故郷へ(2)

「それなら、小兄ちいにいさんを迎えに行ってくれないかしら?」

 マリアンヌのお願いにロベルトはやや小首を傾げる。喘息持ちで身体の弱かった弟ジョルジュはロベルトの一個下で、十五歳となればもう子どもじゃない。思ったままが顔に出ていたようで、次のマリアンヌの声は早口だった。

「夜は心配なのよ。このあたりは大丈夫だっていうけれど、隣街では野盗が出るそうだから」

 ジョルジュはよく教会へと通っているらしい。しかし、ここから教会までは小一時間もしない距離だ。

 身体の弱い弟は外に出ることが少なかった。本当は一緒に遊びたかったのだろう。小川でちょっと水遊びをしただけで、その夜には高熱ですぐに医者を呼ぶような子どもだった。父親はロベルトの尻をたたく。お前を真似たから弟はこうなったんだ。喘息持ちのジョルジュにはとにかく金が要る。毎月の薬代も父親は渋るようになって、侍女のマーラは教会に駆け込んだ。神父さまは黙って小棚から薬をすこし分けてくれた。ジョルジュをここまで育ててくれたのは教会だ。けれど、弟が敬虔な教徒だということをロベルトは知らなかった。

 ロベルトの作った四年という空白は、弟も妹もちがう人間にしてしまった。

 この街はなんにも変わっていないのに、ベルク家だけが知らない場所に見える。気の置けない奴なんてここにはいない。ロベルトの吐いた嘘にも、マリアンヌは黙っていた。そうじゃない。最初から他人同士の集まりだったんだ。ロベルトは口のなかで言う。

 夕暮れがはじまって、あちこちの家からはいいにおいがしてきた。ロベルトの腹は鳴りっぱなしだ。川沿いに並ぶ屋台はいつも常連客ばかりで、大工仕事を終えた男たちが麦酒エールでさっそく乾杯している。羊の骨付き肉はよく脂が乗っていて美味しそうだ。ロベルトはそれを無視して進んで行く。堂々としていればいいのに、士官生の黒服はなんだか場違いでならなかった。

 大通りをまっすぐに行けば見えてくるのが黒猫亭だ。

 その名のとおりに黒猫たちが今日もたくさんだ。店の前で眠っている兄弟猫に、厨芥ちゅうかいを漁る猫はロベルトを気づきもしない。かと思えば目の前を横切っていく一匹もいるし、この店には何匹の猫がいることやら。扉を塞ぐ猫の首を掴めば甘えた声を出した。警戒心はないらしい。

 おんぼろの古扉を押し開ける。薄暗い店内はほとんど満席で、給仕娘が忙しくしている。恰幅のいい亭主がロベルトをちらと見るなり、顎で端っこを指した。以前、ロベルトは裏口から忍び込んだ悪ガキたちの一人だった。亭主はロベルトの尻をたたいたことなんて忘れているらしい。

 黒猫亭には品書きはなく、亭主の自慢の料理を給仕娘が勝手に持ってくる。はじめは麦酒とソーセージが、しばらくして麦種のおかわりを頼めば芋の団子が付いてきた。素材を生かして塩のみの味付けでも、熱々はやっぱり美味しい。他の長机にも次々と麦酒の注文が入っていた。三杯目は亭主自ら運んできて、蕪とひよこ豆のスープと白身魚のパイを並べる。酔っぱらいたちは女房の悪口を言ったり子どもの自慢話をしたりしている。戦争からは無縁の平和な街だと、そう思った。

 給仕娘に金貨を一枚渡せば、銀貨が二枚と銅貨が三枚返ってきた。なんだ。覚えていたんだ。ロベルトは亭主の背中に礼を伝える。亭主は大鍋と格闘していた。

 黒猫亭を出たロベルトは大通りを左に逸れて行く。

 屋台はまだ賑わっていても、すこし離れて行けば他に人の姿も見えなくなった。ロベルトはマリアンヌの声を思い出す。この街を守る騎士は二人、背だけがやたら高い細面の騎士は持病が悪化して故郷に帰ったという。もう一人の短躯の騎士は相変わらず動きが鈍くて、職務も懶惰らんだなところが目立つので、誰も期待なんてしていない。他にはどこかの貴族が傭兵たちを雇っているようで、しかしそいつらがちゃんとここを守ってくれるかどうか、あやしいところだ。 

 ロベルトは両手剣を佩いているもの、背丈は大人のそれよりはちょっと足りない。となれば、弟のジョルジュなどまだ子どもに見えるだろう。野盗の噂が真実かはどうかはさておき、たしかに今宵の月は雲に隠れていてあたりも薄暗い。マリアンヌの声はいささか過剰にはきこえたものの、用心をしていて損はないということだ。

 ところが、ロベルトが教会へと着くよりも前に呼び止められた。

 弟だと認めるまでに時間が要った。マリアンヌ同様にジョルジュがロベルトの記憶にある姿とは異なっていたからだ。弟はロベルトとそう変わらない背丈だった。

「やあ、兄さん。帰ってきていたんだね」

 ジョルジュの声色は明るい。しかし、弟もここで偶然に会うとは思っていなかったのか、目はどこか不信の色を帯びている。

「おまえを迎えに来たんだよ」

 すると、ジョルジュは苦笑した。

「そういうことか。マリアは心配性だからね」

 あれは過保護って言うんだ。ロベルトは声には出さずに口のなかでごちる。

「そうだ。せっかくだから、兄さんに見てもらいたいものがあるんだ」

 ジョルジュは返事を待たずに歩き出す。この先は教会だけだ。せっかく迎えに来たのに。ロベルトは嘆息し、そうするうちにどんどん距離が空いてゆく。病弱なジョルジュは不自由を強いられたせいか、ときどきひどい癇癪を起こす。ここで喧嘩をする気にもなれなかったので、ロベルトは仕方なくついて行った。細い背中は父親そっくりだ。喘息も良くなったのだろうか。

