チューベローズの館

 イレスダートの夏はけっして短くはない。しかし、十四日間の夏休みが終われば秋はもうすぐだ。

 初々しかった騎士見習いたちも、どことなくそれらしい顔つきに変わってくる。ロベルトもちょっと背が伸びた。とはいえ、まだ他の同級生たちに比べるとチビのままだったけれども。

 小麦の収穫がはじまる頃、ロベルトの環境もまたすこし変化があった。

 まずは教官たちのロベルトを見る目だ。どうやら懲罰室に行ったことにより、ロベルトは問題児であると判断されたようだ。教官たちは士官生を姓名で呼ばずに、そして自分たちもおなじく名で呼ばせる。家柄に囚われず、どの士官生に対しても平等に扱うというそれは、暗黙の掟のようなものだった。

 しかしながら、一度問題行動を起こしてしまった士官生に対しては別のようで、教官たちのあいだでロベルトの評判はひどく悪い。あの野外実習のときが嘘のようだ。つまり騎士とは失敗が許されないということ、信用を取り戻すには並の努力だけでは足らないのだろう。

 そのなかで、以前のままの教官もいる。一人はロベルトを懲罰室送りにしたヘルムートで、もう一人はアドリアンだ。特にアドリアンは、十四日間の夏休みに故郷に帰らなかったロベルトの無聊ぶりょうを慰めてくれた。おかげで無駄な動きが目立っていたロベルトも剣も、ちょっとはまともに近づいたと思う。笑みを見せるアドリアンを見れば、ロベルトも自然に笑うようになっていた。ロベルトはやはりアドリアンが好きだった。

 それからもうひとつ、変わったといえばのっぽのマルクスと小肥りのニコラだ。ロベルトとマルクスが派手にやりあったという噂は、同級生たちのあいだで広まっていた。しかし、奴は自身が負けたという事実を揉み消したかったのか、あれから何もなかったみたいに接してくる。小肥りのニコラはマルクスの側近だから奴とおなじようにしているし、他の連中もマルクスの顔を立てるためか、ロベルトへの嫌がらせはぱったりとなくなっていた。

 調子のいいやつだ。片恨みするロベルトは、そこで教官の声を思い出す。あれは忠告よりも警告であると考えるべきだ。もともとロベルトは目立つことが好きではなかった。だから、今の状況もこれから先だって、甘んじて受ける他はない。けっきょく、どこかに属するしかないのならば、それで揉め事に関わらずに済むのならば。ロベルトは自身へと言いきかせる。

 士官学校での生活も半年が過ぎようとしていた。

 相変わらず授業は朝から夕方まであるために忙しく、しかし多少の余裕は出てくるようになる。ロベルトの成績は、いつも平均点よりもちょっと上くらいであったものの、追試や補習を受けなければそれでよかった。他の連中は、特に成績上位の奴らはどういう勉強のやり方をしているのだろう。きいてみたい気持ちには駆られても積極的に話しかける勇気をロベルトは持ち合わせていない。それに、のっぽのマルクスに気兼ねしているのか、未だに一部の奴らはロベルトを腫れ物のような扱いをする。

 そのマルクスにロベルトはまたも呼び出された。あの日の再戦というのなら、次は誰が止めたっておれの気が済むまで殴ってやる。教官の声も忘れて拳をしっかり作るロベルトだったが、どうやらこの前とは様子がちがっていた。指定されたのは自習室であり、そこにはすでに十人ほどがそろっている。

 そこにのっぽのマルクスの取り巻きたち六人が、もちろん小肥りのニコラもいる。夏休みの前までは、ロベルトをとにかく目の敵にしていたくせに、今では旧友みたいに話しかけてくる。そのなかでロベルトの知らない顔が二、三人混じっていて、じろじろと見る間もなくのっぽのマルクスが部屋に入ってきた。

 取り巻きたちがマルクスを囲むなかで、ロベルトの隣にいた奴がこっそり耳打ちをする。お前、よかったな。マルクスに認められたんだぜ。

 そういうことか。ロベルトは急に面白くなくなった。つまり、ロベルトはのっぽのマルクスに骨のある奴の一人にされたのだ。ロベルトが不貞腐れているあいだにもう話は進んでいた。はじまりは、夏の十四日の休みに婚約者と事を進めたという話からだった。

 この年頃の少年たちは多感であり盛んでもある時期だ。普段のロベルトならばくだらないの一言で席を立ってしまうところでも、やはり年頃である。興味もあれば関心もそこへと向いてしまうのだ。

 そもそも貴族の家の子はこのくらいの歳になれば、すこし年上の侍女を相手に大人の儀式は済ませておくものである。けれどもロベルトは下流貴族の子だ。ロベルトの父さんが亡くなったときに、使用人のほとんどを解雇してしまったので、ロベルトにはそれがまだだった。残った侍女といえば男みたいな体格をしたマーラだけだ。あのたくましい侍女と一夜を共に過ごすなんて、ちょっと想像しただけでぞっとする。だから、それがまだであるということは、絶対に隠しておかなければならない。

