国王派と元老院派(1)

 ロベルトが部屋から閉め出されて二時間は過ぎていた。

 沐浴が終わってからがとにかく忙しい。侍女の一人がフレデリカの長い青髪を乾かして、もう一人は肌を整える。薔薇の香油をたっぷり使って浸透させているあいだに、また他の一人が爪の手入れをする。頬には白粉をはたいて、唇には濃い赤の色を乗せる。衣装部屋からはドレスを抱えた侍女が行ったり来たりを繰り返し、しまいには侍女頭の怒鳴り声まできこえてきた。騎士のロベルトは女たちの戦場を知ることはできなかったので、先ほどから懐中時計を何度も取り出している。祭儀の時間まであと小一時間に迫っているというのに、本当に間に合うのだろうか。

 伯爵令嬢の結婚が決まってからというもの、アロー家の人々はその準備に追われている。

 アロー伯爵も娘のフレデリカも互いの顔を見ない日ばかりで、父娘おやこの会話もあの晩餐の日が最後となっていた。伯爵令嬢は冬が終わればこのアロー家を出て行く。ロベルトがフレデリカの騎士でいられるのも、あと半年ほどだ。

 ロベルトは馬車へと乗り込むフレデリカに手を貸した。ベールに阻まれて表情はよく見えなかったが、彼女はいつもと変わらない様子だ。落ち着いているし緊張もしていない。いつも疲れているためか会話もめっきり減って、ロベルトに声も求めたりはしなくなった。

 それで、いいはずだ。騎士と大貴族の令嬢はそうあるべきなのだ。だけど、なぜだろうか。ロベルトは虚しさを感じていて、心のなかの言葉を形にするならばさびしいと思っている。この感情はロベルトが今まで知らなかったものだ。

 大聖堂では厳かな時間がはじまっていた。 

 ここでは皆が黒を身に纏う。貴人も令嬢も、彼らの騎士も。ロベルトもまた。

 まるで誰かの葬式みたいだ。敬虔なヴァルハルワ教徒ではないロベルトには祭儀の時間はただ長いだけで、欠伸を噛み殺している。神さまはあのとき、ロベルトも下級生も助けてはくれなかった。それなのに、アロー伯爵もフレデリカも、他の皆も祈っている。己や他人の幸せを願っているのだろうか。いいや、そうじゃない。彼らが捧げるのは神への感謝と、それから己の贖罪だ。

 この日の祭儀のあとには、貴人たちの晩餐会が予定されていた。

 馬車で移動するにはさほど距離はなかったものの、伯爵令嬢はまた別のドレスへと着替えるための時間が要る。ここでもロベルトは一時間も締め出された。

 薔薇の濃いにおいがする。ロベルトと目が合って、フレデリカは艶麗えんれいな笑みを見せた。そう。彼女はこれから演じるのだ。 

 伯爵令嬢は凛とした足取りで進んでゆく。ワインレッドのドレスは彼女の美しさを一段と引き立たせる色だ。今宵もフレデリカは人々の視線を独り占めするだろう。そのために、伯爵令嬢は演者となるのだから。

 大広間にはたくさんの人がいて、いくつかの集団ができている。アロー伯爵の周りでも、老人や青年貴族たちが挨拶を交わしてゆく。すでに噂を耳にした者たちは祝いの言葉を用意していたり、あるいは追従ついしょうめいた声をしているのかもしれない。それでも、相好を崩さないアロー伯爵はやはり大物のようだ。ともかく、今宵はアロー伯爵にとってもフレデリカにとっても、特別な日になるはずだ。 

 伯爵令嬢が晩餐会の主役となるまであと数刻、さすがにすこし緊張をしているのかフレデリカは食事にほとんど手をつけずに、また同世代の娘たちとの会話にも積極的に加わっていなかった。彼女の視線は父親に向いたままで、何か気になることでもあるのだろうか。ロベルトの心を読み取ったのか、フレデリカは囁く声をする。

