意地と矜持と懲罰室(3)

 夜の学生寮は静まりかえっている。

 とっくに消灯時間を過ぎた頃だ。勝手に部屋を抜け出して見つかったものならば、叱りを受けるかあるいは反省文を書かされる。しかし、ロベルトはただひたすらに待っていた。やがて、医療室から教官が出てくる。アドリアンだった。

「マルクスは? ……どう、なったの?」

「心配は要らない。今は落ち着いて、よく眠っている」

 ロベルトはやっと肩の力を抜いた。そうすれば急に足が震えた。疲労と、不安と。いっぺんにやってきたものだから、ロベルトはそこに座り込んでしまった。

 あれから、小一時間もせぬうちにアドリアンは駆けつけてくれた。アドリアンの背におぶさるのっぽのマルクスの意識はほぼない状態にあり、教官を待つあいだがそれはひどく長い時間のようにロベルトには思われた。たぶん、うたうたいのパウルもおなじ気持ちだったのだろう。パウルはべそをかいていた。

 森を出るとアドリアンは自分の馬にマルクスを乗せて去って行き、ロベルトとうたうたいのパウルは、そこからさらに徒歩で王都を目指した。無事に士官学校へと帰り着いたのはすっかり夜が深まった頃だったが、マルクスが抜けたことによりロベルトもパウルも同様に棄権扱いとなった。

「よく、知らせてくれたな」

 アドリアンはロベルトのちいさな肩を二度たたく。

 後悔はない。あるとしたら、もっと早くに助けを呼べばよかったのだ。

 これはあとで知ったことだが、今回の野外実習にてロベルトは高評価だったらしい。そもそも、騎士とは軍という集団のなかで生きていくものであり、そこには当然規律というものが存在する。だからすこしでも乱す者がいれば、それだけ危険が生じるということ、特に戦場においては命取りになるのだ。その裏を返せば、命を守るということがなによりも優先される。無論、自身の命だけでなく、他者の、すなわち仲間の命を重視できるかどうか。予期せぬ事態において冷静かつ正確に判断し、行動を取れるかどうか、だ。

 とはいえ、この件にしても変則的な出来事に対して取った行動は、必ずしもすべての事例に当てはまるかといえばそういうわけでもない。これはまた別の話になるが、多数を生かすために少数を犠牲にする方法もけっして間違いではないからだ。

 最初に会ったときのような饒舌な騎士アドリアンはそこになく、教官のアドリアンはロベルトに多くを語ってはくれなかった。まるで知らないひとみたいだ。ロベルトは口のなかでごちる。

 憂鬱にさせる長雨もやがてあがり、イレスダートに夏がやってくる。

 見習い騎士たちの表情も晴れやかに、けれどロベルトにとって悲しい出来事があった。同室の美少年が亡くなったのだ。

 それはあまりに突然のことだったのでロベルトは実感がなかったものの、夜になって空いた寝台を見ると勝手に涙が出てきた。

 不幸な事故だったと、同級生たちは言う。

 たしかに馬の扱いに長けていた彼が、まさか落馬するなど誰が予想するだろうか。だからロベルトは何かの冗談だと思ったくらいだ。隣の校舎から治癒魔法の使い手がきたときには間に合わなかった。ロベルトはそれを人伝にきいただけ、彼を見たのはつい数時間前だったし、話した内容もはっきりと覚えていたのだ。

 ロベルトは特に歴史の授業が苦手だった。次こそは追試を受けないように夜には勉強を教えてもらうと、その約束をしたばかりだったのに――。

 誰もが見惚れる美男子でありながらも嫌味なところがまったくなく、それに加えて文武両道、皆に好かれていた少年がどうしてこんなに早く死んでしまったのか。それも騎士にもなる前に、戦場のどこかでもなく。

