薔薇とくちづけ(1)
アロー伯爵は早くに夫人を亡くしていたが、他に家族は娘のフレデリカがいる。
伯爵令嬢はロベルトよりふたつ年上の十九歳。大貴族の娘ならばとっくに他家に嫁いでいる歳だ。縁談が進んでいないのなら、その理由は父親にあるとロベルトは思う。父親が一人娘を可愛がるのは自然だろう。けれどもちいさい頃に母親と死別した伯爵令嬢に皆は同情的だ。
この家の使用人たちは伯爵のことも、娘のこともひとつだって悪く言わない。
アロー伯爵は
とはいうもの、ロベルトはそれなりに身構えていた。
あのブレイヴがロベルトにあんな頼み方をするくらいだ。家族や他の近しい者たちには見せない裏の顔があると、ロベルトは疑っている。そもそも、貴族の娘に対して良い印象なんてないのだ。我が儘で癇癪持ちで、そのくせ世間知らずで気位が高くて騎士を道具扱いする。そういう要人たちに関わったせいで、ロベルトは上流貴族がもっと嫌いになってしまった。しかし、これもまた任務のひとつとして割り切るべきだろう。
騎士は戦場だけが仕事ではない。士官学校でアドリアンやヘルムートに何度も言われた。ロベルトは大人の説教を受け流していただけで、それもやっとすこし理解できたような気がする。今のロベルトは大人たちに到底追いつけない。騎士の挙止、物の考え方、知識も足りなければ笑みさえうまく作れずにいる。そんなロベルトにフレデリカは笑みを見せた。
「どうぞ、そこに掛けてくださいな」
ソプラノの声音がロベルトを歓迎する。
昨晩から降っていた雨は昼前には止んでいた。季節はちょうど夏から秋へと移り変わる頃で、西から入ってくる風が心地良い。テラスでお茶をたのしみたいと言ったのはフレデリカだった。これもまた騎士の仕事のひとつだろうか。佇立するロベルトを侍女が責っ付く。円卓からは香茶のいいにおいがして、焼き菓子もたくさん並べられている。ロベルトの好物のチーズタルトも美味しそうだ。とはいうものの、座った次にどうするべきかわからない。士官学校のなかだけで生きてきたロベルトだ。女性と話す機会などなかったし、ロベルトの知っている女の人といえば母さんと妹のマリアと侍女のマーラだ。
「まあ。ロベルトさまったら、緊張しているのね? 可愛らしいわ」
ロベルトは逃げ出したくなった。たしかにフレデリカはロベルトよりもふたつも上だが、こんな子どもみたいな扱いをされるとは思わなかった。おれは、こういうのは向いていない。それならずっと彼の方がうまくやれる。ブレイヴが疲れていたから同情したのは本当で、とはいえ彼の頼みを受けたことをロベルトはちょっと後悔した。
「こんなにいいお天気なら、お出掛けをしたかったわ。でも、今夜はだめ。お父さまがね、大事な話があるっていうの。だから今日は、ロベルトさまのおはなしをききたいわ」
「おれの、ですか……?」
ロベルトはまじろぐ。フレデリカはにっこりとした。
「そう、あなたの。騎士さまって、みんなあんなにお堅いのかしら? ブレイヴさまは、ほとんど自分のことをおはなししてくださらなかったわ。それが騎士だって、そう言うのよ。でも、ロベルトさまはそのままでいいのよ。せっかく来てくださったんですもの。あたくしは、あなたとお喋りをしたいのよ」
「はあ」
ロベルトは気のない声で返した。よく笑い、よく喋る人だ。不快ではなくとも相槌を打つのに気を使う。それにしてもと、ロベルトは視線を伯爵令嬢から外す。彼はそんなことを言うような人間だっただろうか。頭が固いというところは、合っているようにも思うけれど。
「もう、ロベルトさまったら。ちゃんときいていらっしゃるの?」
いきなり怒られてしまった。彼女を直視できなくて、どうにもそわそわするロベルトはふたたびフレデリカへと目を戻す。藍色の髪はイレスダート人に多い色だが彼女の長い髪は王都の夜を思わせる。紫水晶の色の目は大きく、厚みのある唇もまた魅力的だ。こうしてまっすぐに向かい合ってみれば、実年齢よりも幼く見えるのは童顔のせいだろうか。良家の佳人とはいえど、親しみやすさを感じるのもそのためだ。