「見て。あちらにいらっしゃるのが、クルタ伯爵よ」

 恰幅の良いアロー伯爵と比べれば随分と痩躯に見える。頬も痩せていて、丸眼鏡の隙間からのぞく切れ長の双眸は、冷たさと神経質そうな両方の印象を与えるだけでなく、実際にそうなのだろう。クルタ伯爵の周りにもそれなりに人が集まっているが、特に若者たちは機嫌を伺うような言動をし、伯爵もまた値踏みするような目をしている。

「昔は、本当に仲が良い二人でしたの。あたくしが抱っこをせがんだときに、クルタのおじ様は娘とおなじように扱ってくださったわ。それなのに……」

 切なそうな声音はそこで途切れてしまった。ロベルトは二人の伯爵へと視線を戻す。アロー伯爵は国王派でクルタ伯爵は元老院派。彼の落とした言葉が蘇る。たしかにそうだ。今、この晩餐会でアロー伯爵に寄り添う者たち、クルタ伯爵に従う者たち、それぞれふたつの派閥で分かれている。自分が考えているよりもずっと危険ではないかと、ロベルトは思った。彼らの思想は、正しさは、力は白の王宮や王家を、いや王都マイアにとって脅威となるのではないか、と。

 突然、彼らの声が大きくなった。

 青年貴族たちの議論が白熱したのだろうか。己のただしさだけを訴える。唾を飛ばし、ある者は相手の胸倉を掴みかかる勢いだ。祝いの席はあっというまに口論の場となってしまった。遠目に眺めていた令嬢たちの表情も怯えている。

「ロベルト」

 呼びかけたのはアドリアンだ。

「どうも酒の力が悪い方へと向かったようだ。騒動となる前に、きみはフレデリカ嬢を連れて行きなさい」

 ロベルトはうなずく。騒動ならもう起きている。

「教官……いや、アドリアンは」

「私はこれから白の王宮に行かなければならない。白騎士団より火急の知らせだというが」

「白騎士団……?」

 ロベルトの声を待たずにアドリアンは去ってしまった。アロー伯爵にはブレイヴが付いている。彼ならきっと大丈夫だろう。しかし、若者たちの興奮は収まるどころかそのうちに殴り合いでもはじまりそうだ。

「さあ、フレデリカさま」

 不安そうに見つめるフレデリカだが、ロベルトの手を受け取らない。

「でも……。待って、ロベルト。まだお父さまが、」

「大丈夫です。アロー伯爵にはあいつが付いています」

 彼を過大評価してはいなかったが、ブレイヴはロベルトよりもずっと思慮深い性格だ。心配は要らない。アロー伯爵もすぐに追いつく。ロベルトはそういう目顔をする。

「わかったわ。アドリアンさまがおっしゃるのなら……」

 硝子が割れる音がして、娘たちが騒ぎ出した。

 一人が殴られて、その友は黙ってはいない。友を、仲間を。守るよりも攻撃する者が次第に多くなり、あちこちで皿やグラスが割れている。そこここに散らばった食べもので長靴ブーツが汚れても気にもせずに相手を殴りつけて、あるいは髪を引っ張ったり馬乗りになったりと痛めつけている者だっている。先ほどまでは葡萄酒で乾杯し合った仲だったはずだ。それなのに、今はもう国王派と元老院派というだけで、敵と敵になってしまった。こんなにひどい惨状となるなど、誰も予想していなかっただろう。アドリアンだってそうだ。でなければ、アロー伯爵の元から離れたりはしない。

 いつだって故郷の街の子らと喧嘩ばかりだったロベルトは、相手が鼻血を出すまで殴りつけて、相手の鼻を折ったことだってある。治療費として要求された慰謝料は当然ベルク家の家計を圧迫する。ロベルトはそのたびに父親に折檻された。けれど、それはあくまで子ども同士の喧嘩の話だ。これはその延長とはちがう。善悪の区別の付くはずの大人が、それも上流貴族たちの行いだとは思えない。

