蜂蜜酒とため息と憂鬱と

 聖王国と謳われるイレスダート。その中心地である王都マイアでも安い宿場はそれなりに存在する。西のラ・ガーディアに南からはユングナハルの旅人だったり商人であったり、あるいは巡礼者も多い。他には雇われ労働者の仮住まいなど、新米騎士だっておなじだ。

 おんぼろのベッドは寝心地が悪いし、雨のたびにあちこち雨漏りがする。大家はいつも忙しいらしく、ロベルトの名前だって未だに覚えていない様子だ。おまけにロベルトをひよっこ騎士と呼ぶ。十七歳になったロベルトはもう子どもじゃない。大家がロベルトに用事があるといえば、家賃の催促と手紙を渡すときだけだ。ひと月の半分もここにはいないのに、しっかり銀貨三枚を取られるものだから、ロベルトはちょっと納得いかない。それでも、ここを追い出されたら困るので黙っておくしかないけれど。

 ロベルトは十四日ぶりに任務から帰ってきたところだった。

 イレスダートよりもうすこし南のオリシスへの旅は、とある子爵の護衛をした。予定よりも四日も余分に時間がかかったのは理由があった。子爵夫人が雨を嫌がるものだから天気の悪い日には日程が大幅に遅れたり、あるいは気に入った宿場に長居したりだとか、とにかく皆は彼女の機嫌を損ねないようにと必死だった。温厚な性格の子爵は使用人たちにもロベルトにも優しく、しかし年上の癇癪持ちの夫人には頭があがらない様子で、我が儘放題の夫人にロベルトも振り回された。

 これではそのうちに使用人たちも見限るだろうと、ロベルトは思う。けれども侍女たちのなかには夫人への同情の声も多い。子爵は家を空けてばかりで、他国へと嫁に出した娘はもう二度と帰ってこない。一人娘を殊更可愛がっていた夫人はそれから気落ちしてしまい、見かねた子爵がこの旅を持ち出したようだ。だから、母娘おやこの再会は他人から見れば仰々しいくらいだったし、使用人たちも子爵も疲れ切っていた。そして、子爵はその日のうちにオリシスを経ち、ロベルトには金貨を二枚握らせる。気前が良いのか、それとも口止め料なのか。他人の家の事情にロベルトは余計な詮索をしなければ、侍女たちも誰もそこには触れなかった。

 ロベルトはベルク家への仕送りをつづけている。

 三ヶ月に一度、これが今の限界だった。ロベルトには借金がある。これでも安く手に入った方かもしれない。まだ仔馬だからちいさくとも足が強くて、なにより健康な馬だ。おかげでロベルトはずっと苦労している。

 特定の騎士団にいれば安定はするだろう。しかし、住む場所は得られてもあとは自前だ。自分の食費だけならまだしも馬はとにかく金がかかる。短期間でも貴人の世話になればおこぼれを預かれるし、馬丁ばていはロベルトの愛馬の面倒も見てくれる。その日暮らしをつづける自分はまるで傭兵みたいだ。ロベルトは自嘲する。馬を持たない騎士など、ただ剣を持った人だ。

 部屋の扉には手紙が挟まっていた。妹のマリアンヌからの手紙は、あまり来なくなっていた。ロベルトは自室の寝台へと腰をおろす前に封蝋を切る。大家は騎士たちと貴族とのいわば仲介役だ。ここにはロベルトの他にも安月給の騎士が何人か住んでいて、ロベルトよりもひとまわりも年上の者だっている。若白髪で薄幸そうな顔をした騎士のことも大家はひよっこ騎士と呼ぶ。どうやらそれに年齢は関係なさそうだ。皆まで読んだロベルトはやや首を傾げた。内容は前とおなじく要人の護衛で、しかしそこで見たのは覚えのある名だった。

 ロベルトは仔細をたしかめるべく大家のところへと行き、大家の口からも同様の名前が出てきた。期限付きではなかったので長くかかりそうだったが、ロベルトは外套以外を持ち出さなかった。マリアンヌからの手紙は大家が預かってくれる。しばらく留守にしていても別に問題はないはずだ。

 三年前の記憶に従ってロベルトは歩いて行く。そうして、あの日とおなじように門扉を抜ければ、まず衛士よりも庭師に見つかった。年嵩の庭師はロベルトを見て、にっこりとした。

 庭師はそのまま執事長に取り次いでくれたので、ロベルトはすぐに談話室へと通された。中肉中背のロベルトはやや童顔にも見えるのだろう。青年騎士よりも少年騎士みたいだから、こういうときに苦労する。庭師はロベルトを覚えていてくれたのだ。

