明日への約束を

 ロベルトはアドリアンの家名を知らない。

 はじめて会ったときにアドリアンは騎士だったけれど名前しか名乗らず、再会したときに教官のアドリアンに家名は必要がなく、そうしてアドリアンは家名を棄ててただのアドリアンとなった。

 裏切りのアドリアンと、人はそう呼ぶ。

 国王派と元老院派との派閥争いは記憶に新しい。そこには上流貴族たちだけに留まらず、騎士や商家などといった錚々たる人物が関わっていて、しかしそれらを影で操っていたのがかの騎士であった。忠誠や正義などとはほど遠いその行いこそ叛逆の意思であり、これにいち早く気がついていたアロー伯爵は、密かに白の王宮に届けていた。白の王宮の騎士たちが、もう数時間早くにアロー邸へと駆けつけていたならば、このような悲劇は起こらなかった。国王派でも元老院派でもなかった騎士の目的はまさに叛逆者のそれであり、混乱に乗じて騎士が何を企んでいたのか。王家の転覆あるいは国王の暗殺、語られなかった事実は炎とともに葬り去られている。

 アロー邸は半焼し、もっとも被害が大きかったのが広間と伯爵の自室だという。犠牲となったアロー伯爵へと、献花に訪れる人々の列は今日も絶えない。裏切りの騎士は自身の失敗にアロー伯爵を道連れにしたのだ。

 ロベルトは今、クレイン侯爵の保有する敷地内にいる。

 さすがはイレスダート有数の貴族であり、その領地こそ王都マイアの郊外であるものの、ロベルトの故郷の街などとは比較にならないほどに広い。沃土よくどに恵まれた場所には作物がよく育つためか、農奴などいなくとも自然に人が集まる。それらは皆、クレイン侯爵と縁のある人たちだ。

 王都からは離れていても、情勢はそれなりに入ってくる。

 今日も侍女たちが仕事の合間にお喋りをたのしんでいるようで、そうするうちにロベルトの耳にも自然と届いていた。しかし、ある程度の脚色がされているとはいえ、真実とはかくも捻じ曲げられて伝えられるものなのか。ロベルトは仲間の一人だった壮年の騎士を思い出す。

 アロー家の者たち共々、クレイン侯爵に保護された。しかし、その三日後に壮年の騎士は姿を消していた。行き先は王都マイアの白の王宮だ。壮年の騎士は国王の御前で真実を告げたのだろう。何ひとつとして偽りがなく、アドリアンが望んだ言葉をそのままに。

 そうして、アドリアンは裏切りの騎士となった。

 たしかに彼の言ったとおり、それで守られたものはたくさんある。アロー伯爵の愛娘であるフレデリカ嬢も、アロー家の人たちもみんな無事だったし、伯爵の名誉も守られた。アロー家の領地は白の王宮に奪われた形ではあるが、クレイン侯爵が動いているという。行き場を失ったアロー家の者たちもクレイン侯爵が引き取り、彼らはこれからクレイン家で働く。クレイン家の使用人たちはアロー家の者たちに同情的であるから悪い扱いはしないし、伯爵令嬢も大事にしてくれる。たとえばそれが腫れ物に触れるようなものであっても、それでもここは安全なのだ。

 ロベルトはもうフレデリカの笑顔を見ることはないし、泣く顔を見ることもない。でも、それでよかったと思う。ロベルトなんかがいなくとも、時がきっと彼女を癒やしてくれる。ロベルトの知るフレデリカはそんなに弱い人ではない。

 最初に一番年嵩の騎士が出て行ったあと、他の騎士たちもそれにつづいた。一人、また一人とクレイン家を去って行き、とうとう二人だけが残ってしまった。ロベルトとブレイヴと。あの夜以降は口をきいてもいなかった。だから、ロベルトは彼がこれからどうするのか、何を考えているのかも知らなければ、興味もなかった。そもそも、彼には帰るべき場所がある。

 クレイン家の人々は騎士を客人扱いしてくれるので、どうにも居心地が悪い。だというのに、ロベルトの足はどうしても王都マイアには向かずに、そのうちにひと月が過ぎてしまった。

 そんな折のこと、クレイン侯爵から直々に呼び出された。侯爵が白の王宮に向かうのでその護衛をしてほしいと頼まれたのだ。さすがに侯爵からの声を無視するわけにはいかずに、ロベルトはふたつ返事でこれを受ける。そうして、クレイン侯爵とともに馬車へと乗り込んだのは、ロベルトともう一人。彼だった。

「王女の護衛騎士、ですか……?」

「傍付きというべきかな。私の妹は白の王宮にいる。もうクレイン家に戻ることもないから、こうして私が会いに行くしかなくてね」

 きき返したブレイヴにクレイン侯爵は苦笑する。きっと半分は建前だろう。ようやく国王陛下に謁見の時間が許されたのだ。

「まあ、一人しかいない妹だ。私たちは早くに両親を亡くしていてね。家族の顔を見に行くのも悪くはないだろう? ああ、そうだ。家族といえば……、君たちにも報告しておきたいことがある」

 ロベルトは無意識に背を伸ばす。わざわざ騎士を同席させたのはただ話し相手がほしいだけではないことなど、最初からわかっていた。

「彼女に婚約を申し込んでいたのだが、それがようやく受け入れられてね」

 そこで一段とクレイン侯爵の目が細くなった。

「しかし、誤解しないでほしいのだよ。私は彼女に同情したわけではない。たしかにこれが一番良い方法であることは否定はしないが、フレデリカ嬢に無理強いをさせたくはないのだ。ただ、その……どうにも恥ずかしい話ではあるが、私は一目見たときから彼女を愛してしまったのだよ」

