彗星たちのアリア

朝倉千冬

教会の隅に咲く花

 教会の隅には春になると花が咲く。

 青と、紫の色が綺麗な、だけどちいさくて目立たない花だ。

 年老いた神父さまと、盲目の修道女が二人きりのさびしい教会には、花の世話をする者なんて誰もいなかった。けれど、あの花は、春になると綺麗な色で咲く。

 父さんの好きだった花だ。

 ロベルトはただ一度だけ振り返った。すると、視界の端にちいさな女の子が見えた。ロベルトのくすんだ色の金髪よりも、もっと明るくて蜂蜜を溶かしたような金髪のマリアンヌ。ちいさなマリアはこっそり追ってきたのだろう。

 ロベルトは身を乗り出しかけて止めた。がたん、ごとん。馬車は音を立てて揺れる。むやみに立ちあがったら、振り落とされないからだ。

 馬車といっても上流貴族の使う立派な車体があるわけでもなく、収穫を終えた小麦を運ぶための荷車に近かった。それでも文句なんて言えない。一人で馬に乗れないロベルトには他の手段などなかったのだ。

 ロベルトは膝を抱えてじっとしている。だいじょうぶ。マリアは泣き虫だけど、しっかりした子だ。おれがいなくなってもすぐに慣れる。ロベルトは口のなかで繰り返す。だいじょうぶだ。不安に思うことなんて何もない。

 ロベルトの隣には背嚢袋がひとつ、王都までの持ち物はこれだけだった。筆記用具は支給されるので衣服の替えにしても最低限でいいし、士官学校に行けば黒の制服がロベルトを待っているだろう。それに、上着のポケットのなかには銀貨が二枚ある。これを渡してくれたのはロベルトの父親だった。

 けれど、あの人はロベルトの本当の父親なんかじゃない。

 ロベルトの父さんは三年前に流行病で死んでしまったので、今の父親はロベルトにとっては他人でしかなかった。

 がたん、ごとん。馬車が揺れるたびに尻が痛む。けれど、たたかれるときよりはずっと痛くなかった。

 ロベルトの新しい父親は、事あるごとにロベルトのことを殴る人だった。特に酒を飲んだときが最悪だ。普段は温厚で、人好きのする笑みを見せるくせに、酒を飲めば急に性格が変わる。そうして、標的にされるのはロベルトで、ロベルトはいつだって痣だらけだった。

 庇ってくれる者なんて誰もいなかった。ベルク家の家長は父親だから誰も逆らえないし、ロベルトの母さんは新しい夫の機嫌を損ねるのがこわくて見て見ぬふりをする。他の家族はロベルトよりも年下の子どもが二人だけ、どちらも父親の連れ子だった。病弱な弟ジョルジュとおしゃまな妹マリアンヌ。自分よりもちいさい弟たちが殴られるのは嫌だったので、ロベルトはひたすらに我慢した。

 それもとうとう他人に知られた。教会の隅っこでこっそり泣いていたのを、神父さまに見られたのだ。

 ベルク家は騎士の家系ではなかったけれど、貴族の家の子ならば士官学校に簡単に入ることができる。神父さまはそう勧めてくれた。父親は驚いた顔をし、しかし内心では微笑んでいたはずだ。ベルク家は傾いている。一人でも食い扶ちが減るのは喜ばしいとでも思っているのだろう。それに士官学校に学費は要らないし、騎士になってしまえば国からの奨励金が出るのだ。

 ロベルトのちいさい背中を見送る母親の目には涙が見えたものの、ロベルトは母さんに別れの声もしなかった。父さんのときだっておなじだ。ロベルトの母さんは別にかなしくて泣いているんじゃない。あれは、ひとりぼっちになるのをおそれているから演じているだけだ。病弱なジョルジュは熱を出していたので見送りに来られずに、王都でお土産をたくさん買ってきてねと言ったちいさなマリアに、ロベルトはちょっと笑った。

 がたん、ごとん。馬車は揺れる。

 本当は、行きたくはなかった。騎士になんてなりたくはなかった。でも、ここにはいられない。あの家にロベルトの場所なんてないのだ。

 野苺を拾い食いした茂みも、夏には裸で遊んだ小河も越えて橋を渡ってしまえば、もうロベルトの知らないところだった。

 がたん、ごとん。馬車は揺れる。今度は背中も痛んできた。

 不安になることはない。ロベルトは繰り返す。でも、次第に見るものがなくなって、ロベルトは瞼を閉じた。父さんの好きだった、あの花のにおいがした。

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