意地と矜持と懲罰室(2)

 朝食に猪肉をたっぷり食べた新入生たちの活力と体力が戻ってくる。教官たちはその機を狙っていたのか、それともはじめから日程に組まれていたのだろうか。この日の実習はこれまでとは比べ物にならないほど、厳しいものだった。

 最初に新入生たちはまた班を作る。前日とおなじように教官が任意で選んでゆき、ロベルトの名の次にはのっぽのマルクスが呼ばれた。ロベルトはマルクスの目顔を無視する。こいつのことはやっぱり好きにはなれない。

 もう一人はロベルトのよく知らない奴だった。ロベルトはちらと横顔を見るだけにして、また前を向く。やがて選別が終わり、教官はこれからの日程について説明をはじめる。どよめきが起こったのはそのすぐあとだ。

 ここからは三人一組で行動をして協力し合い、そして王都の士官学校へと帰還する。

 街道に沿って行けばどんなに遅くとも三時間あれば着けるところで、しかしそんな単純な話ではない。一同が困惑したのはそこから先だ。

 まず、橋を使ってはいけないという。となれば、目の前を流れる河を泳いで渡るしかない。向こう岸までの距離はそこそこに遠く、まだ初夏には早いので水温は冷たかった。おまけに今日は昨日ほどの晴れには恵まれずに、午後からは雨に変わりそうな天気だ。

 動揺しているのは泳げない者たちだ。どの顔も病人みたいに頬を青白くさせて、緊張と恐怖と、それから寒さで胴震いをしている。見習いたちが騒ぎ出す前に教官の声が大きくなった。次の説明によると、こうだ。

 河を無理に渡らずとも帰る手段ならば他にもある。森を抜ければいいと言うのだ。しかし、それでは本来の道から外れてしまうので、大幅に時間を食ってしまうだろう。今日中に王都にたどり着けるかどうか。教官たち抜きで野営をする度胸と勇気のある者なんていない。だが、どちらにしても選択肢はこのふたつのみだ。

 教官は繰り返す。ここから先は三人一組であるのだと。ここからは運命共同体というわけだ。だから、三人のなかで泳げない者がいれば、河を越えることはできずに森を抜けるしかなくなる。それを決めるのも教官ではなく、自分たちだ。

 すべての説明が終わると、それぞれが地図を手渡された。河を渡る者はいい。そこさえ越えれば、あとは平野を行くだけだから迷うことはない。一方で森を行く者たちは街道を逸れるので地図が要る。渡されたのは地図と、それからもうひとつ。掌に収まるほどの硝子玉は特殊な魔法道具で、これはいざというときのために使う。ロベルトは上着のポケットにそっと仕舞いこんだ。これに頼るような事態には避けたいと思う。命が助かったとしても、それは棄権したとおなじ扱いだ。当然成績にも響く。

「森を抜けよう」

 最初にのっぽのマルクスが言ったので、ロベルトは思わず目を瞬いた。こいつもしかしたら泳げないのか。ロベルトは弱みを握ったような気になったものの、本当にそうだとしたら選択肢はなくなる。それにもう一人も賛同したため、ロベルトは否定の声をできなかった。

 さっそく班長気取りかよ。ロベルトは口のなかだけでごちる。しかし、それならば出発は早い方がいい。河を渡る側の連中は準備体操をはじめている。ロベルトも本当はそっちに混ざりたかった。泳ぐのは苦手ではなかったからだ。

 曇り空は太陽をすっかり覆い隠して、そうすれば森のなかが急におそろしくなる。それだけならまだしも連日の雨で足場が悪く、靴はすぐに泥だらけだ。道という道もないに等しく、藪や樹の枝を避けて行くのにもうそれだけで体力を消耗する。ロベルトの前を行く奴は何度も足を滑らせて、尻だけでなく上着まで汚していた。

 先頭を務めるのっぽのマルクスは、こちらをまるで無視している。ロベルトは嘆息をした。おまえのせいで、こっちは苦労させられてるんだ。なのに、おれたちはお荷物かよ。余計な声をしなかったのは、単に面倒だったからだ。それよりも、他に考えることはある。水の音がするので飲み水の心配は要らなくとも、食料は自分たちで確保するしかない。野兎を追うには道を逸れてしまうし、野草か木の実を探すにしてもロベルトには食べられる草かそうでないかの見分けがつかない。他の連中も当てにはならないのでせめて野苺でもあれば、と視線をよそへと向けていては他の連中に後れを取ってしまう。焦りもあるのだろうか。マルクスはどんどん勝手に進んでゆく。

