アロー伯爵失踪事件について(3)

 子どもの頃のロベルトは、他の子らに比べてちいさくとも臆病なたちではなかった。

 おなじ歳くらいの悪ガキたちと一緒に、ちょっとした悪戯をしては大人たちによく叱られたものだ。大人たちは悪ガキたちを見つけては尻をたたく。ごめんなさい。もうしません。何度も泣いて謝ったロベルトにとって、それは良い思い出ではなかった。それから、度胸試しと称して廃屋へと忍び込んだときのことも。薄情な奴らに置いてきぼりにされたロベルトはべそをかいた。どうやって街へと戻ったのだろう。もう、覚えてはいない。

 街外れから小径こみちを抜けて街道からやや逸れた森のなかを行く。小一時間もせぬうちに見えてきたのは、朽ちた館だった。

 昔はそれなりの建物だったのかもしれないが、誰の手も加えられていないために、壁のあちこちに亀裂が入っている。伸び放題の草や樹は館を覆い隠しているし、この日は曇り空なこともあって余計に不気味さが増しているように見えた。意気地のない奴ならすぐに震えるだろう。小肥りのニコラは顔色を悪くしている。

 無人の館となったのはロベルトのじいさんの代で、ここら一帯で疫病が蔓延したという。

 大貴族の一番下の息子がまず病に罹り次にはその上の姉が、五人いた兄妹たちがすべて亡くなったあとに、ついには夫婦まで帰らぬ人となったとか。残された使用人たちは最期を見届けずに逃げたらしく、しかし病はそこで止まったのだとロベルトがじいさんの膝の上でそれをきいたのはいつだったか。ともかくこれは何かの呪いだとか、今も近寄れば疫病を貰い受けるだとか、根も葉もない噂がつづいているものだから、ここは廃屋のままに捨て置かれているのだった。

 ロベルトは勇気を出して館の存在を教官に告げたものの、ヘルムートはすでにここを把握していたようだった。教官は騎士見習いたちにもすべてを語らず、翌朝になりここへと向かうと言った。見習いたちはただ教官に従うだけだ。

 道中のマルクスやニコラもやや緊張しているのか無駄な私語もなく、ロベルトも黙っていた。そして、最初に口を開いたのはブレイヴだった。

「教官、見てください」

 彼の言葉に皆の視線はそこへと向かう。

「ひとの、足跡……?」

 つぶやいたニコラに彼はうなずく。昨晩遅くに雨が降った。朝には止んでいたとはいえ、泥はそれを綺麗に消してはいなかった。また、隠すつもりもないのだろう。こんな無人の放置された館には誰も近づかない。

「それに、ここには馬がいます」

「なぜ、そう思う?」

「においです。おそらくは、一頭ではないかと」

 のっぽのマルクスと小肥りのニコラが目を合わせる。教官は彼の声を疑わなかったし、また厩舎にも向かわなかった。馬が騒ぎ出せば侵入したことを気づかれる可能性があったからだ。そして、ここにはおそらく複数が潜んでいる。

 裏口は台所に繋がっていても施錠されてなく、そこから中へと入り込む。長いあいだ放置されている館は饐えたにおいがして、とにかく臭かった。足下をうろちょろとする鼠にも我慢しなければならない。悲鳴をあげるのはニコラだ。けれど、教官は小肥りのニコラに先頭を任せる。奴は図体は大きいものの気がちいさく、よくいえば慎重、悪く言えば臆病な人間だ。すぐうしろにはのっぽのマルクスがいて、ニコラが大声を出す前に口を塞ぐ。ロベルトはそのあとにつづく。しんがりを務めるのは教官だ。

 ロベルトは数年前の記憶をたどって、教官に申告する。

 貯蔵庫の奥には地下へとつづく階段がある。幼いロベルトはそこで置いてきぼりにされたので全部はたしかめていなかったけれど、その先には隠し扉が存在するのだ。教官はロベルトの声も信じてくれた。しかし、教官が二階へと連れて行ったのはマルクスとニコラだけ、ロベルトはブレイヴと地下へとおりるように命じられた。