 神さまは残酷だ。敬虔な教徒であろうとも簡単に連れて行ってしまう。

 ロベルトが同級生たちから嫌がらせを受けるようになったのは、それから十日もしないうちだった。

 将来有望な美少年は、ロベルトの知らないところで何かと気を遣っていてくれたのかもしれない。はじめは陰口だった。下流貴族の子であること、ベルク家の家名のこと、次には田舎者だと揶揄された。ロベルトは無視しつづける。しかし、そうもいかなくなる。教科書がなくなった。机にちゃんと仕舞っていたはずの歴史の教科書はところどころに落書きがされた上に、塵箱に捨てられていた。また別の日には、移動教室なのにロベルトだけ知らされていなかった。教官に叱られているロベルトを、同級生たちがくすくす笑いをする。そのなかにのっぽのマルクスと小肥のニコラがいたことを、ロベルトは見逃さなかった。

 ここまでされるようないわれはない。ロベルトは耐えつづけた。けれど、まったく思い当たりがないといえばそれも嘘で、ロベルトは拳を作る。どうやらのっぽのマルクスは底意地の悪いだけでなく、相当根に持つ奴のようだ。まるで女みたいだ。ロベルトは口のなかで罵る。

 きっと、マルクスは野外実習のことを恨んでいるのだ。勝手な動きをしたロベルトを許さずにいるから、こうした嫌がらせをする。命を救った恩人として感謝してほしいくらいだと、ロベルトは思う。しかし、奴の矜持をひどく傷つけたのはたしかだった。あれがきっかけで、奴が喘息持ちだということも教官にも知られたはず、それなのにまだこの士官学校にいられるのだから、なんらかの圧力がかかっているのだろう。

 そもそも、のっぽのマルクスは最初からロベルトを気に入らなかったのだ。上流貴族の坊ちゃんは、下流貴族の子がここに混じっているのが目障りなのだ。遅いか早いかのどちらかで、とうとうロベルトはのっぽのマルクスに直々に呼び出された。

 出向くつもりはなかったけれど、筆箱を人質に捕られていたし、なによりもロベルトは我慢の限界だった。

 士官生の揉め事は禁じられている。特に暴力は厳禁で、それでも奴らはどうにかしてロベルトを痛い目に合わせたいと考えているらしい。のっぽのマルクスの隣には側近みたいに小肥りのニコラがくっついている。

 夕方には補習者をのぞいて、ほとんどが寮へと帰っているので残っている者は少ない。多少の騒ぎを起こしたところで厄介なことにはならないと、マルクスは踏んでいる。ロベルトは奴の取り巻きたちに囲まれていた。その中心にいるマルクスはちいさな国の王様さながらで、ロベルトはちょっと笑った。どこにでもガキ大将はいるんだな。それはマルクスの逆鱗に触れたらしく、いきなり拳が飛んできた。

「お前たちは手を出すな。俺がやる」

 ロベルトに拳を避けられたこともまた、奴の矜持を深く傷つけたようだ。じつのところ、士官生の揉め事はめずらしいものではなかった。今でこそ厳しく罰せられていても、ロベルトたちよりもすこし前の世代であれば、決闘は騎士の誇りとさえも言われていた。それも拳と拳を打ち合うのではなく、剣と剣を用いて。審判役を務めるのは上級生だ。

 最初はのっぽのマルクスの拳をただ避けていたロベルトだったが、そのうちに反撃に出た。奴の攻撃には飽きてきたところだし、やられっぱなしだと思われるのは癪に障るのである。ところが、ロベルトの右手はまともにマルクスの顔面に入ってしまう。なるほど。口では偉そうなことを言っていても、貴族の坊ちゃんは喧嘩慣れしていないらしい。のっぽのマルクスは防御すらしなかった。

「う、うわぁ……!」

 悲鳴をあげたのは小肥りのニコラだ。のっぽのマルクスは殴られた頬を手で押さえているものの、そこからひっきりなしに血が流れている。鼻の骨でもやったのか。せっかくの綺麗な顔が台無しだ。