「フレデリカさま」

 ロベルトはもうすこし強くうながした。力任せに掴んだ腕は痛いかもしれないが、ここは従ってもらわなければいけない。それなのにフレデリカはなかなか進もうとはせずに、視線はやはり父親を捜している。混乱のなかにいるのは何も若者たちだけではなかった。貴族という仮面を外した男たちは、物理的な力を用いて己の正しさを認めさせようとしている。貴婦人たちはもとより、保守的で賢い者ならばとっくにここから逃げているだろう。アロー伯爵なら大丈夫。あいつは必ず伯爵を守る。

 しかし、ロベルトとフレデリカが見たのは、アロー伯爵とクルタ伯爵の姿だった。

 二人の伯爵は青年貴族たちよりもやや離れていたが、これだけの騒動でまともな精神を保つ方が無理だ。伯爵たちは何かを言い争っている。明らかに興奮していて、自分を忘れているように唾を飛ばし合う。アロー伯爵にはブレイヴが、クルタ伯爵にもそれぞれ騎士が付いていたが牽制しきれずに、二人の伯爵は揉み合っていた。

 こういうときに、アドリアンならばどうするだろう。いや、考えたところで無駄だ。ロベルトにはアドリアンから与えられた命令がある。ロベルトの逡巡のあいだに、ブレイヴはクルタ伯爵の騎士に殴りつけられていた。

 フレデリカの悲鳴がきこえた。ロベルトもまた、飛び出しそうになる自分を抑える。彼は袖で鼻血を拭うと反撃することもなく、あくまで言葉で訴える。彼は、本当に騎士だった。騎士あるまじき行為をした相手を詰りもせずに、だが自分の騎士を侮辱されたアロー伯爵はそうはいかない。

「いけないっ、ロベルト! お父さまを止めて!」

 叫びは間に合わなかった。ロベルトの腕のなかでフレデリカは震えている。二人の視線はおなじところにある。アロー伯爵が胸元から取り出した短刀はクルタ伯爵の喉を突く。赤の色が飛び散ったと同時に、複数の怒号と悲鳴があがった。

 

          


 日付が変わるよりもすこし前にロベルトは応接室にいた。ここならば広間にもほど近く裏の出入り口も遠くないから、誰かが扉を開けば音をきき取ることができる。しかし、ロベルトの待つ人は今宵は戻ってこないと、そう思っていた。

 あれだけの混乱だ。すぐに王都の騎士団の耳に入るだろう。白騎士団が動けば国王にも届くのは必然で、それなりの覚悟をするべきかもしれない。ロベルトは無意識のうちに作っていた拳を解いた。

 そう。ロベルトもフレデリカも、たしかにその目で見ていたのだ。アロー伯爵がクルタ伯爵を刺すところを。

 ロベルトは半ば無理やりにフレデリカをあの場から連れ出した。もっと早くアドリアンの命令に従っていればと、後悔しても遅かった。フレデリカは馬車のなかでも、邸に戻ったときにも、まだ震えていた。

 生々しい光景が、ロベルトの瞼の裏に焼きついている。

 フレデリカはロベルトには何ひとつとして、問わなかった。気丈に振る舞っているのか、それとも口に出せばそれが現実であると認めてしまうのがおそろしいのか。ともかく、ロベルトは言葉を求められない限りは、沈黙を貫くつもりだった。どの声を用意しても、彼女を安心を与えるにはほど遠いからだ。

 雨の音に気がついて、ロベルトは顔をあげた。いつからそこにいたのだろう。目が合えば怯えたような顔をする。侍女はどこか後ろめたそうに視線を逸らしてから、紡いだ。

「あの……、お嬢様が、お呼びです」

 ロベルトはアロー家の邸の者たちに、今宵のことは話してはいない。

 途中で気分が悪くなったのだと、適当な理由を付けてロベルトは伯爵令嬢を侍女に託した。伯爵がまだ戻らないのも、祝いの場で盛りあがっているのだと、皆はそう思っているのかもしれない。

