寒空と説教

 仰向けとなってただ上を見ているあいだ、ロベルトの心はほとんど空のようだった。

 冬が来るのはまもなくだ。北からの風は強くなるばかりで、そうするうちに身体はどんどん冷えていく。それでも、ロベルトは動かなかった。寒空を流れる雲だけを追う。

 悔しさはなかった。負けた相手が奴だったとしても、意地や矜持といったちっぽけな感情は隅っこの方に仕舞ってあるから、そんな風には思わない。けれど、この虚しさはなんだろう。

 ロベルトの右の手は拳を作ったものの、それは空を掴んだだけだった。

 事のはじまりは数刻を遡る。

 日常が戻ってからというもの、のっぽのマルクスは以前のようにロベルトに対して居丈高な態度を取るようになった。ちょうど一年前のあの頃とおなじだ。ロベルトは取り合わずにいる。陰口も嫌がらせも我慢すればいい。おとなしくしているロベルトが癇に障ったのだろう。ロベルトはまたマルクスに呼び出された。

 ロベルトとマルクスが派手にやりあったことは皆が知っているので、教室に残っていた同級生たちは騒ぎ出していた。喧嘩がはじまって大事にならないかとひやひやしているのだ。呼び出しに応じる必要はないと、同級生たちは声をそろえて言う。けれども、ロベルトがそこへと向かったのは、後ろめたさがあったからだ。マルクスはあの日のロベルトを許してはいなかった。

「ロベルトが行くなら、俺も行く」

 彼が好戦的な目をするのはめずらしい。けれど、ロベルトは彼を無視した。ブレイヴがロベルトの味方でもお節介の延長、それも正義感丸出しの精神にはうんざりするのだ。

 校舎の裏には見習い騎士たちが寄りつかない場所がある。

 すこしばかり素行の悪い見習いたちが集まり、なにやら仲間たちと秘密のやりとりをするだとか、気に入らない奴を呼び出しては集団で黙らすといった悪い噂がそこにあった。のっぽのマルクスは成績優秀で教官からの信頼も厚く、チューベローズの館のくだりなどちょっとした悪さをしても、それは年頃の男子特有のようなもので根っからの悪人ではなかった。だというのに、未だにロベルトに絡んでくる。けっきょく、マルクスはロベルトを認めていないのだ。相手がそういうつもりならば、もう躊躇なんてしない。

 ただ、ロベルトは拳を固く作りながらも、本当に喧嘩をするつもりはなかった。だから、いきなりマルクスに罵倒されても、ニコラに心ない言葉を投げつけられても黙ったままでいた。普段のロベルトならばもうとっくに殴りつけている頃だ。ロベルトが耐えている理由は他にもある。それに、彼の方がロベルトよりもずっと怒っていた。

「なんだと……? もう一度、言ってみろ!」

「ああ、何度だって言ってやる。こいつは弱虫だ! お前だって見ただろう? いいや、あのときに全員が見ていたはずだ。それに、こいつが取り逃がしたのは事実、言い訳はさせないぜ」

 鼻と鼻がくっつきそうな勢いで二人が言い争っているからか、小肥りのニコラは割り込む隙もないようだ。ロベルトもこのやりとりを目で追うだけだった。怒りも屈辱も、悲しみよりも虚しさが心のなかにある。ニコラの助けを求める目顔にも知らないふりをする。

