故郷へ(1)
士官学校の最後の一年がはじまった。
最上級生になればやっと一人部屋を与えられる。二年間ずっと一緒だった彼ともお別れだ。それなりの信頼は築けたと思う。けれども、友とはっきりした言葉で表せるような関係であったかどうか、ロベルトにはわからない。卒業後はもう会うこともないだろう。
新しい部屋は四階の角の場所だった。日当たりは良くともやはり部屋は狭く、けれど私物の少ないロベルトは小一時間ほどで片付けを終えた。机の上にはまだ収めてはいない手紙がひとつ、これはたしか三日前に届いたものだ。
妹からの手紙はこれが最初ではなかった。
入学したばかりの頃は何度も読み返していたが、そのうちにさらっと流すだけで、今は封蝋を切る前に
手紙を読む気になったのは気まぐれだ。けれど、ロベルトはちょっと読んだだけで、もうため息を吐きたくなった。マリアンヌからの手紙は何枚も綴られていて、ほとんどがロベルトに対しての不満や非難の言葉だった。
ロベルトはしばしの逡巡のあとに立ちあがった。ベルク家に帰りたくない理由などいくらでも思いつくものの、今回は言い逃れはできないだろう。外出、または外泊の許可は通常では前日までに必要だった。ただし火急の場合はのぞくために、教官はすぐにロベルトを送り出して、励ましの声をする。ロベルトの方がずっと落ち着いていたくらいだ。
一度部屋へと戻ったロベルトは外套を羽織ると、銀貨二枚と金貨を一枚だけポケットに突っ込んだ。昼の混雑が終わった食堂で、黒パンと林檎をひとつずつ分けてもらい、その足で厩舎に向かう。顔見知りがいれば面倒だと思っていたところ幸か不幸か、今日の当番はエリックだった。
神の申し子エリックは汚れるからと、いつも馬の世話を嫌がっていた。ロベルトを見るなり露骨に眉間に皺を作ったのも不機嫌が理由だけではなく、いつかロベルトに殴られたのを未だに根に持っているからだ。しかし、エリックは余計な詮索をせずに、ブラシをかけ終わった馬を目顔で知らせる。それから鞍を取り付けるロベルトの背中に、小声で気をつけて、とだけ残した。
本当はやさしくて良いやつなんだけど。
ロベルトは口のなかでごちる。エリックにもパウルにも散々世話になったのに、ちゃんと謝っていなかった。今さら平謝りしても、きっと許してはくれない。それに、二人ともロベルトがそういう
城下町へとつづく坂道を一気に駆けおりて、そこから西の門を抜ける頃にはロベルトはもうエリックを忘れていた。日が落ちるまでには、もうすこし王都から離れておきたい。中心部の街は素泊まりするのもなかなか値が張るのだ。街道に沿って馬を飛ばせば二日目の夜には着くはず、一日は野宿となりそうだ。
十六歳のロベルトは一人の野宿がこわいなどとは言わない。むやみに森深くへと入らなければ迷うこともなく、イレスダートには危険な獣も存在しなかった。だからロベルトはいつも思う。一番厄介なのは生きている人間なのだと。
北のルドラスとの争いは一旦落ち着いていたが、しかしイレスダートは疲弊している。
騎士団に所属していれば国からの保証が約束されていたとしても、それもすべてに行き渡っているかどうか。騎士や貴族、あるいは商家でもない平民は弱る一方で、一年先の未来よりも今日のパンを苦労するようになれば、そのうちに身を落とすしかなくなってしまう。そうしたならず者たちが貴族の馬車を襲ったという事件は、マイア国内でも頻繁に起きていた。
士官生の制服を着ているとはいえ、ロベルトの背丈は大人には届かない。野盗はロベルトを子どもだと侮る。だが、ロベルトは人を確実に殺す術を知っていればその逆も知っていた。施しも許しも与えるつもりはない。あのときの二の舞はごめんだ。
空の色がさらに濃くなってきた。
ロベルトは街道をやや逸れた林道の方へと向かう。黒パンと林檎を腹に収めればあとは横になるだけ、今宵は月の灯りで充分だ。それでも、複数に襲われたならば、ロベルトは全員を殺す。アドリアンとおなじように、一人だって見逃さない。馬を狙った奴を最初に殺すのは見せしめだ。足を奪われたらこの旅はずっと長引くし、馬はロベルトの耳になってくれる。
