攻撃軍と防衛軍

 夜明けとともに襲撃がはじまる。

 そう言った彼のことを誰もが信用した。ただ一人、ロベルトをのぞいて。

 信用――ではなく、信頼と言い換えた方がいいのかもしれない。彼の言葉はふしぎとそれを信じさせる力がある。ロベルトが受け入れないのは、意地が邪魔をしているからだ。

 黎明れいめいが近づいてきた。

 仲間たちのなかに眠そうに目を擦る者はいない。皆が一様に表情に描いているのは、緊張とおそれといった色だ。ロベルトも少なからずそれらを感じていたらしい。この胴震いは寒さからくるものではなかった。

 皆はそれぞれ両手剣を佩いている。魔法を使えるのは一人だけで、だから何がなんでも守らなければならない。治癒魔法の使い手は貴重だ。なにより、かの者は指揮官なのだから、ここで倒れさせるわけにはいかない。

 エリックは同級生たちから神の申し子の渾名で呼ばれている。しかし魔法の腕前はそこそこだった。由緒ある神官の家の子であり、敬虔な教徒となればそれなりに期待したいところでも、神はエリックにその才能を授けなかったようだ。それに神の申し子エリックはおだやかな気質で、皆から好かれている。つまり指揮官にまるで向いていないのだ。教官に無作為に選ばれたので、本人も自覚をたいして持っていないのだろう。

 皆が右往左往するなかで、一人だけ冷静な奴もいる。彼はまず、火を熾すことを提案した。

 イレスダートの雨期が終わり、もうすぐ夏がはじまる。

 それでもやはり夜は肌寒いし、森のなかで過ごす夜はおっかない。ただし、あたたかさや安心を得られても、それだけ危険を伴うのは致し方なかった。そして、彼は言う。あえて敵にこちらの居場所を知らせるのだと。

 ロベルトたち防衛軍の目的はあくまで指揮官を護衛する任務だ。神の申し子エリックがそれで、つまりエリックを守るためにロベルトは戦う。

 このなかにはのっぽのマルクスと小肥りのニコラ、うたうたいのパウルといった顔は見られず、それぞれあちら側の部隊にいるようだ。夜が明けると同時に、奴らは神の申し子エリックの持つ銀のロザリオを狙って突撃してくる。望むところだ。あいつらには絶対負けない。ロベルトは浅くなった呼吸にも気がつかずに、そのときを待っていた。

「ロベルト」

 声をかけたのは彼だ。さすがにこの状況にあれば笑みはない。

「すこし、落ち着こう。気が逸れば負けるのはこちらだ」

「わかってるよ。そんなことは」

 ロベルトに気圧けおされずに、しかし彼の唇はそれ以上動かない。ただ、その目は何かを悟らせようとしているらしく、ロベルトはぷいと顔を背けた。

 ブレイヴ・ロイ・アストレアとは、あれから特別な関係を築けてはいなかった。なにしろ公爵家の子ども、ロベルトとは身分がまるでちがう相手だ。それなのに彼はそんなそぶりを見せないものだから、ロベルトはそれが嫌味に見える。友達にはなれそうもない。

 ロベルトがもうすこし大人であれば従っていたと思う。忠告は説教みたいで余計に癪に障るのだ。けれど、ブレイヴの声はやはり正しかったのかもしれない。彼を押しのけて、ロベルトが向こうへと行こうとしたそのときだった。

 いきなり誰かの悲鳴があがった。一番近くにいた者たちは、たちまちに無数に降り注ぐ矢の餌食となった。

 陣形を取る間もないままに、混乱がはじまっていた。

 指揮を執るはずの神の申し子エリックは何をしているのだろう。ひとつも声がきこえてこない。ロベルトは一気に雪崩れ込んできた攻撃軍を相手に果敢に戦い、しかしすぐそこにいたブレイヴの姿も見えずに捜す余裕もなかった。

 やがてロベルトの耳に届いたのは、のっぽのマルクスの声だった。どうやらあちらの指揮官はマルクスのようだ。それならば話は早い。奴の銀のロザリオさえ奪えばこちらの勝ちだ。ロベルトは狙いを定めることにした。

 敵もまたマルクスを守るために必死になる。しかも奴はなかなか指揮力があるらしく、仲間たちをうまく使っていた。近づくのに苦労するのも、その危険にしても覚悟の上だ。

 あいつだけには負けたくない。意地と矜持と。いつぞやのマルクスとまるでおなじでも、ここにロベルトを止める者はいなかった。

 見習い騎士たちも二年目となれば、それなりに剣の扱いにも慣れてきていた。剣戟がつづいたと思えば力負けした方が先に倒れるか、あるいは相手の素早さに翻弄されて剣を手放した者もいる。そうすれば両手を上にあげるしかないだろう。

 ロベルトは攻撃軍と防衛軍のどちらが優勢であるのか判断がつかない。奇襲を受けた方が不利な状態でも、防衛軍はどうにか持ち直したようだ。仲間たちは思いの外、頑張っているのかもしれない。いや、ここにきて神の申し子エリックが指揮を執っているのか。