「なにより、こいつはわざと逃がしたんだ。それをどう説明する? 教官が見逃しても俺はそうはいかない!」

「ちがう! ロベルトはそんなことをしない! それにロベルトはあの卑怯なやつに怪我までさせられたんだぞ!」

「それだって、そもそもはこいつが油断をしたから悪いんだ。それを庇うというならお前も同罪だな。お前たちのせいで教官は……!」

「それこそ、事実ではない! 教官は、」

「もういいよ、ブレイヴ」

 自分のことなのにまるで他人事のように思えてきた。

 ロベルトがブレイヴを、ニコラがマルクスを引き剥がす。ロベルトの声に彼は傷ついた目をした。どうして、こんな表情をするのだろう。彼は――。

「ロベルト。きみは、なぜ何も言わない? これでは、過失を認めるとおなじだ」

「そうじゃない。でも、逃がしたという事実はほんとうだから」

 それからロベルトが怪我を負ったのも事実。名誉の怪我なんかじゃない。あれは、騎士として恥じるべき行為だ。

 無人の館から街へと向かう小径で、ロベルトは意識を失った。何の構えも取らずにいきなり殴りつけられたものだから、そのときの記憶は曖昧だ。意識が戻ったときにロベルトは教会の一室にいて、けれど教官と神父さまの目顔でロベルトは悟った。神父さまの治癒魔法がなければロベルトの鼻は今も折れたままだ。それでも、貧血と頭痛はしばらく治らず、王都に戻るのも遅れた。何もかもがロベルトのせいだった。

 あのあとに、アロー伯爵を取り巻く事件がどうなったのかをロベルトは知らない。たぶん、皆もおなじだろう。わかったことといえばひとつだけ、捕らえたもう一人の男はそれまで抵抗をしなかったものの、王都で騎士団に引き渡す直前に舌を噛み切って死んだ。つまり、証人はいなくなり、ロベルトたちは伯爵を保護した勇者とはならない。関わった奴らを逃してしまったのも重大な過失だからだ。

「俺は何も言いがかりをつけているんじゃない。だが、これだけは言える。こいつは臆病な弱虫野郎だ!」

「黙れ! それ以上の侮辱は許さない!」

 ロベルトとニコラを挟んでなおも舌戦をしようとする。これでは殴り合いがはじまるのも時間の問題だ。ロベルトは大袈裟にため息を吐く。奴の矜持とやらは知らないが、言いたいことはわかる。ヘルムートがここを辞めさせられたのは事実だ。

「だったら、おまえの気が済むまで殴れよ。おれは反撃も抵抗もしないから」

「なんだと……?」

 一番動揺したのはマルクスだった。

 あれだけ興奮していたというのに、マルクスの目にはやや怯えのような色が見える。ロベルトは微笑していた。

 けじめをつけようと思っただけだ。たしかに責任は感じているし、ロベルトにだってそれなりの矜持はある。それに、教官のことを考えると悔しさよりも情けなさと後悔が強くなるのだ。

 ヘルムートという人のことを、ロベルトはどれだけ知っているだろう。

 教官としての顔はいつも厳しく真面目で、笑った表情など記憶に残っているかどうか。教官の授業は退屈で、居眠りをしないように必死だったし、実技も基礎の基礎ばかりを繰り返しやらされた。アドリアンみたいに見習いたちに人気ではなかった。神経質で気難しそうな容貌からも、誤解されやすい類いの人間だ。

 ロベルトも、良い思い出なんてない。教官には何度も懲罰室送りにされて、他といえばアロー伯爵の事件だけだ。でも、と。ロベルトは口のなかで言う。おれは、教官が嫌いではなかった。

「やれよ。おれは逃げもしないから。ここで拳を引っ込めるんなら、それこそ弱虫はそっちだろ?」

「お前……っ!」

 随分と安い挑発に乗るものだ。ロベルトは笑みを作った。マルクスはニコラの太い腕を無理やりに解いてロベルトに詰め寄ろうとする。しかし、それ以上動けなかったのは、そこで第三者の介入があったからだ。

「それは騎士にふさわしい行為とは言えないな」

 皆の視線がおなじところへと向く。

「あ、赤い悪魔……」

 はじめに反応したのは小肥りのニコラで、その声は震えていた。

 赤い悪魔に関する噂は一人歩きしているものの、下級生にしてみれば畏怖の対象には変わりなかった。機嫌が悪いときなどは、目が合っただけで半殺しにされたなどと、つい最近も嘘か本当かわからないことを誰かが喋っていたのを、ロベルトもきいている。

「どうした? お前たちの剣は飾りか?」

 ロベルトもマルクスも腰に両手剣を佩いているが、もちろんこれは本物だ。これまでだって実技や訓練、あるいは野外実習などで扱ってきた。それは本当の戦いでなかったとしても、見習いたちは命を懸けている。だから、剣を使うときには教官の許しが要るし、他にも治癒魔法の使い手が傍にいるときだけだ。