ロベルトは、はじめて王都へと向かった日を思い出していた。アドリアンはちいさいロベルトを馬に乗せてくれて、夜には外套を貸してくれたから凍えずに済んだ。十二歳のロベルトは、本当は王都になんて行きたくはなかった。けれども、もう二度とあの家には戻れないと、そう思っていた。
目の痛みとともにロベルトは目が覚めた。懐中時計を持ってこなかったが、とっくに朝を過ぎているのがわかる。馬がロベルトの顔に鼻面を押しつけていた。
ロベルトは林道からまた街道へと馬を進ませる。イレスダートの主要の街道だというのに馬車もほとんど走らず、擦れ違ったのは二組ほどだ。まもなくムスタール公国では春の祭儀が行われる。敬虔な教徒はすでに旅立っているのだろうか。ロベルトが出会ったのは旅商人で、異国の商品をここぞとばかりに勧めてきた。商人の護衛の騎士がロベルトを見習い騎士だと認めなければ、紛い物の装飾品でも売り付けられていたかもしれない。
嫌な時代になったと、ロベルトは思う。国は弱る一方で、皺寄せはいつだって民にくる。戦争だって終わっていない。いつルドラスが襲ってくるかと、民は不安でいるから旅商人に取り合わないのだ。
騎士は邪険になどされない。子どもも、女も、老人も。騎士を人殺しではなくて英雄の目で見る。そうした人たちを守るのが騎士の仕事であると、言ったのは誰の声だったのか。アドリアンか、今はもう教官ではないヘルムートだったのか。ロベルトは覚えていない。
二日目の夜はちゃんとした寝台で眠った。
安っぽくて古い寝台は寝返りを打つたびに嫌な音を立て、物置のように狭い部屋は湿っぽい上に黴くさい。この日はじめての食事はすこし奮発した。とはいえ、よく炒めた玉葱とレンズ豆のスープに白身魚の揚げ物、それからソーセージと白パンが二切れに、水のように薄い葡萄酒で銀貨二枚は随分と高い買い物だ。おまけに風呂は別料金と店主が言い張るので、ロベルトは上着も脱がずに毛布に包まった。腰に佩いた両手剣は士官生たちに与えられる。鞘にはマイアを象徴する刻印が施されているからか、制服に覚えがなければ容貌は騎士のそれだと思うのだろう。足元を見られたところで、ロベルトは怒る気にもならなかった。
ロベルトが故郷の街の門を潜ったのは、まもなく夕焼けがはじまる頃だった。
やがてベルク家の邸宅が見えてくる。十二歳のロベルトがそこを出て行くときには庭の草は伸び放題だった。誰も手入れなんてしない花壇はさびしいもので、しかし今は赤や黄色といった彩りが、ロベルトの目をたのしませる。執事も他の侍女も、もうずっと前に解雇したから残っているのは一人だけなのに、いったい誰が手入れをしているのだろう。まるで本当の貴族の家みたいだ。
我が家に戻ってきたというのに、ロベルトはそこでしばらく躊躇っていた。
帰ってきたんだ。つぶやく声は他人事のように落ちる。裏口から物音がきこえたのはそのときだった。
侍女のマーラは持っていた水桶を投げ捨てて、駆け寄ってくる。それからロベルトの頬を両手で二回挟み込んでから抱擁をした。男みたいにたくましい腕のなかは、ちょっと痛かった。
「兄さん!」
つづいて、裏口から回ってきたのは金髪の娘だった。
ロベルトのくすんだ色の金髪よりも、もっと綺麗で蜂蜜を溶かしたような髪の毛は、家事の邪魔にならないようにと丁寧に結われている。生成り色の麻のワンピースは古着を着回しているのか貴族の娘にはとても見えず、そこらの街娘のようだ。少女というには背が高い。ロベルトはこの四年間でずっと背が伸びていたが、背丈のちがいは頭ひとつ分ほどだ。嗚咽する娘を抱きしめながらロベルトは言う。
「おまえ、いくつになった?」
それには険のある目が先に返ってきた。
目元も鼻筋にしてもまるで似ていないのは、二人が父も母もちがう兄妹だからだ。けれど、そうではない。妹が怒っているのは四年間も家に戻らなかった上に、ロベルトがひさしぶりに会った家族に、ただいまの挨拶もない薄情な兄だからだ。
「十三歳よ。忘れたの? あたしは兄さんの三つ下だってことも」
忘れてはいない。けれども、ロベルトにとって妹はいつまでもちいさなマリアのまま、だからこのマリアンヌは知らない他人みたいに見える。
「なにから、話せばいいのか」
「いいよ。手紙はちゃんと読んだから」