 たしかに、地下への階段を見つけるにはちょっとしたコツがいる。それにロベルトが選ばれるのは正当な理由だとして、あとの二人を伴わせたのは腑に落ちない。

 しばらくむくれていたロベルトは、うしろのブレイヴに責付かれた。うるさいな。わかってるよ。ロベルトは苛立ちつつも、慎重に歩んでゆく。手燭の灯りは頼りないのであとは自分の耳を信じるしかない。最下段に着いたときロベルトは深呼吸した。いる。この奥に誰かが。勇気と覚悟がなければ騎士にはなれない。

 素早く中へと滑り込んだロベルトは、しかしそこで瞬いた。拘束された往年の男が一人だけ、身なりもきちんとしているからおそらくは伯爵だ。それにしてはおかしい。見張り役が一人もいないとは。 

 安堵と落胆と、どちらが素直な感情だっただろう。

 ロベルトがしばし惚けているあいだに、ブレイヴは伯爵らしき男を解放する。ただし、猿轡をそのままにしたのは騒がれるのを防ぐため、上にはまだ伯爵を攫った者たちがいるのだ。

 教官が残していた言葉はこうだ。伯爵を保護したならば残りの者には構わず、すぐに街へと戻れ。それから、敵と遭遇したならば躊躇うな、と。

 ブレイヴが掻い摘んで事情を説明したので伯爵はおとなしくしている。あとはもうここから早く脱出するだけだ。何日も閉じ込められていたせいで、伯爵の足はすっかり弱っている。ロベルトは彼と二人で伯爵を抱えながら、やっと地上へと出る。恰幅の良い伯爵は、しかしその顔はやつれているようにも見えた。餓死させるつもりだったのか。ロベルトは急に伯爵が憐れに思えた。

 裏口へと急いでいた彼の足が止まった。

 急かそうとして、しかしロベルトもそれに気づく。ブレイヴはもう剣へと手を伸ばしていて、背で伯爵を守る形を取っていた。ロベルトも自分の身体を盾とする。

 急に背中に脂汗が噴き出てきた。拳がうまく作れずにいる。足が震えないだけよかった。もう、逃げられないだろう。たたかうしかないのだ。 

 そして、教官の言葉。あれは命の確認だった。たたかえば殺さなくてはならない。心音が耳の音で響いている。呼吸が浅くなる。臆病者になるのも人殺しになるのも、どっちも嫌だった。けれど、ロベルトにはひとつしか選べない。ところが――。

「待ちなさい、私だ」

 安堵からロベルトは剣を落としかけた。教官のうしろにはのっぽのマルクスとニコラが、そしてロベルトの見知らぬ男たちが捕らえられていた。


          

 

「クルタ伯爵。奴が首謀者にちがいない。いつだって私を妬んでいたからな。王都に戻ったらしかるべきところに訴えるぞ。騎士殿、ご協力くださいますな」

 命の危険が去ってしまえば、人は最初に怒りを表に出すらしい。アロー伯爵は自由の身になってからおなじような言葉を繰り返し、教官はいつもみたいに無表情で受け流している。体力の落ちた伯爵は、しかし口だけは元気なようで、ついには誰かのため息が落ちた。

 ロベルトたちが伯爵を保護したあいだに、二階では教官たちが二人の男を捕らえていた。

 寝室へと飛び込んでいたときに男たちはまだ寝ていたというから、さして大きな戦闘にはならなかったのかもしれない。それなのに、のっぽのマルクスの話はずっとつづいている。

「奴らは二人組だったけれど協力者は他にいる。それを見つけるのは俺たちじゃない。誰かがやるだろうな。ともかく、結果を出したのは俺たちだ」

 ロベルトは相槌を打たずにいる。死人や怪我人がなかったことを安堵しているなど、悟られてはならない。弱虫扱いされるのはごめんだ。なによりも面白くはなかった。のっぽのマルクスは俺たちのと言いながらも、自分だけの手柄みたいにしている。