 けれども、アロー家に長く仕えてきた者たちならば、すでに異変を嗅ぎ取っているだろう。執事長も侍女頭もそういう目をロベルトに向ける。庭師だって、おなじ目をしていた。

 上の階へと行くあいだに、ロベルトはどの声から用意するべきかを考える。二人は見てしまったのだ。起こってしまったことはもう取り消せない。だとしても、所詮は素人の手だ。王都マイアには宮廷魔道士がたくさんいる。貴人に雇われている魔道士だっているはずだ。だから、治癒魔法さえ届けばクルタ伯爵は助かるし、そもそもが衝動的な行動だ。先に手を出したのは相手の騎士であるから、正当防衛を訴えることもできる。

 ロベルトはかぶりを振った。

 フレデリカに嘘を吐くなど不可能だ。彼女はたしかに見ている。どんな言葉だって納得はしない。信頼を失うのがこわいのではなくて、伯爵令嬢をもっと傷つけるのがこわいのだ。

 扉の前でいくら逡巡したところで、時は過ぎていくばかりだ。二呼吸を整えてからロベルトは扉をたたいた。三回。しかし、応答はない。もうしばらく待ってから、ロベルトは扉を開ける。フレデリカは窓の外を見つめていた。

 そうやって、父親の帰りを待っているのだろうか。

 自分から呼んだくせにフレデリカはなかなか声を発しなかった。それどころか、まだロベルトを見ることをせずに、月の見えない空を眺めている。雨の音は静かに、けれども夜の闇に走る光に怯えたのか、フレデリカは自身の腕を抱いていた。

「フレデリカさま」

 返事はなかった。だからロベルトはすこしだけ待って、もう一度紡ぐ。

「おやすみにならないと、明日に差し支えます」

 自分らしくない声だと、ロベルトはそう思った。

 今宵、貴人たちに伝えるはずだった伯爵令嬢の婚約の件は延期となってしまった。けれども、まだ他にも残っている。上流貴族の令嬢に所縁のある貴人たちも多く、またはヴァルハルワ協会の関係者も含めて、一人ひとりに挨拶をする。ただ、今回の一件はどう動くだろう。あるいは婚約そのものが破綻となっても、おかしくはない状況だ。アロー伯爵は罪人と認められるかもしれない。それでも――。

「フレデリカさま」

「もう、お戻りにならないかもしれないわ」

 ようやく返ってきた声は、しかし吐息とともに消えてしまった。雷鳴が二人の距離を阻めているのではない。彼女に本当のことを言えないロベルトが臆病者だからだ。

「だいじょうぶです。みんな、必ず帰ってきます」

 何の確証もない、けれど偽りではない声は、ロベルトの唇から勝手に出て行く。

「あなたが信じていなければ、他の誰が信じるんです?」

 これは慰めなどではない。希望、いや願望だ。

「ですから、今はおやすみにならないと。そんなに疲れてしまっていては、お父上を心配させてしまいます」

 ブレイヴなら、アドリアンならば、どんな声で彼女を落ち着かせただろう。もっと弁の立つ人間であればよかったのか。それとも別の、人の感情を捨てた騎士であればよかったのか。

「ねむれそうもないわ」

「横になって、目を閉じているだけでいいんです」

「……ロベルトは、優しいのね」

 うまく笑うことができなかった。これは、やさしさなんかじゃない。好きなひとの涙を拭ってもやれない情けない男の紡ぐ声だ。

「でも、それなら……。あたしにその優しさを与えてくれるというのなら」

 薔薇のにおいが濃くなった。彼女の体温を、こんな近くで感じているせいだろうか。

「あたしだけの、騎士ナイトになって」

 その日、ロベルトは彼女とただ一度きりの夜を過ごす。朝が来る前に、フレデリカはまたすこし泣いていた。

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