その日、星は見えなかった(2)

 起床の号令がきこえるよりも先にロベルトは寒さで目を覚ました。

 もうすこし寝袋のなかにいたかったが、急に襲ってきた尿意には勝てずに、ロベルトはしぶしぶそこから這い出した。季節は着実に夏へと向かっているというのに北の、それも山脈に近くなれば朝晩はそこそこに冷える。天候の悪さもそれのひとつだろう。乳白色の濃い霧は、すこし先も見えぬほどに広がっていた。

 すでに何人かがそこにはいて、両腕を摩りながら寒さをやり過ごしている。そのうちに上官たちも起きてきた。勝手に行動しているロベルトたちを叱責せずに彼らだけで話しはじめる。どうやら想定外の悪天候だったらしい。食事を終えても上官たちは揉めているようで、なかなか次の指示がこなかった。本来ならばとっくに天幕を片付けて北へと進んでいる頃だ。

 ここでの指揮官はけっして無能な人ではなかったものの、圧の強い部下の意見に左右されるのは間々あることだった。濃い霧のせいで方向感覚が狂わされるので慎重な声をする指揮官を、部下たちはなんとか説き伏せようとする。それよりも一刻も早く前線に合流するのが先決だと、訴える者もまた必死だった。手遅れとなればすべてが無駄となるからだ。

 どちらの声も理にかなっていても、最終的に判断を下すのは指揮官その人である。だから、この場合は押し切られたというのが正しかった。

 見習いたちの双眸には不安の色が見える。気持ちはわからなくはない。ロベルトもおなじ思いだ。本当に北へと進んでいるのだろうか。

 朝の遅れを取り戻すためか、午前のあいだは休憩も取らずに五時間は歩き通しだった。最初の休憩が昼食となり、それぞれが思い思いに腰をおろして黒パンとソーセージに噛りつく。腹は減っていても手が止まっているのは、ロベルトが黒パンを好きではなかったからだ。それに、何日もおなじ黒パンしか出ないのも飽きがくる。具合が悪いのかときいたのは癖毛の黒髪だ。ロベルトは作った笑みで返す。夜にはきっとまた、あったかいスープが食べられる。固くて酸っぱい黒パンを水で流し込んでいたロベルトは、そこで異変に気がついた。

 はじめは雷の音だと思った。

 皆が空を見あげている。妙なのは、それらしき光は見えずに、それは雷鳴というよりも地鳴りに近かった。一瞬、地面が揺れたのも錯覚だろう。イレスダートは竜の加護を受けた国だ。地震が起こるなど、それこそ百年に一度あるかないか。だから、彼らの反応は遅れてしまったのだ。

 ロベルトが見たのは虐殺だった。

 怒号と悲鳴と、その両方がきこえる。奴らは蹂躙の限りを尽くしていた。馬のいななきはそれだけでおそろしかった。ロベルトたちは歩兵だ。回りこまれたらもう逃げ場はない。何人もの見習いたちが馬の下敷きになった。あっというまに首を断ち切られた者、四肢を失った者、腹を突かれた者はまだのたうち回っている。腰に佩いた両手剣で戦う者がどれほどいたことか。見習いたちは四方八方へと逃げてゆく。しかし、奴らはそれを許さなかった。無抵抗の人間でも執拗に追い回して確実に殺す。ロベルトが立ちすくんでいたのも、数分のあいだだった。いきなり左の頬に拳が飛んできた。

「なにをしている! 早く逃げろ!」

 ロベルトとそう変わりない体躯の少年が叫んでいた。あるいは、ひとつやふたつ、年上だったのかもしれない。少年騎士はその手に剣をしっかと握り、襲い来る騎馬兵から味方を守るのに必死だ。いや、よく見れば他にも戦っている者はいる。それぞれが口々に逃げろと声をあげて、しかし奴らの斬撃は無情にも勇敢な騎士たちを声無きものと化してゆく。それならば、自分もたたかうべきなのではないか。ロベルトの逡巡は止まる。二度目の殴打は最初のよりも本気だった。

 ロベルトはそこではじめてその顔を見た。

 涙が込みあげてきたのは、恐怖心からでもなければ絶望を感じたからでもなかった。言葉を交わしたのはただ一度きりで、それよりはやや声色は低く、人懐こそうな面影も見えなかった。けれども、ロベルトは少年騎士を覚えていて、騎士もロベルトであると知っていたのだろう。騎士は、笑っていた。

「いいか。お前が守ってやるんだ。ここは、俺たちが引き受ける」

 少年騎士は目顔でロベルトのうしろを指す。ロベルトよりも小柄であるから下級生だ。咽び泣く姿は幼子のように、震えて動けなくなっているところを、騎士は頬を張った。下級生は痛みにしばし瞬きをし、次にはロベルトと騎士を交互に見た。

 何かを言わなければならないのに、こういうときに声が出てこない。ロベルトはただうなずき、下級生の腕を引いた。どこへ向かえばいいのかわからなくとも、逃げなくてはならない。振り返ってはならないことを知っているから、ロベルトは一度だってそうしなかった。