 けれども、やはり指揮官をたたかなければ、攻撃軍を退けることは不可能だ。仲間のなかにそんな勇気のある者はいない。だから、自分が行くしかないのだと、ロベルトは生唾を喉に押し込んだ。

 一人、二人、三人目を躱して、ロベルトはついにのっぽのマルクスの間合いへと入った。奴の目をちらりと見たとき、マルクスはいつものように蔑視べっしの色を浮かべていた。前にロベルトにこっぴどくやられたことを覚えていないのだろうか。ロベルトは力任せに剣を振り回す。マルクスを守っているのはあと二人だけだ。しかし、萎縮した一人は剣を持つ手が震えていて、もう一人は逃げ出してしまった。好機は今しかない。そのはずだった。

「ロベルト! あぶない!」

 強い力で押されたと思えば、ロベルトは頭ごと地面へと突っ込んだ。慌てて身を起こしたロベルトの瞳が映したのは彼の姿、それからちいさな竜巻だった。

 ロベルトは攻撃魔法というものをちゃんと見たことがなかった。

 見習い魔道士たちが扱える魔法といえば、せいぜい炎の玉を作るくらいだ。それも動きが鈍いので、たやすく躱せる代物だった。だからこそ、見習い魔道士たちは毎日欠かさず魔法の練習をする。ロベルトたちが剣の稽古をして、槍の練習に、弓を習うように。見習い騎士たちが剣をそこそこ使えるようになれば、見習い魔道士たちだって魔法が上達してゆく。これは、ロベルトの油断したからだ。いや、慢心だったと認めるべきか。あちらに配属された魔法の使い手は、何も治癒魔法の使い手だけではなかったのだ。

 吹き飛ばされた彼の身体はロベルトとまともにぶつかる。そのあいだに歓声があがっていた。どうやら攻撃軍は、神の申し子エリックから銀のロザリオを奪い取ったらしい。

 のっぽのマルクスの勝ち誇った顔が見えても、ロベルトはふたたび彼へと視線を戻す。ロベルトを庇ったブレイヴは真正面から風の魔法を喰らい、怪我を負っていたのだ。


          


 太陽が姿を消した途端に寒さがやってきた。けれどもロベルトは暖を取っている同級生たちとはすこし離れたところに一人で座っている。夕食には肉がたっぷり入ったスープ(ちょうど昨年の今頃にも食べた猪鍋)を平らげて体力は回復したものの、気力はどうにも戻ってこない。心のなかが空になった気分だ。

 先ほどからずっと歌声がきこえている。うたうたいのパウル。一年前よりも歌がうまくなっているから、誰もパウルの歌を邪険にしなかった。それどころか一人、二人とパウルにつづいている者もいるくらいだ。

 こんな時代でなかったら、うたうたいのパウルはその渾名のとおりに王宮で吟遊詩人として呼ばれていただろうに。皆が口をそろえて言う。

 ロベルトはただぼんやりと炎を見つめていた。

 食べ盛りの見習いたちは一杯のスープでは物足りないらしく、おかわりをねだる列ができている。あるいは仲間と談笑をする者もいて、早朝の襲撃が嘘みたいだ。たしかに実践さながらの演習が終わって、今はもう攻撃軍と防衛軍ではないとしても、ロベルトにはそれがどこか虚しく見えていた。

 時間が経てば興奮も冷めてくる。のっぽのマルクス率いる攻撃軍の勝利で終わったことはたいして心に残らなかった。たぶん、意地とか矜持とかとはちがうものが、ロベルトのなかでぐるぐると渦巻いていたからだろう。

 ため息の数は数えていない。しかし、自分でも嫌になるくらいに憂鬱な気分だ。ロベルトは膝を抱えてうずくまっていたが、しばらくして顔をあげた。視線の先はうたうたいのパウルだ。


 聖なる炎を灯せ

 ぼくらは聖王の子ら


 父さんから授かった剣は勇気の証

 母さんが忍ばせてくれたハンカチは大事なお守り


 おそれは要らない

 ぼくらは聖王の子だ


 剣を持ち、槍を構え、矢を放て

 戦え、守れ、おそれるな


 ロベルトは歌が好きではなかった。

 ちいさい頃に熱を出しては、侍女のマーラのへたくそな子守唄をきかされた。教会でも盲目の修道女が口遊むのは、それはひどい詩だった。うたうたいのパウルはなかなか音程が優れているものの、やっぱり歌は好きにはなれない。けれど、ロベルトは気がついたら皆とおんなじようにそれを歌っていた。

 ゆるされたいのかもしれない。

 そう思ったときには、ロベルトは彼を捜していた。彼はすぐに見つかって、ちゃんと自分の足で立っているし歩けてもいるようだ。神の申し子エリックでも治せるくらいの傷だったのか。ロベルトは安心と同時に、また別のことを考えてしまう。彼はロベルトのせいで怪我をした。それなのに、何もなかったかのような笑みを見せるものだから、ロベルトは感情に身を任せてしまった。