 ロベルトを歓迎したのは他にもいる。談話室で待っていた伯爵は、ロベルトがちゃんと挨拶をするより先に喋りはじめた。

「やあ、君が来てくれたなら安心だ。私は君のような若い騎士こそ、この王都には必要であると常々考えていてね。だというのに、あの頭が固い連中ときたら、」

「アロー伯爵。彼には説明しましょう」

 割って入ったのは長身の騎士だった。ロベルトはまじろいだ。

「教官……? な、なんで、ここに?」

 騎士らしくない声をしてしまった。笑みなど返ってこずに、目顔で叱られている気分になる。

「その言葉は正しくはないな。私はもう教官ではない。君とおなじ騎士だ。アドリアンと、そう呼べばいい」

「で、でも……」

 アドリアンはロベルトが卒業するすこし前に教官を辞めていた。けれども、ロベルトにとってアドリアンは教官だ。さっきの表情にしても教官そのままだった。

「まずは座りなさい。話はそれからだ」

 ロベルトはうなずく。教官と士官生の間柄でなくなっても騎士は騎士だ。ここには遊びにきたわけじゃない。

「ロベルト、君はどこまできいている?」

「アロー伯爵の護衛って」

「なるほど。では、話が早いな」

 ロベルトは眉間に皺を作る。いったい、どういうことなのだろう。アドリアンのこの言い方は、まるでそれを隠しているようにもきこえる。

「そんな顔をしなくてもいい。ここに呼ばれた騎士のなかには知らない者もいた」

「はあ」

 貴人の護衛の任務なんてありふれている。秘匿ひとくにするような理由が見つからない。ロベルトはアドリアンの反応を待ったが、騎士は教官の顔ではなかった。自分で考えろということだ。

 そもそも、ロベルトがアロー伯爵と関わったのはあの誘拐事件のみで、失敗をしたロベルトにその件を忘れろと言ったのはアドリアンだ。矛盾してるじゃないか。ロベルトは口のなかでごちる。しかし、これが重要なのだ。伯爵は過去に危険な目に遭っている。時が過ぎた今もあの事件は解決していないのか、あるいはそれよりもっと切迫しているのか。もとよりアロー伯爵は懐疑的な人物だった。ロベルトは顔をあげる。アドリアンと目が合った。

「正解だ、ロベルト。知ってのとおりアロー伯爵は多忙な方だ。マイア国外に出ることも多い。貴顕きけんの馬車が襲われる事件も多発しているのも事実で、自衛のために騎士を集めることも正当な理由となろう。しかし……」

「面白くはないと、考えている者だっているんですね」

 アドリアンはにやっとする。それに、貴人がやたらと兵力を持ちすぎるのも却って危険だ。たぶん、そこまで言いたいのだろう。 

「ふん! どうせクルタ伯爵の嫌がらせに決まっている! あいつはいつも私を目の敵にしているからな」

「クルタ伯爵……」

 ロベルトはつぶやく。その名前にも覚えがあった。アロー伯爵は保護されたあとに、かの伯爵の名を零していた。この様子ではなかなか根が深そうだ。貴族同士の諍いや不仲など社交界ではよくある話で、どちらかが不利益となる発言をしただとか晩餐会で恥をかかされたなどと、事のはじまりは何にしても過去の恨みは数知れずだろう。クルタ伯爵が白の王宮内でも虚言を重ねていると、アロー伯爵は唾を飛ばしながら言う。

「しかしながら、伯爵。クルタ伯が関わっているという明確な証拠がないのです。このような空言を繰り返せば、それこそ大事に至ります。……フレデリカ嬢もお父上を案じておられます」

 アドリアンの諫言かんげんに、急にアロー伯爵はおとなしくなった。家族を巻き込みたくないのだろう。騎士の数を増やしたいのも、己の安全だけを考えているのではない。ロベルトはそう推測する。

 貴人たちの会合に出席するために、アロー伯爵は部屋を出て行った。護衛に付くのもちろんアドリアンだ。別れ際にアドリアンはロベルトの頭をくしゃくしゃにした。

「すこし、背が伸びたか? しかし、相変わらず細いな。もっとしっかり食べなさい」

 自分でもう教官ではないと言ったくせに、ロベルトを子どもみたいに扱う。

「きみたちって?」

 ロベルトの問いにアドリアンは破顔する。

「会えばわかる」

 答えが明かされたのは夜になってからだ。アドリアンは昔からこういうところがある。それなら、勿体ぶる言い方をしなくてもよかったのに。彼との再会は卒業以来か。いや、こうして会話をするのもひさしぶりだ。部屋が分かれてからはお互い疎遠だった。

「ロベルト。きみも、来たんだね」

 二人は蜂蜜酒ミードで乾杯をする。背丈もほとんど変わらずに体格も似たり寄ったりだ。彼の青髪も長いままで、最初に会った頃はしっぽみたいに括られていたのを思い出す。卒業後も伸ばすつもりだろうか。