 教会へと着いたロベルトは目を瞠った。

「おまえ、これ……」

「なつかしい? 兄さんが好きだった花だよ」

 そうじゃない。あれは、ロベルトの本当の父さんが好きだった花で、特別な感情があるのは父さんとの思い出が残っているからだ。しかし、季節はちょうどその頃とはいえ、この花は教会の隅っこにひっそりと咲く花だった。青と、紫の色が綺麗な、だけどちいさくて目立たない花は、敷地いっぱいに広がっている。

「兄さんは立派な騎士になったんだね。こういうひとが、この街にいてくれたなら僕たちも安心できるんだけどな」

「おれはまだ騎士じゃない」

「でも、ほとんど騎士だ。僕には誇りだよ」

 ロベルトはジョルジュの顔を見ない。言い返すのも面倒で否定もしなかった。

「おまえが、ヴァルハルワ教徒だとは知らなかった」

「僕もマリアも、いつも神さまに祈っていた」

 半分は皮肉のつもりだった。だからジョルジュもそれまでの笑みを消して、真顔になった。

「本当だよ。だって、僕たちはそうするしかなかったから。兄さんはいつだって僕たちの犠牲になった。でも僕たちには、祈る他にできることなんてなかった。ロベルト兄さんが、もうこれ以上こわい思いをしませんようにって。泣き虫なマリアは泣かないようになった。僕は……」

「もういいよ。おまえたちは、悪くない」

 そうだ。きっと、誰も悪くない。おれが勝手にやっただけ、だから父親を恨んだことも妹や弟を憎んだこともない。今、あんなに弱った父親を見ても、何も感じなかったくらいだ。だから、もう、忘れよう。それでいい。

「兄さん。僕はね、早くちゃんとした大人になりたいんだよ。神父さまにはたくさんお世話になったから、それもあるけれど。だけど、僕がこの花を育てるのは善意なんかじゃないんだよ」

 ロベルトは弟の言葉を黙ってきいた。

 ほとんど独り言のような声は告解をするときみたいに、ジョルジュはちいさい頃から、祈りとともに繰り返してきたのかもしれない。

「花なんて、このご時世に買うやつがいるのかよ」

「こんなご時世だからだよ。この花はちいさくとも力強いから、部屋にあるだけで元気が出るって、そう言ってくれるひともいる。贔屓にしてくれるひともいるくらいだよ。そのうちもっと大きな街にも。だからね、兄さん。僕はベルク家を守りたいんだ」

 随分と熱っぽく語るものだと、思わなくもない。ロベルトはそこでジョルジュの顔を見た。ロベルトのひとつ下の弟は、ロベルトよりもずっと大人びて見えた。

 その翌日にはもう王都へ戻ると言ったロベルトに、マリアンヌは急に不機嫌になった。

「兄さんは、この街に戻ってきてくれるのでしょう?」

「先のことはわからないよ」

 それに卒業だってしていない。イレスダートと北のルドラスとの戦争は落ち着いたように見えても、終わったわけでもなかった。だから、求められたら今はまだ見習い騎士であるロベルトも、またあの戦場へと行く。

「どうしてそんなこと言うの? 兄さん、知っているでしょう? この街には騎士さまは一人しかいないの。あのひとは一年前に何の役にも立たなかったわ。ルドラスの兵はムスタールまで来ていたっていうから、みんなこわがって家から出ようとしなかった。食べものも満足に手に入らなくて、あたしたちがどれだけ不安だったのか、兄さんにはわからないのね。あんなこと、もうたくさんよ」

 堰を切ったように流れ出す妹の声は嗚咽交じりだった。父親は病に倒れて母親はずっと塞ぎ込んでいる。侍女のマーラは見た目はたくましくとも実際は気が弱く、喘息が治ったジョルジュも、マリアンヌを安心させるだけの強さを持たない。家族はこわい思いをしたのだろう。けれど、ロベルトは一年前にもっとひどいもの見た。

「大丈夫だよ。情勢はいまのところは落ち着いている。イレスダートが負けることはない。これ以上ひどいことにはならないし、それに和平条約のはなしも出ているんだ。だから、」

「そんなの、本当かどうかわからないわ」

 ロベルトはマリアンヌに手を伸ばしかけてやめた。

 泣き虫だったちいさなマリアは、ロベルトに頭を撫でてもらうのが好きだった。今、妹が求めているのは優しさでも気休めの言葉でもなく、もっと現実的なものだ。

「お願いよ、兄さん。帰ってきて。卒業したら、もう王都にはいなくてもいいのでしょう? 騎士として、この街にいてほしいのよ」

 落胆はしなかった。ロベルトは微笑する。マリアンヌはずっと泣いていた。ずるいやり方だと、そう思った。

 最初からわかっていた。

 この家にはロベルトの居場所などないのだ。妹が望んでいるのは優しかった兄ではなく、騎士としてのロベルトだ。それなら、ロベルトでなくてもいい。けれども、他にロベルトを必要としてくれるところがあるのだろうか。そんな場所を、ロベルトは知らない。

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