 同級生たち数人がロベルトを羽交い締めして、やっと二人を引き剥がす。いきなりロベルトが掴みかかってきたというのに、彼はやや驚いた表情をしつつも怒ってはいないようだ。いや、腹を立てているのはロベルトの方だ。

「何をしている?」

 そこへ、止めに入ったのは教官だった。同級生たちは声をそろえて言い訳をする。ちょっとふざけていただけとかじゃれ合っていただけだとか、けっして喧嘩ではないだとか、とにかく懲罰室送りにならないようにと必死だ。当の本人たちの方がよっぽど冷静で、だからアドリアンは二人を並んで座らせた。お説教のはじまりだ。

「私の家はあまり裕福ではないのに兄弟が多くてな。夕食で腹が満たされなかったときには、よくこうして星を眺めていた。ちいさい妹が言ったものだ。あの星が砂糖菓子だったらよかったのに、と」

 ロベルトとブレイヴは互いの顔を見た。こういうときになんて答えるのが正解かわからない。するとアドリアンは急に笑い出した。

「そんな顔をするな。不幸話をしたいわけではない。ただの思い出話だ」

 そうは見えない。ロベルトはアドリアンの顔をじっと見る。それなのにアドリアンはこちらに視線を合わせず、ただ空を見あげていた。

「イレスダートにはいろんな人間がいる。いや、イレスダートだけではない。北のルドラスに西のラ・ガーディア。山脈を越えればグラン王国が、海を渡った他の大陸に行けばもっとだ。世界は広い。それだけたくさんの人間がいる」

 いったい、何を言いたいのだろう。疑問がそのまま出ていたようで、アドリアンは次に苦笑した。

「あの星たちとおなじであると、そう思わないか? 小さくとも強い光を持つもの、大きくて赤く光るものもある。並び合っているのはまるで夫婦のようだな」

「それと、ぼくたちにどう関係が」

「まあ、焦るな。つまりは……、そうだな。個性の数だけ、無限の可能性があるとは思わないか?」

 ロベルトとブレイヴは同時に瞬いた。なんとなく話の筋は見えてきたとはいえ、それは騎士にとってもっとも必要のないものだ。騎士には意思など要らない。個であるべからず、そこに属するべきだと、これまで何度も教えられてきた。だから今のアドリアンの言葉は矛盾している。にもかかわらず、アドリアンは教官の顔になっていた。

「さて。長話が過ぎると退屈をする頃だな。二人ともにきこう。今朝の実習でどうあるべきだったのか? まずはブレイヴだ」

「俺は……」

 そこから二拍が空いたのは、思い返すための時間だったのだろう。ロベルトもまた振り返る。

 突然の攻撃は混乱そのものだった。指揮官であるはずの神の申し子エリックは的確な指示を出さず、それどころかどこにいるのかさえわからなかった。ロベルトもブレイヴも懸命に戦った。それは間違っていない。防戦ばかりでは負けると判断したのもおそらくただしい。そうした行為が責められるというならば、エリックなんて懲罰室行きだ。

「俺は、あのとき取った行動が誤りであるとは思っていません。ただ……、指揮官であるエリックから離れるべきではなかったかもしれません」

「私はそれを咎めるつもりはないよ。しかし、ブレイヴ。お前がそれを悔いているのなら、己で認めることとおなじだぞ」

「それは……」

 意地悪な物言いをする。これでは誘導尋問だ。そして、教官の目はロベルトに向く。

「ぼくは間違っていたとは思わない。敵の指揮官はマルクスだった。だから奴を狙った」

「なるほど。つまり、お前は敵のなかに潜んでいた魔道士に気づかずに、むざむざやられに行った」

「ぼくは……!」

 ロベルトは拳を作る。正当性を訴えたとしても、そこにまったくの私情がなかったわけではない。ロベルトとのっぽのマルクスの不仲は教官だって知っている。

「教官、ロベルトは勇気ある行動をしました。それを誤りだとおっしゃるならば俺も、」

「そうだな。ブレイヴ、お前は身を挺してロベルトを庇った。だが、それよりもマルクスを優先させたなら?」

 そこで沈黙になった。結果論だ。ロベルトは口のなかでごちる。

「お前たちは正直だな。だが、それでいい。私はこれが正解であるとは言わんよ。そんなものは状況によって異なる上に、これからもその都度選択を迫られるだろう。答えを導き出すのはお前たちだ」

 反論する声をなくしていたのは気が削がれたわけではなく、そのとおりだと思ったからだ。ブレイヴもおなじだったようで、しかし逡巡の表情をする。

「つまりはこうだ。お前たちが仲違いをする必要はないということだ」

 アドリアンはロベルトとブレイヴの肩をたたく。豪快で遠慮がなかった。

「ああ、パウルは本当に歌がうまいな」

 歌が好きなのだろうか。アドリアンはそのまま、輪を作ってパウルの歌を共に口遊む仲間たちのなかに入っていった。

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