「最初に踏み込んだのはニコラでも、先に動いたのは俺だぜ。奴らが剣を持つ前にはもう間合いには入ってた」

 先頭を行く教官と伯爵からはやや距離が離れていたが、さすがに届いたようだ。咳払いがきこえてマルクスはすこし小声になった。

「……だけど、教官が殺すなと言うから、そうしなかっただけだ」

 たしかに、教官は命の確認はしたものの、証拠をすべて失くせとは命じなかった。

 アロー伯爵の証言によれば伯爵の従者たちはすでに殺されていて、他に目撃者もいない。伯爵を誘拐した男たちはいかにも襤褸ぼろを着ていて、ただ雇われただけの人間だ。裏に誰と繋がっているのか。それを詮索するのはロベルトたちの仕事とはちがう。あとはもう、白の王宮へと預けるだけだ。

「ロベルト、そろそろ代わりってくれよ。僕、もうお腹他空いちゃって」

「わかったよ」

 小肥りのニコラはニコラで緊張感の欠片もない。時刻は昼を過ぎる頃で、この進みならば帰り着くのは夕飯の時間だ。小径で馬は役に立たず、教官は野に放した。一方で大事を取っているのだった。こちらが四人とはいえ、教官はロベルトたちよりもずっと抜かりない。

 男のうちの一人はブレイヴがしっかりとついているし、もう一人もニコラに任せていたのをロベルトが引き継ぐ。男たちの武器はすべて奪っている上に手縄があるといっても、けっして油断はできないとロベルトは肩に力を入れる。

 それにしても、男たちが素直に従っているのは、こちらが王国騎士であると認めたためだろうか。反抗的な態度を見せないのも妙だ。

 重罪は確実だろう。極刑にはならずとも、地下牢に落とされたら外に出られるのは何十年も先だ。関係者――特に、家族はつらい思いをする。おなじ罪人の扱いをされるから、まっとうな生き方なんてできなくなる。

 二人の男たちは若い。教官とおなじくらいか、もしくはもうすこし年下か。守るべき家族だってきっといる。でも、ロベルトは奴らに同情なんてしない。従者を殺されて、見知らぬ場所に囚われていたアロー伯爵の恐怖は計り知れない。その先に誰かがいて、奴らがただ単に使い捨てられていたとしても、罰を受けるのは当然だ。

「くそっ、おれたちはただ金で雇われただけだ。それなのに……、ここで、おれが捕まるわけには。マリアはどうなる。おれの妹。ちいさなマリアは……」

 懺悔か悔恨か。告解ならば神さまにしてくれと、普段のロベルトならばそう思う。けれど、男は言ったのだ。マリア。おれの妹のマリアと。

 女の名前でよくあるだけ、ただの偶然だ。男はロベルトの反応を見ていたのかもしれない。マリアの名前を繰り返している。

 憐憫れんびんを求める相手なら間違っている。慈悲深いヴァルハルワ教徒なら助けてくれる。しかし、ロベルトは敬虔な教徒なんかじゃない。

 冷静を装ったつもりでも、ロベルトは動揺していた。心臓の音が嫌な早さになってゆき、拳のなかには汗が溜まる。そうして、ロベルトにだけ届いていた囁きは、突然に止まる。その次の瞬間だった。

 男はいきなりロベルトに頭突きした。かろうじて躱したものの、ロベルトは体勢を崩してしまっていた。ロベルトを呼ぶ声がきこえる。剣を抜け。早く奴を止めろ。という声がする。殺せと言ったのは誰だろう。わからない。けれども、そうしなければならない。

 手が震えて剣に届かなかったのは恐怖からだった。そうだ。おれは臆病者なんだ。今、ここで剣を取ればこの男を確実に殺す。たった数秒の逡巡は、しかしロベルトにそれをさせなかった。

 突然に眼裏で光が弾けた。頭部に感じた強い衝撃と、痛みは遅れてやってくる。ロベルトは鼻を押さえながら、息ができない苦しみに喘いでいた。殴られたのを自覚したのはそのあとだった。

 いったい何発やられたのだろう。頭と腹が同時に痛くてたまらない。思考はそこで途切れてしまう。闇のなかに溶けてしまう前にロベルトは複数の怒号をきいた。そして、男がロベルトの両手剣を奪い、マルクスが追いかけるのを視界の端で見たのが、その最後だった。

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