「女の子の肌って本当に綺麗なんだ。やわらかくて滑らかで、いいにおいもする。天使みたいな笑みを見せるのに、その夜だけは大人の女に見えた」

 たかが二度の経験を随分と熱く語るものだ。ロベルトはのっぽのマルクスを横目でちらと見るだけだったが、耳はどうしてもつづきを知りたくなるし、なによりも下半身が先に反応をする。

 それはロベルトには酷な話題だった。関心を持っていてもその機会がない。夜に寝台でこっそりと、まだちいさなファルスに手を伸ばしたところで虚しいだけだ。とはいえ、最初の頃のような罪悪感はなくなってしまったのだけれども。

 のっぽのマルクスにつづいて、自慢話をするのは小肥りのニコラだ。貴族の坊ちゃんたちには将来を誓い合った婚約者がいるらしい。ありたけの語彙を用いて、その美しさと素晴らしさを語るのに夢中だ。あいにく、ロベルトにはそんな相手などいなかったので、話を振られる前に退散するべきか。

「秘密の場所があるんだ」

 席を立つきっかけを失った。そこでロベルトはのっぽのマルクスとばっちり目が合ってしまう。奴はどこか勝ち誇ったような笑みを乗せ、ロベルトの好奇心をもっと引き出すような言い方をする。

「上級生たちに教えてもらったのは俺だけだ。チューベローズの館は誰かの紹介がなければ入れないよ。でも心配は要らない。俺たちにでも払える額しか要求はされないらしいからね」

「それ、ほんとう?」

「ああ。それに病気の心配もないさ。彼女たちは高級娼婦だから、きちんと検査も受けている。王宮騎士たちだって御用達さ。もともと俺たちみたいな学生のために作られたって言ってた」

「本当かよ」

 最初は小肥りのニコラが、次にはマルクスの取り巻きが、次に次にと話に食いついていく。のっぽのマルクスの周りに皆が集まって、まるで奴の信者みたいだ。実際、そうなのかもしれない。マルクスはとにかく弁舌家で、連中にとっては宣教師そのものだ。

 ロベルトはちがう。そんなのは嘘っぱちだ。ロベルトは口のなかだけで言う。

 聖王国イレスダート。その中心地である王都マイアは、規制が厳しい。物乞いや浮浪者などの姿は見えず、衛生状態も良ければそのような淫らな場所など認められるはずがないのだ。宿屋や酒場にしてもきちんと王宮騎士たちの目が届いていて、すこしでも不埒な場所であればすぐに撤去させられる上に、店主や使用人などは罰せられたあとに地下牢行きだ。そうした娼館の類いが存在しないためか王都の人間は結婚が早い。また離婚も少ないのは敬虔な教徒には、それが許されないからだ。

 ロベルトはマルクスの声を疑いながらも、しかし奴の声を皆まできいていた。館の名前にはある花の名が使われていて、花の種類や名前に明るくはないロベルトでも知っていたからだ。

 月下香チューベローズは五年ほど前に王都で流行した花だ。イレスダートよりも南の大陸から持ちこまれたもので、その魅惑的な香りはあっというまに人々を虜にした。特に夜には芳香が強まるようで、優雅で官能的なにおいは人を狂わせるほどに。月下香がイレスダートで禁じられるようになったのは一年もかからなかった。そんないわく付きの名の館が野放しにされているなどあり得ない。しかし、のっぽのマルクスの話に嘘は見えず、妙に信憑性がある。王都といえども、何もかもが白というわけではないのかもしれない。

 今夜、チューベローズの館へ行く。

 ロベルトはそのために呼び出された一人だったようだ。のっぽのマルクスは規則なんてなんとも思ってはいない。けれども、取り巻きたちのボスでいたいから、皆を巻き込むつもりでいる。きっと、ロベルトも試されているのだろう。

 自室へと戻ったロベルトはまず大きなため息を吐く。それから寝台に転がった。決行は完全に日が落ちてからで、小一時間ごとに時間をずらして少人数で行動をする。夜間の外出は特別な例をのぞいて認められていないため、隠し通路を使うというが見つからない保証はない。無断外出が知られたら懲罰室行きになるし、退学だってあり得る。

 意気地なしめ。誰かの笑う声がきこえた。ロベルトは壁へと思いきり枕を投げつける。別に勇気がないわけじゃない。くだらないと思っているだけだ。それに、ロベルトはその経験がまだだったのでどうにも尻込みしてしまう。好きな子とはいかなくとも、初対面の相手といきなり同衾したくはなかったのだ。