「ディアス。だめだ、これでは」

「お前たちの言う誇りとやらは、そんなちいさなものなのか? だったら、捨ててしまえ」

 ここで赤い悪魔のディアスと対等に話せているのはブレイヴだけだ。しかし赤い悪魔は相手が幼なじみであっても辛辣な物言いをする。年長者として、いや騎士としてなのか。そして、先に動いたのはロベルトだった。剣を構えればやや気圧されように後ずさりしたものの、マルクスもやはりおなじように構えを取った。審判役を買ってくれたのは赤い悪魔だ。これで、本当の決闘がはじまる。

 ブレイヴはもう何も言わなかった。二人から距離を空けてあとは見守るしかできず、ニコラは緊張のあまり目が潤んでいた。教官を呼びに行かなかったのはマルクスの矜持が傷つくのをおそれたからだ。

 ロベルトは深く息を吸う。二拍を置いて、地面を蹴った。


           


「お前の剣には何も見えない」

 赤い悪魔が落とした声はそれだけだった。そのとおりだと、ロベルトは思った。

 勝者となったのっぽのマルクスは無言だった。同情でも憐れみでもない。たぶん、失望だろう。小肥りのニコラはロベルトに目を合わもせずに、足早にそこから去って行った。そして、二人が残される。

 ブレイヴはロベルトの反応を待っていたものの、やがて焦れたのか落ちた剣を拾った。騎士にとって、己の剣を手放すことは死とおなじ意味をする。それだけではない。誇りも名誉も、何もかもをも失ってしまう。

「ロベルト」

 差し伸べられた手は受け取らずに、ロベルトは自分の剣だけを奪い取った。

「言いたいことがあるならば、言えよ」

 あの日のロベルトを責めなかったのは教官と彼だけだ。ヘルムートはロベルトを叱責しなかったし、けれど励ます声もなかった。ブレイヴはロベルトの身体を気遣う言葉だけをして、あとは普段どおりの生活に戻った。だからこそ、余計に惨めな気持ちになる。

「ヘルムート教官がここを辞めたのは、きみのせいなんかじゃない。ムスタール公爵は老齢のために、もう長くはないそうだ。だから、近いうちに教官が爵位を継ぐ」

 そのことか。ロベルトは嘆息する。

 それならロベルトでなくとも皆が知っていた。彼が言いたいのは慰めなんかじゃない。

「おまえがあんなに怒るとは思わなかった」

「ロベルトを嘘つき呼ばわりするからだ。それに、ロベルトは弱虫なんかじゃない」

 いいや、おれは弱虫だ。ロベルトは笑う。それから、もうひとつ――。

「わざとだよ」

 ロベルトの告白に彼は信じられないといった顔をした。

「あいつらの言ったとおりだ。おれは、あのときわざと逃がしたんだ」

「そんな、なぜ……そんなことをする必要がある? ロベルトは、」

「きいてしまったから」

 なにを、という問いは唇の動きだけだった。ロベルトは自嘲する。あの日のことを皆まで話すには、すこし勇気が要ることだった。

「助けてくれって、見逃してくれって。おれにはそうきこえた。たぶん、やつらはもともとそれなりに身分のある者だったんじゃないかな。それがあんなはぐれ者みたいになって、それでもあんなやつらにも家族はいるから。妹が、マリアがいるからって」

 呼吸のために一度声を止めて、しかし彼の声が返ってくる前にロベルトはつづける。

「おまえは上流貴族だからわからないかもしれないけれど、おれみたいな下流貴族はけっして他人事なんかじゃないんだ。いつああなるかもしれない。いや、なりたくてなったわけじゃないんだ。だけど……、きっと、あれしか生きる道がなかったからで……」