「ロベルトさまはマイアの出身なのでしょう? ブレイヴさまはイレスダートの出身って、それだけしか教えてくださらなくて。イレスダートは広いもの。それにあたくしはほとんど王都を出たことがないのよ」
やはりそうだ。ブレイヴはここで身分を明かすつもりはないのだろう。彼は、アストレアの公子である前に、イレスダートの騎士だ。
「でもね、ずっと前にお父さまに大聖堂に連れて行ってもらったのよ。ロベルトさまはムスタールの大聖堂を目にしたことがあって? とても素晴らしかったわ」
「いえ、おれは……」
ヴァルハルワ教徒でもないロベルトはそこに興味も関心もない。ロベルトの開きかけた唇はそこから動かず、けれども何かの声を紡がなくてはならない。フレデリカの瞳はロベルトを捉えたままだ。
「弟が、教会の世話になっていて、だからあいつなら、もしかしたら……」
「まあ、ご兄弟がいらっしゃるのね」
「はい。ええと……、母も父もちがうので、ほんとうの兄弟とは言えませんが。あと、妹が一人」
「そんなことはなくてよ。今はもう家族なのでしょう? それに、よくある話ですもの」
敬虔な教徒は離婚は許されてはいないが、配偶者の死別による再婚は認められている。フレデリカの言うとおり貴族の家にそれはめずらしくない。けれど、アロー伯爵が後妻を儲けていないのは、亡くした妻や娘を心から愛しているからなのかもしれない。
「それよりも……。ねえ、もうすこしききたいわ。ロベルトさまのご兄弟のこと」
フレデリカは童女の笑みをする。ロベルトはすっかり困ってしまった。自分からぺらぺらお喋りをする
フレデリカの瞳は夜空の星みたいにきらきらと輝いていて、けっきょくロベルトは拙いながらも全部話してしまった。
たのしいお喋りに水を差したのは突然の曇り空だった。
さっきまであんなに明るかった青空がいつのまにか重たい色に変わっている。雨のにおいがして、まもなくそのとおりになった。テラスから引きあげたフレデリカは侍女を捜す。そういえば、最後にお茶の用意にさがってから姿が見えない。
今日の晩餐は特別な日になると感じているのだろう。フレデリカは化粧台の前でおとなしくしている。肌を整えるのも彼女の長い髪を結わえるのも、ドレスの着替えもまた侍女の数が足りない。侍女頭はあれこれと指していたが、そのうちに苛々しはじめて、いつまでもぼうっとしているロベルトは、怒鳴られて部屋から追い出された。
大台所では女たちが集まっていた。中心にいるのはフレデリカ付きの侍女でロベルトを見るなり泣きそうな顔になった。助けを求めている目ではない。叱責をおそれているときの目だ。侍女はフレデリカのお気に入りの茶器を割ってしまった。たしかに侍女は新入りでそそっかしいけれど、熱があるのに無理をしていたからだと、女たちが弁明をする。いつまでも戻らない侍女をロベルトが捜しに来たと思っているのだ。それに、この若い侍女は他にも仕事を任せられている。今、女たちが大騒ぎしているのは、侍女を休ませようと説得している最中だった。
ロベルトを叱りつけた侍女頭ならともかく、フレデリカは一度の失敗くらいでは怒ったりはしない。女たちはそう言って侍女をなだめようとするものの、侍女は首を縦に振らずにいる。けれども、やはり体調が悪いのだろう。侍女はアロー家に入ってからの一年間をほとんど休みなく働いたという。ロベルトよりも三つ下の侍女はここを追い出されてしまうのをおそれているのだ。
誰かに言われたわけでもなければ、かわいそうだからとか、そういった理由でもなかったと思う。ロベルトは考えるよりも先に動いていた。あとで振り返れば、自分にもそういう心があったのだと、笑ってしまうくらいだった。