 十二歳のロベルトがはじめて士官学校を訪れたそのときに、案内をしてくれた上級生だった。あの日、どうして名前をきかなかったのだろう。少年騎士は、背に矢を受けても片膝をつかず、左の腕を切り落とされてもまだ右の手だけで戦い、ついに力尽きて這いつくばっていたところを刺されて、そうして死んだ。


          


 ロベルトはともかく走っていた。

 走っているうちはよかった。他に何も考えなくてもいい。王都まで一日、二日ではたどり着けない距離で、なによりこの霧だ。方向だって合っているかどうか。

 ロベルトは茂みを見つけて飛び込んだ。そのままじっとせずに、気がつけば森を彷徨っていた。とにかく南へと行くしかない。大きい街までたどり着けば、ロベルトたちはきっと助かる。

 ロベルトが連れ立った下級生の他にも三人がいる。あの混乱のなかで正気に戻った者たちだった。いや、あれは殺戮だった。残った者は助からない。

 耳の底で馬蹄の音がする。奴らがもうすぐそこまで追ってくる錯覚は、いつまでもつづいていた。振り返らなかったのはきっとただしい。一度足を止めれば、もう走れなくなる。

 途中で力尽きた下級生の尻をロベルトは蹴った。反抗する力もなかったのだろう。泣きながらロベルトにつづいた。次に足をもつれさせて転がった下級生の頬を、ロベルトは殴る。せっかく助かった命だ。こんなところで捨てるなどゆるさない。

 沢を見つけたときに、ロベルトたちは頭から水のなかに突っ込んだ。そして、すぐに走り出す。ロベルトにつづく四人のうちの一人がまた転んで、蹴飛ばしても起きなかった。さっき倒れたときに足をやったようだ。ロベルトが応急処置をするあいだもずっと泣いていて、他の下級生も疲れ切っていた。

「立て」

 今度は蹴らなかった。けれど、胸倉を掴まれた下級生は殴られると思ったのか、泣き出した。

「歩け。自分の足で」

 そうだ。他に助かる方法はない。ロベルトだって殴られた。それで目が覚めた。

 夜になればもっと歩けなくなる。追いつかれて殺されるのが先か。それともより深い森の奥へと迷い込んでしまうかのどちらかだ。

 歩いて、歩いて、ひたすらに南を目指した。置いて行かれるのがよほどおそろしいのか、下級生たちは黙りこくっていた。皆はロベルトを信じ切っていたが、ロベルトはもう気がついていた。これではとても王都までは持たない。ロベルトたちは着の身着のままだった。松明もなく背嚢袋も背負わずに、そのうちに空腹で動けなくなる。森を抜けて近隣の村や町に逃げ込むか。いいや、だめだ。ロベルトは口内を噛む。そこがすでに敵の手に落ちていれば、ロベルトたちは処刑される。良くて俘虜ふりょだ。

 どっちも嫌だ。ロベルトは胴震いがするのを寒さのせいだと思い込む。王都マイアのように正しい軍法会議など行われずに、ロベルトたちはそこで騎士でも人間でもない生きものになる。拷問はイレスダートでは禁じられていても、奴らはルドラス人だ。道理は通じない。そして、ロベルトの勘は当たっていたようだ。前方に灯りが見えたときには手遅れだった。

「まだガキだな。……どうする?」

「斬ったところで何の手柄にもならないのなら、連れて行くしかないだろう」

 やや北の訛りはあるものの、共通のマウロス語であればきき取ることはできる。見回りの兵かそれとも伏兵部隊か。騎士にはとても見えない襤褸を着ている。兵卒ならば見逃してくれるだろうか。いいや、その逆だ。失うものが何もないから奪う側に回る。子どもでも佩剣していれば士官生だということくらい、奴らだって知っている。

 そのとき、ロベルトのうしろから一人が飛び出した。止める間もなかった。つづいたもう一人は足を痛めた下級生だ。ああ、そうか。彼らはもう逃げられないと、覚悟を決めたのだ。

 見習いたちは騎士の教えを刷り込まれている。敵の手にかかるくらいならば選ぶのはひとつだけだ。たしかにそれで誇りは守られるだろう。

 北の蛮族と揶揄される奴らにも人の情があったのか。ロベルトはそう思わない。呼吸を止めていたそのあいだに、二人は死んでいた。

「やっちまえば、あとはもうおなじだな」

 一番背の高い男が言った。

「もったいない。ガキなら長く使えるのに」

 童顔の男がつづく。声音もまだ若かったが、落ち着きようからしてロベルトよりも年上だ。最後の一人、眇目びょうもくの男はそのなかで年長で、けれども情けは見せなかった。これでもう、ロベルトたちはただの子どもではなくなった。はじめからイレスダート人とルドラス人は敵と敵だ。

 明確な殺意を感じたときに、ロベルトは教官のある言葉を思い出していた。それはアドリアンがくれた声だった。そうだ。おれは、きっと――。

 この日、ロベルトははじめて人を殺した。

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