、それは当然ながら全員の分まではなかった。恨めしそうな視線を受ければ次第に居心地が悪くなってくる。育ち盛りの少年たちには、スープだけではとても足りないのだ。教官たちはしばし目で会話をしたあとに、それぞれに果物を分け与えた。しかし、魚を手に入れていたロベルトたちにはなかったために、小声で不満を言う者もいた。ロベルトもおなじ気持ちだった。

 二日目の朝はいきなり歓声が沸いた。

 教官たちが森の奥へと入り、猪を二人だけで狩ったそうだ。これだけの大きさとなれば丸焼きにしても煮込んでも、全員分はしっかりあるだろう。はらぺこの騎士見習いたちは歓喜したり、化け物みたいに大きな猪をこわがったりまたは血生臭い光景に目を背けたりと、反応はそれぞれだ。ロベルトは猪を獲った教官の方を見ていた。その教官の名をアドリアンと言った。そう。あのアドリアンだ。

 ロベルトがそれを知ったのは入学してからすこししてからで、時機を窺って話しかけた。しかし厳しい顔で叱られてしまったものだから、それ以降は近づいていなかった。

 騎士は辞めてしまったのだろうか。それとも、本当のアドリアンは教官だったのだろうか。見習いたちに囲まれているアドリアンは慕われているように見える。なんでおれには他人みたいにするんだろう。ロベルトはちょっと離れたところで見るだけだった。

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