「いたっ」

 真ん中の奴がまた転んだ。ロベルトは見かねて手を貸してやったものの、辛辣な声が降ってくる。

「おい。もっと真面目に歩けよ」

 いつも以上に居丈高なのは余裕のない証拠だ。ロベルトはむっとした。

「そんな言い方するなよ。おまえが勝手に進んで行くから」

「はっきり言われなければわからないのか。足手まといなんだよ」

「なんだと……!」

 殴ろうとした寸前でロベルトはもう一人に止められていた。思わず睨みつけたというのに、当の本人はにっこりする。

「ねえ、けんかしないでよ。こうやっているあいだにどんどん遅れちゃうよ」

 誰のせいで揉めてると思ってるんだ。毒気を抜かれたロベルトは肩で息を吐く。のっぽのマルクスは舌打ちをし、そのまま行ってしまった。

「あ、待ってよ……!」

 ロベルトもあとを追う。こんな勝手な奴について行きたくはなくとも、地図を持っているのはマルクスだ。それに三人一緒でなければ失格となる。ここまでの苦労は台無しだ。

 そこから一時間、小一時間、さらに一時間を過ぎても森はつづいたが、のっぽのマルクスは地図を見ようともしなかった。どこまでも自分の足と勘に自信があるらしい。

 もう一人の奴は鼻歌を口遊んでいた。その旋律は学校で習ったものとはちがってなじみがなく、どこかの唱歌のようだ。そういえば、やたら歌のうまいやつがいたな。そこでやっとロベルトは名前を思い出す。うたうたいのパウル。明らかに馬鹿にされているのに、本人はこの渾名あだなもちょっと気に入っているみたいだ。

 しかし、のんきなパウルの言動にのっぽのマルクスはずっと苛立っているようで、それが背中越しに伝わってくる。気持ちはわからなくはない。三時間歩き通しな上に雨まで降ってきた。

「おい。そのへたくそな歌をやめろ」

 ついにのっぽのマルクスが激怒した。

「どうして? 黙って歩くのは退屈じゃない?」 

「うるさいって言ってるんだよ!」

 のっぽのマルクスがうたうたいのパウルの胸倉を掴む。ロベルトは二人のあいだに割って入り、とりあえず引き離した。

「やめろよ。こいつに八つ当たりしても仕方ないだろ」

「誰が八つ当たりだと……!」

 のっぽのマルクスはロベルトの手を振り払う。売られた喧嘩なら買う。しかし、奴の異変に気づいたのが先だった。

 マルクスはロベルトよりも頭ひとつ分は背が高い。だから見あげてやっとわかったのだ。顔色が良くない。それだけではなく呼吸も変だ。ロベルトはおなじような症状を見たことがあった。病弱な弟のジョルジュは季節の変わり目や天気の悪いとき、あるいは夜になると喘鳴をし、息を苦しそうにするのを。

「おい……、体調が悪いなら、」

「うるさい。俺に命令するな」

 物言いこそ強気だが、マルクスはそのまま座り込んでしまった。うたうたいのパウルはおろおろとし、ロベルトもまた周囲を見回す。こういうときにどうすればいいのだろう。

 どうやらのっぽのマルクスは喘息持ちだったようだ。

 新入生は入ってすぐに身体検査を受ける。マルクスはそこで申告しなかったのだろうか。いや、できなかったのかもしれない。病気持ちは騎士にはなれなくなる。

 はじめは小雨だったのが次第に本降りとなり、大木の下で雨宿りするにもいつまで経っても止みそうにはなかった。のっぽのマルクスはもう雑言すら吐けずに、呼吸をもっと苦しそうにして、喘ぐような息遣いになっていた。

 このままでは夜が来る。森のなかで野宿なんてまっぴらごめんだ。けれど、ここで進めないのならば――。

「どうしたんだ?」

 声はうたうたいのパウルのものではなかった。このあいだに他の班がロベルトたちを追い越していった。けれど、マルクスに気を遣ってかそれとも関わりたくなかったのか、どちらにしても知らんぷりで通り過ぎて行った。それなのにわざわざ声をかけるなんて、よっぽどのお人好しか。ロベルトとおなじくらい小柄で青髪の少年はロベルトを見て、それからマルクスを見た。

「いや、なんでもないんだ。ちょっと疲れただけで」

「きみがあれを持っているのか?」

 問いにロベルトは唇を閉じる。あれとは魔法道具のことで、つまり彼は救命道具を使うようにうながしているのだ。

 できるはずがない。ロベルトはポケットに手を伸ばしかけて止める。そうすれば全員が棄権となり、なによりもマルクスはそれを許さないだろう。

 彼は何かを言おうとして、しかし他の班員たちが呼ぶものだからつづけなかった。残した視線の意味もわかったところでどうしようもない。のっぽのマルクスは声すら出せずに苦しんでいる。いや、偉そうな言葉を吐くマルクスでも、絶対にあれを使えなどとは言わない。これはロベルトとパウルを思ってのことではなく、奴の意地だ。矜持といった方がいいのかもしれない。

 ロベルトはまだ逡巡している。

 医学に明るくはないロベルトには適切な処置など不可能であり、またこれが命に関わるほどの重篤さなどもわからない。けれど、今のマルクスは病弱な弟のジョルジュに重なって見えた。

 ロベルトはかぶりを振る。かまうもんか。そもそも、これはやつの自業自得なんだ。体調が悪いならば最初からそう申し出ていればよかったのだ。そうすれば、ロベルトもパウルも巻き込まれずに済んだ。こんなに苦労して森のなかを彷徨ったりもしなかった。こいつのことは本当に嫌いだ。

 それでも、ロベルトは上着のポケットへと手を伸ばす。綺麗な硝子玉はしばしロベルトの掌に収まっていたが、砕け散る音がしたとき、うたうたいのパウルだけがこちらを見ていた。

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