雨は小ぶりだったが夜に近づけばすこし冷えてきた。外套を着込んだロベルトは商業区へと急ぐ。場所はやや込み入ったところにあるので、間違えないようにしなければならない。迷子になって晩餐に間に合わなかったなど、それこそロベルトも役目を解かれるだろう。
大通りをまっすぐに進んで噴水広場に、そこから左の筋へと入って次の分かれ道は右に、そうして突き当たりよりも二軒前の緑の三角屋根が目印で、そのお向かいさんが目的の場所だ。日の暮れかけた雨の日には、王都マイアの噴水広場にも人の姿はほとんどない。家路へと急ぐ人々は右に、ロベルトとは反対の方へと消えてゆく。次の分かれ道は右へ進み、その次には突き当たりよりも二軒前の緑の三角屋根を。ロベルトは呪文のように口のなかで繰り返す。やがてそれらしき色が見えてきた。ここまでくればもう迷わないはずで、ロベルトはちゃんとそこへとたどり着けた。
預かってきた金貨一枚にお釣りは返ってこなかったが、ロベルトはしっかと腕に抱いてふたたび歩み出す。帰り道は記憶してあるから、あとは急ぐだけだ。その頃には雨もあがっていた。
アロー家の門扉を抜ければ、最初に庭師が迎えてくれた。ロベルトを見るなりにっこりとして、それから皆が待っていると言う。執事長に葡萄酒を預けたあと、ロベルトは女たちに揉みくちゃにされる。随分と手荒い歓迎でも、皆はロベルトを案じていたのだろう。
侍女の姿が見えなかったが、皆の声をきき入れて部屋で休んでいるというので、ロベルトはやっと落ち着いた。しかし、やはりこの一件を侍女頭に隠すわけにはいかずに、当然フレデリカの耳には届いていた。ロベルトが驚いたのはここからだ。
フレデリカは侍女にしっかりと休暇を与える。もちろん、アロー家の使用人たちにはきちんと休みの日を設けているのだが、若い侍女は労を惜しまずに働きつづけていた。侍女の実家は貧しくて、やっと見つけた仕事を失いたくなかったのだろう。伯爵令嬢は事情を皆まで知っていなくても、それでもそうした侍女の働きを認めていたし心を痛めていたともいう。
一日と半日。まずはちゃんと身体を休めること。それから熱がさがったら、今度は自分のためだけに時間を使うこと。これは、命令だ。叱責もせずに処罰もなかった。けれど、この侍女を特別扱いしない。フレデリカは、そういう人だった。だから、勝手に自分の傍から離れたロベルトにもまず微笑んで、それから礼を言う。お父さまは今日をたのしみにしていたのよ。この日のために用意した葡萄酒が間に合わなければ、きっと残念に思ったでしょう。ロベルトが替わったのはただのおつかいだ。でも、フレデリカはちゃんとロベルトに目を合わせてくれる。それから――。
「あら? ここの裾のところ、ほつれているわ」
侍女頭が止める間もなく、フレデリカはロベルトから外套を奪い取った。安物の外套は年季が入っているから見るからに汚いし、まだ雨のせいで濡れている。せっかくの綺麗なドレスを汚しかねないのに、フレデリカは侍女頭の悲鳴も無視して抽斗から小箱を取り出した。ロベルトはまるで魔法でも見るような目をする。フレデリカは満足そうに笑んでいた。
「刺繍は得意なのよ。また、時間があるときに直してあげる。そうね、お花の刺繍なんてどうかしら?」
「それは、ちょっと……、困ります」
「うふふ。ロベルトさまって、可愛らしい方ね」
やさしいひとだと、ロベルトはそう思った。同時に何かが変だと感じていた。だって、彼はロベルトに伯爵令嬢の護衛を代わってほしいと言ったのだ。ブレイヴはとても疲れた顔をしていた。フレデリカという人は、非の打ち所のない素晴らしい女性だと女たちが言っていた。そのとおりだと、ロベルトも素直な感想を持つ。では、何が彼をそうさせたのか。彼はいったい、何から逃げたがっていたのだろう。
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