 女みたいなことを言う奴だ。また別の誰かの声がする。ロベルトはかぶりを振って、立ちあがった。

 夕食は済んでいるので食堂に用事がなければ、大浴場に行って他の同級生と鉢合わせるのもなんだか気まずい。自習室だってちゃんと勉強する奴らでいっぱいだから、あとは図書室しかなく、ロベルトの足は仕方なしにそこへと向かっていた。この時間はもう本を借りることもできないので、きっと一人になりたい奴しかいない。ロベルトは手頃な一冊を選んで席に着こうとする。ところが、椅子を引いた手は止まった。先客を見つけたのだ。

 青髪の少年は読むのに没頭しているのか、ロベルトが入って来たことにも気がつかなかった。ロベルトはそこで違和を感じ取る。覚えのある顔だったのだ。

「おまえ、どうしてこんなところにいる?」

 突然話しかけられたせいか、彼はやや驚いた顔をする。ロベルトをまじまじと見つめるその目は、いかにも初対面だと言わんばかりだ。人違いじゃない。たしかに、自習室にいた。ロベルトは数時間前の記憶をたどる。そう。ロベルトは彼を見ている。のっぽのマルクスからすこし離れたところで、居心地が悪そうにしていた彼のことを。

 それだけではない。彼とはもっと前にも会っていたはずだ。

 あの野外実習の日に森のなかで話をした。誰もがのっぽのマルクスに関わらなかったのに、話しかけて来たのは彼だ。そうして彼はロベルトに棄権するようにうながした。だからロベルトは、彼をよっぽどのお人好しか物好きだと思っていた。

「なんでって……、続きを読みたい本があったから」

 さもありなんと言われたら脱力する。ききたいことはそうじゃない。

「ぼくがきいているのは、なんで行かなかったということだ。とぼけるなよ」

「行かなかった……?」

「チューベローズの館にだよ」

 皆まで言わせたいのか。思わず怒鳴りつけたくなる。そろそろ最初の組が抜け出している頃だ。こんなところでのんびりしているなんて、どういうつもりだろうか。どうにも噛み合わない会話にロベルトは苛々しつつ、しかし相手はちょっと困ったような笑みをする。

「それは、その……。まったく興味がないといえば嘘にはなるけど、行きたくはない。だから行かなかった。きみもおなじだろ?」

 次の瞬間、ロベルトは勢いよく扉を開けた。図書室では大きな音は厳禁、知られたら反省文だ。ところが、ロベルトはすごい勢いで廊下を駆けていた。普段のロベルトにはあるまじき行動でも、このときばかりは理性よりも衝動が先だった。

 彼はあとで臆病者だと罵られてもいいと思っている。それなのに、不良仲間たちを止めもせずに、かといって教官に告げ口だってしない。ロベルトが一番嫌いな類いの人間だ。

 優等生ぶりやがって。怒りのままにロベルトの足が向かう先はひとつ、抜け口の場所はきいてあるから急いで行けばまだ追いつくだろう。そうすればロベルトは連中の仲間入りを果たして勇気ある者とされる。

 ただし、人生とはそう都合良くはできていないらしい。校舎を飛び出した直後にロベルトは呼び止められた。ロベルトはすぐに絶望した。

 面談室では長いあいだ沈黙が居座っていたが、教官は嘆息し、そして組んでいた指を解いた。

「また、君か」

 叶うことならば今すぐにここを逃げ出したい。ロベルトの願いは虚しく、教官の双眸はロベルトを射抜いていた。まるで尋問そのものだ。他の教官相手ならばあれこれと言い訳をしたところでも、この人だけはきっと無理だと思う。ロベルトはヘルムートが苦手だった。

「あ、あの……、懲罰室だけは許してください」

 あの暗くてじめじめとした空間に閉じ込められるのは嫌だ。それよりももっと嫌なのはこんな理由でぶち込まれることで、同級生たちに知れ渡ってしまえばロベルトは一生笑い者にされてしまう。

「ならば軽率な行動を取らないことだ。私は君に友を持てと言ったつもりだったが、しかし悪行に付き合えと言った覚えはない」

 ロベルトは教官を恨みたくもなる。たしかに教官の忠告に従ってきたが、突き放されるとは思わなかった。自分で蒔いた種であるから当然だとしても、それでも悔しさは自分へと返ってくる。ロベルトは半分泣いていた。

「若いがゆえの過ちを咎めるつもりはない。真に悪いのは君たちではなく、こういった場所があるにもかかわらず黙認されていることだ。だが、私は君はもっと強くなってほしいと願う。本当の友を持ちなさい」

 教官の声は最初よりはやや優しかったものの、懲罰室行きはやはり免れなかった。しかし、秋が過ぎて冬が来ても、ロベルトには友と呼べる者ができなかった。

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