ロベルトはマリアンヌの手をそっと外す。水仕事で荒れた手は年頃の娘というよりも老婆のようだった。土産のひとつでも買ってくるべきだったと、ロベルトは後悔をする。王都では意中の女性に香水や化粧品を贈るのが流行っていた。そういったものに縁のないロベルトでも、妹の喜ぶ顔を見るのは悪くない。
家のなかに入れば台所からいいにおいがした。仔牛肉の煮込みはロベルトの好物だった。マーラはにっこりとする。ロベルトが帰ってくると信じていたのだろうか。
家族でひさしぶりに夕食の時間をたのしむ前に、ロベルトは二階へとあがる。狭い階段も廊下も、子どもたちの部屋も四年前のままだった。一番奥にはロベルトの父さんの書斎があった。けれど、ずっと前に書籍を全部売り払ってしまってからは、ロベルトの父親が使っている。その部屋の前でロベルトは急に息苦しくなった。いつだって、この部屋でロベルトは嫌な思いをした。逆らえばもっと殴られるのでロベルトはじっと耐える。朝になったら全部忘れたみたいにロベルトに優しくする。そういう父親だった。
兄さん。マリアンヌが囁く。いつまでも扉を開けないロベルトに替わって、マリアンヌは扉をたたいた。中から返事はなかった。
年老いた男が眠っていた。近くでやっと拾えるほどの呼吸はちいさくて、まるで死人のようだと、ロベルトは思った。事実、そうなのかもしれない。父親はほとんど寝たきりだ。
「調子の良い日だってあるのよ。そのときには、父さんがすきだった香茶を淹れるの。ミルク粥の作り方はマーラに習ったわ」
微笑するマリアンヌにロベルトはただうなずく。本当はもうすこし近くでちゃんと顔を見るべきなのに、どうしても足が動いてくれない。理不尽に殴られたとしてもロベルトは父親に対して憎しみは抱かなかった。下流貴族同士の再婚などめずらしくはない。しかし、父親が街の人たちに陰口をたたかれていたのを、ロベルトは知っている。そうして、酒に逃げていた弱い人であっても、今はただの病人だ。頬は痩せていて髪も白髪の方が目立つ。まだそんな歳ではなかったように思う。ロベルトの父さんのときと一緒だ。そうやって、人は死を迎えてゆく。
人に移る病ではなかったことだけが幸いか。それでも妹は最後の日まで父親の側にいるのだろう。侍女のマーラは家の仕事だけで忙しく、だから父親の世話はマリアンヌが一人で負う。食事も着替えも、それこそ排泄の処理もだ。
同情をするのは間違っていても、妹が不憫でならなかった。泣き虫だったちいさなマリア。甘えたがりでロベルトにくっついてばかりだったちいさなマリア。今、ロベルトの目の前にいる三つ下の妹マリアンヌは、もうちいさなマリアではなかった。ロベルトは熱くなった目頭をそっと押さえる。妹は気づいていても、何も言わなかった。
父親がよく眠っていたから起こさずに、そのままロベルトは部屋を出た。咳がひどいときはそれこそ夜も眠れないという。医者を呼ぶのはひと月に一度だけで、増えていく薬も気休めに過ぎなかった。
「母さんは?」
マリアンヌはただ首を横に振る。ロベルトの母さんはもうずっと前からこうだった。機嫌が良い日にはたのしそうにお喋りしたり笑ったりするのに、一度塞ぎ込めば何日も閉じ籠もってしまう。ロベルトの父親の具合が悪くなってからは、それがますますひどくなったとマリアンヌの手紙には書いてあった。ロベルトは母さんの部屋の前で呼びかけようとしてやめた。四年ぶりに帰ってきた息子にも、きっと母さんは顔を見せてくれない。
ロベルトがちいさかった頃に、一度だけ母さんに叱られたことがある。そういえば、母さんの大事な花瓶をロベルトが割ってからは、新しいものを買っていなかった。他にもロベルトのじいさんが趣味で集めていた美術品の数々も、みんな手離しまったようだ。士官生に支給される国からの補助金も、この家の生活費に消えているのだ。ベルク家の明日は明るくない。大人たちがこんななのに、誰がこの家を守るのだろう。
一階へとおりたロベルトが台所へと反対の方へ向かったので、マリアンヌから呼び止められた。ロベルトは作った笑みをする。
「知り合いに会ってくる。だから、夜はおれの分はいい」
落胆と安堵と。マリアンヌの表情にはその両方が描かれていて、どちらが濃かったのか、ロベルトは見ないふりをした。
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