「く、くそっ。俺はまだやれる……」

 悪態を吐くマルクスは上流貴族ならぬ言葉使いをする。

 そうして、まだロベルトに挑もうとするマルクスを取り巻きたちが止めたりなだめたり、決闘は一時休戦となった。拍子抜けしたというのがロベルトの本音で、まだ殴り足りないくらいだ。いつも街の悪ガキたちと喧嘩をしていたロベルトは正々堂々なんて言葉を知らない。殴り合いがはじまれば狙うのは急所だけだ。

 そのうちに騒ぎをききつけた上級生たちがやってくる。当然教官の耳にも入り、そのあとにロベルトが行く先はひとつだけだった。

 小一時間ほど事のあらましを正直に伝えたロベルトは教官の反応を待った。教官は厳しい面持ちで長いこと黙考し、やがて嘆息する。ロベルトはこの教官が苦手だった。

 長身でありながらも痩躯そうくで、しかし貧弱な印象は見えない。撫でつけた黒髪と切れ長の灰色の双眸と薄い唇、身に着けている教官用の制服には皺ひとつとなかった。神経質で気難しいたちであると、見習いたちが噂するのもわかる気がする。ヘルムートは教官のなかでも一番厳しい人間だった。

「君の言い分は?」

 最初の声がそれだったために、ロベルトはまじろぐ。たしかに事実は嘘偽りなく言ったものの、ロベルトは自分の主張をしなかった。

「ありません」 

 ロベルトは数呼吸を置いてから、そう答えた。教官は相好を崩さない。もとより必要以上のことを話さない教官だが、今日はまたいつもに増してそれであり、ロベルトは尋問をされているような気分になった。

 正直なところ、言い分はある。先に手を出してきたのはのっぽのマルクスでありロベルトは反撃しただけ、いわば正当防衛だ。運悪くマルクスは顔を殴られて鼻の骨を折った。それなのに、怪我をさせたロベルトが加害者なのは腑に落ちないのだ。

 黙りこくっているのは訴えても無駄だと思ったからだ。どうせ悪者なのはロベルトだ。あのとき、のっぽのマルクスとつるんでいた同級生たちも、駆けつけた上級生たちも、誰もロベルトの味方などしてくれなかった。ロベルトが下流貴族の子であるから、それにマルクスは上流貴族の坊ちゃんで、親はかの元老院だ。マルクスに味方をしておいて損はない。

「では君は、自分の行いが正しいと思うか?」

 予想しなかった声がきたので、ロベルトは二呼吸ほど空けた。

「ただしいとは思っていません。でも、間違っていたとも思いません」

「なるほど。では、どうあるべきだったと思う?」

「それは……、わかりません」

 正直な答えだった。そこではじめて教官の目がすこしだけ微笑んだ。

「そうだな。おなじことを問われれば、私も答えには窮するだろうな」

 はじめは試されているのだと、ロベルトはそう感じていたが、意図はまた別にあるような気がした。教官が伝えたいのは、ロベルトが知っておかなければならないことだ。

「たしかにそうだ。君がマルクスを殴りつけなければ、やられていたのは君の方だろう。そして、マルクスの呼び出しに応じなかったならば、嫌がらせはひどくなっていた。上級生や教官に訴えたところで無駄だろう。君は意気地なしの扱いをされる」

 教官はロベルトの心の声を皆まで言う。しかし、ヘルムートはすべてロベルトに味方してくれるわけではなかった。次の声はこうだ。

「君は、今の君が置かれている状況を士官学校というちいさな世界だけでのことであると、そう考えているのかもしれない。だが、こういったことはどこの世界でもつきものだ。特に、これから先には。騎士は常にどこかの軍に身を置かなければならない。例外もあるが、君はおそらくそうならない。さすれば、道はひとつしかなくなる。いや、騎士とは本来そうあるべきだ」

 謎かけ問題ならば得意なロベルトでも、これはそういった類いの話ではなかった。けっきょく懲罰室行きは免れず、ロベルトは暗くて冷たい部屋のなかにぶち込まれた。やっとおひさまを拝めたのは一日半が経ってからで、そのあいだに教官の声をずっと考えていたものの、やはり理解できないままだ。そして、本当の意味がわかるようになるのは、これよりも何年も先のことだった。

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