「でも、それは、ただしいことじゃない」

「わかってる」

 ききたくはなかった言葉だ。ロベルトはかぶりを振る。

「わかってるよ。けど、それじゃあ、正しいことって何だよ。それは、誰が決めるんだ?」

 その答えもわかっている。それなのに、ロベルトはどうしても認めたくなかった。

「だから、ぼくはおまえのことが嫌いなんだ」

 子どもっぽい八つ当たりだと思う。だとしても、綺麗なせかいだけで生きてきて、これからも汚いものなど何も見ないような、そんな奴とおなじにされるのは嫌だった。

「もう、行ってくれ。一人になりたいんだ」

 そうして、ロベルトは長いあいだ空を見ていた。やがて薄青から夕焼けの色へと変わっていく。完全に日が落ちてしまう前に起きあがるべきでも、依怙地いこじなロベルトはそのままでいた。ところが――。

「いつまでそうしているつもりだ?」

 ロベルトは飛び起きる。アドリアンだった。

「教官。おれ……」

「私は何も知らんよ。だが、ひとつだけ説教をしよう」

 説教、とロベルトは口のなかで繰り返す。アドリアンは真顔だった。

「そうだ。お前は私の助言をまったくきいてはいない」

「助言って」

「たまにする喧嘩はいい。しかし、それならばもっと友を頼ることをするべきだな」

 何のことかを思い出す前にロベルトは落胆する。

「あいつは別に、友達なんかじゃない」

 わかりやすくアドリアンのため息が落ちた。

「それに、あいつは公爵家の子じゃないか。おれとは生きてる場所がちがう」

 そもそも、ロベルトは最初からブレイヴが嫌いなのだ。よく思っていない相手なのに友達になれるわけがない。そのロベルトを見て、アドリアンはしきりに顎髭を摩っている。話の順番でも決めているのだろうか。それは、突然に問いかけられた。

「ふむ。アストレアという国をどれだけ知っている?」

 担当でもないくせに歴史の授業でもはじめるつもりらしい。

 王都マイアより西にある森と湖に囲まれた国。豊穣の女神アストレイアに愛されているその国は北寄りの国とはちがってけっして貧しくはなくとも、他の公国よりも国土はずっと狭い。そんな教科書に載っているような答えをアドリアンは求めてはいないはずで、ロベルトは教官の表情を追う。

「そうだな、たしかにアストレアは公爵家ではあるが、しかし今の爵位を与えられたのは彼の祖父の代という。つまり、もともと大貴族ではなかったというわけだ。それから、今のアストレア公爵は聖騎士の称号を持つ人だが……。さて、マイアの貴族たちは何を思っているかな」

「なにが、言いたいの?」

 アドリアンはいつだって回りくどいような言い方をする。ロベルトにはそれがもどかしい。けれども、答えはロベルトがきかずとも導き出せる。彼は、彼の夢を夢で終わらせないためにはそれなりの苦労をする。そのくらい、まだ子どものロベルトだって知っている。

「それにな、ロベルト。お前はマルクスのこともすこし誤解している」

「あいつはもっと嫌いだ」

「そう言うな。ブレイヴもマルクスも、そろって校長に申し出た。だが、校長は首を横に振るだけだった。この意味がわかるか?」

「わからないよ、ぼくには」

 アドリアンは微笑する。

「あの事件には今後一切関わらない。そういうことだ。つまり、なんらかの圧力がかかっている。だから誰も手が出せない」

 ロベルトはまじろぐ。アロー伯爵失踪事件はロベルトたちが考えているよりもずっと大ごとなのだろうか。たしかに、そうかもしれない。伯爵を拉致した一人を逃がしたロベルトが、何も罰せられずにここにいられるのだから。アドリアンはアロー伯爵を忘れるように言う。それから――。

「親の名が大きければ見たくもないものを見ることになる。そういうことだ」

 理解はしても納得はできない。ロベルトは押し黙った。所詮、ロベルトは下流貴族の子で大貴族の子らとはちがう。そのロベルトの心の声などアドリアンにはお見通しだ。

「ロベルト。彼らがお前とちがうところに生きているのではない。お前がおなじところで生きようとしてないだけだ。今は私の言葉がわからなくともいい。しかし、友達はもっと大切にするんだ。いいな?」

 他の教官の声ならばロベルトは無視した。そうしてきっと、また懲罰室にぶち込まれただろう。

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