 それにしてもと、ロベルトは彼の横顔を盗み見る。

 彼は国に帰ったものだとばかり思っていた。ブレイヴはアストレアの公子だ。亡くなった公爵に替わって爵位を継ぐにしては早すぎても、王都に身を置く必要はない。それなのに彼が王都に留まっているのは、王女の傍にいたいからだ。

 他人の事情をむやみに詮索するのは趣味じゃない。ロベルトは蜂蜜酒を飲み干す。彼に問いたいのはまた別のことだ。そう。ロベルトもブレイヴもいわば新米騎士なのだ。それに、昼間のアドリアンの声はどうも妙だった。

「アドリアンの言うとおりだと思う。二人が不仲だとはいっても、クルタ伯爵がそこまで介入できるとは思えないし……。イレスダートはこの状況にあるから、ガレリアに兵力を集めているのも本当だ。アロー伯爵はたしかに大貴族だけど、さすがに騎士団は動かせない。俺たちが呼ばれたのは、そういうことだよ」

「騎士は便利屋じゃないからな」

 ロベルトの物言いに彼はちょっと笑う。その顔はどこか疲れているようにも見えた。

「それで、おまえはこの家で何をしているんだ?」

 ロベルトは昼のうちに他の騎士たちに会っていたが、そこに彼はいなかった。外出するのに許可は要らなくても私用でもなさそうだ。それに、彼はさっきから何度も欠伸をしている。もうとっくに九時を過ぎていて、彼がこの時間に起きているのもめずらしい。ロベルトも眠たくなってきた。  

「……護衛だよ。伯爵令嬢の」

 彼はそれだけを言った。


          


 三日目に早くもロベルトは手持ち無沙汰になってしまった。

 アドリアンは今日もアロー伯爵の護衛として出掛けているし、ブレイヴの姿も見えない。最近アロー家に入った騎士はロベルトを入れて十人ほどで、これだけでは心許ないとアロー伯爵は声を大きくする。アドリアンはやはり反対しているようだ。

 たしかに少ない数だと思う。けれど、ロベルトは所在なさを紛らわせるために邸宅内を歩き回り、他の連中もそれぞれ好きな時間を過ごしている。一番年長者は三十歳でアドリアンよりも年下だった。残りはロベルトと歳が近い騎士がほとんどで、つまりは新米騎士ばかりなのだ。伯爵が焦燥を感じるのもわかる気がする。こんな若者だけしか集まらないのは誰かが邪魔をしているせいだ。

 ロベルトは小腹が空いたときに台所をのぞきに行く。

 貴人たちの食事の準備に忙しい大台所とはちがって、女たちもおおらかでずっと優しく、ちょうど昼の仕事を終わらせた女たちがお喋りをたのしんでいた。新米騎士のなかでも小柄なロベルトは話しやすいみたいで、女たちはいつでもロベルトを迎えてくれる。ちょっとしたお茶会に招かれるのもこれで三回目だった。女たちの会話に相槌を打つのはなかなか大変でも、適当に時間は潰せる。夕方がはじまる前には引きあげて、今度は庭園を散策する。そこそこに広い敷地内でも庭師とその弟子の二人だけで管理しているそうだ。庭師はこの日もロベルトを見て、にっこりした。

 使用人たちは台所で他早く食事を終わらせるが、騎士には三食ちゃんと食事が用意される。鴨のローストと緑黄野菜のソテーに、バケットはオイル漬けの鰊のソースをかけて頂く。とろとろに煮込んだ玉葱のスープも、葡萄酒だっておかわりは自由だ。たいした働きもしていないくせに、ロベルトはそれらをしっかり全部食べる。年頃の男子はいつだってはらぺこなのだ。

 しかし、ここにはない顔もある。彼が戻ってくるのはいつも夜遅い時間だった。他に親しい者もいないロベルトは彼を待つ。今日も冴えない疲れた顔を彼はしている。ロベルトは夜食のチーズと蜂蜜酒を分け合って食べた。

「かわって、くれないか?」

 彼が落とした声があまりにちいさかったので、ロベルトは反応に遅れた。

「代わるって、なにを?」

「令嬢の護衛」

 チーズを喉に詰まらせそうになり、ロベルトは蜂蜜酒で流し込む。 

「冗談だろ? おまえ、なに言ってるんだよ」

 ため息の回数は数えていなくても、彼はそれを繰り返している。きっと無意識なのだろう。

「教官……いや、アドリアンには俺から話す。だから、ロベルトが嫌でなければ、」

「嫌とは言ってないけれど……」

 退屈だなんて言えなかった。それに、こんな弱気な彼ははじめてだ。らしくないと、思った。だから、ロベルトはふたつ返事で応じる。ブレイヴはやっと笑みを見せた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る