 クレイン侯爵の双眸は純粋な少年みたいに輝いていた。本気で言っている。ロベルトは肩の力を抜いた。これでやっと安心ができる。これでようやく彼女は幸せになれる。クレイン侯爵はフレデリカに不自由な思いをさせないし、孤独にもさせない。今、ロベルトが感じているのは、嫉妬でも羨望でもなかった。だから、隣からの彼の視線は無視をする。

「おめでとうございます」

 ロベルトは心から笑った。そこからはまたクレイン侯爵の話がつづいた。侯爵の妹、父や母のことをもうすこし。侯爵には妻がいたが、これも流行病で亡くしていているからフレデリカは側室という形ではあるものの、しかし子を授かればその子が次の侯爵となる。そうして、話題はかの騎士へと――。

「アドリアンは私の家庭教師だった。だが、私はどうにも才能がなくてね。剣術も馬術もそれはもうひどいものだった。父はそれで何人もの教師を馘首したわけだが、アドリアンにも申し訳ないことをしてしまった。それ以来音沙汰がなかったわけだが、こうして関わるとは思わなかったよ」

 そこで苦笑する。クレイン侯爵にとってもあまり良い思い出とは言えなかったようだ。ただ、この話題はすぐに終わった。それからは誰もアドリアンの名前を口には出さない。ここには真実ではない偽りを知る者が三人いて、皆が本当のアドリアンを知っていても、もう二度と、かの騎士の名を声にすることはないだろう。

 王都マイアの南門へと着いたとき、クレイン侯爵とはそこで別れた。

 白の王宮までは馬車で行くにも小一時間はかかるというのに、ここから先は従者たちだけでいいと、侯爵は微笑む。たしかにここは王都マイアで、傍付きの騎士なしでも危険な目には遭わないだろう。つまり、ロベルトもブレイヴも厄介払いをされたというわけだ。

 二人きりになっても彼がなかなか進もうとしないから、ロベルトは仕方なく前へと歩き出した。商業区では子どもから老人までもがごった返していて、それを掻き分けながら行くのはすこし苦労する。塩商人や香草売りのところはいつも行列ができているし、娘たちが群がっているのは宝石や装飾品の類いに、特殊な糸を使った織物はそこそこ値が張っていても、昼を過ぎる頃には全部売れている。そのうちに噴水広場へと抜ければ、なにやら音楽がきこえてきた。軽快な曲調で流れる太鼓や笛の音色はききなれないもので、異国の楽器なのかもしれない。旋律に合わせて踊っているのは旅芸人だ。

 ロベルトは立ち止まらずに振り返りもせずに、けれども彼がちゃんと付いてきていることはわかっている。それにこれは王都マイアの日常であり、たとえば名のある貴族の一人が亡くなっても、一人の騎士が逆賊になったとしても、それは変わらずにつづいてゆく。それこそ、アドリアンが望んだ明日だ。

 やがて白の王宮が見えてきた。

 彼を無理やりに引っ張って連れて行くのはすごく簡単でも、そこまで優しくするつもりはなかった。だからちゃんと、話をしなければならない。

 ロベルトがやっとうしろを向いたとき、彼はロベルトをまっすぐに見つめていた。きっと、あちらも何から話すべきかをずっと考えていたのだろう。

「はやく行けよ。おまえ、あそこに呼ばれているんだろ?」

 彼はまじろぎもしなかった。

「前に言ってたこと、忘れたのかよ。聖騎士になるのは夢なんかじゃないって。だったら、現実にすればいい」

「そんなに簡単じゃないんだ」

 今度は声が返ってきた。挑むような目つきは気に入らない。八つ当たりならばなおのこと、ちょっと前のロベルトみたいだ。けれど、ここまで来て彼と喧嘩をする気はなかった。もう子どもではないから、大人にならなければいけない。騎士にならなければいけない。

「忘れなければいい」

 ぼくたちの友のことを。

 一度も、そう呼べなかったあの人のことを。

「おれたちが、ちゃんと覚えてる。いつだって誰かの命を貰って生きてる。だから、特別じゃない。ただ、忘れずにいればそれでいいんだ」

 ロベルトは拳を解く。この手はいつだって剣を持つためにある。

「いつか、呼べるだろうか。彼のことを。俺たちの友であると」

「わからない。でも……」

 それからロベルトは右の方角を見た。その先には士官学校がある。はじまりの場所に、十二歳のロベルトは行きたくなんてなかった。

「おれは、どこにもいかない」

 他人の心配よりも、自分のことだけを考えていればいい。ロベルトの目顔を読み取ったのか、ブレイヴはそこではじめて唇に笑みを作っていた。

「王に捧げるためでも国を守るためでもない。おれはたぶん、自分のために剣を持つ。これからもそれは変わらない。ただ、他に生き方がわからないだけで……。でも、探してみようと思う。そのときにはじめて呼べると思うんだ。あの人のこと、おれたちの友であると。だから……」

 考えながら物を言うのは苦労する。ロベルトはすこし笑んでから、またつづけた。

「ここで、お別れだ。ブレイヴ」

 右の手は差し出さなかった。これはたしかに別れではあっても最後ではない。いつかまた会うための約束だ。

「次に会うときが、戦場ではないどこかであることを、そう願うよ」

 遠くからきこえてくるのは大聖堂の鐘の音で、時を知らせる三つ目の鐘が鳴り終わる頃には、二人は別々の道を歩き出していた。

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