アドリアンの誤算

 アドリアンの説得は成功する。

 ロベルトもブレイヴも、他の皆もそれぞれ眠れぬ夜を過ごしながら、騎士の帰りをどれほど待ちわびただろう。アロー伯爵だけではない。この邸に昔から仕えている騎士だって、アドリアンを頼りとする。誰もアドリアンを疑わなければ心を許している。けれど、アドリアンはいつまでもずっと長く、この家にいるわけではない。結婚をして所帯を持ち、自分の家を継ぐかもしれないし、あるいはまた北との戦争が近づけば騎士は戦場へと行く。そこまでたどり着いてロベルトはやめた。そんなことにはすぐにはならない。

 アロー家の庭園では春を待ち望んでいた花々が彩りを見せていた。

 庭師には助手が何人かいて、そこにはアロー伯爵の姿も見える。身分はちがえど、二人は友人なのだとフレデリカからきいた。そのフレデリカも嬉しそうに伯爵たちを見守っている。外出が許されるようになれば、なじみの貴人たちに花束を届けると喜ばれるかもしれないし、いっそのこと商売をしてはどうだろうか。しばらく落ち込んでいたというのに、アロー伯爵はたくましい。大貴族ではなく商家に生まれていたならばもっと成功していただろう。

 フレデリカの部屋にはいつも明るい色がある。

 情熱の赤や愛らしい薄紅色は父親が好むもので、伯爵令嬢の誕生日には花冠を作らせるそうだ。たしかに、フレデリカの瑠璃色の髪にはそれがよく似合う。雨の日には、黄色や橙の薔薇が憂鬱な空間を元気にさせてくれる。紫や青の色は栽培が特殊なために、庭師が特に気を使う。薔薇の花にはたくさん種類があって、以前に教えてもらったのにロベルトはそれらの名前をちゃんと覚えてはいなかった。ともあれ、父と娘の関係は前よりももっと良好で、アロー家の者たちを安心させる。台所の女たちのお喋りも弾んでいた。

 本当にそうだろうか。

 ロベルトは疑問を口のなかに仕舞いこむ。たしかに、穏やかな時間に見えるのかもしれない。それなのに、どこかぎこちなく思えるのは、きっとロベルトが彼女のことばかりを見ているからだろう。フレデリカはもう前のように、ロベルトに微笑みかけてはくれないから、それがすこしさびしい。

 ロベルトはかぶりを振る。

 これで、いいんだ。ロベルトは自分に言いきかせる。だから、ここに咲く花を見て、故郷を思い出すことにする。教会の隅に咲く花は弟が育てているから、青と紫の色が教会を訪れた人の目をたのしませているだろう。根菜がメインのスープと、パンとチーズがすこしだけのさびしい食卓に、弟は花を添える。疲れた妹の横顔もきっと明るくなっているはずだ。

 ひさしぶりに手紙を書こうとロベルトは思った。アロー家に身を寄せていることを知らせていなかったし、妹からの手紙も受け取っていなかった。父親の病状も、あれからどうなっただろう。

 けれど、と。ロベルトの筆は止まってしまった。

 きっともうすぐロベルトはアロー家を離れる。また戦場へと行って、そうすれば手紙は受け取れなくなる。けっきょく、ロベルトはマリアの騎士もフレデリカの騎士も選ばなかった。

 このところのロベルトは手持ち無沙汰なときを過ごしていて、しかし他にもそういう奴がいる。ロベルトのひとつ上の騎士はどうにも垢抜けない童顔で、もう一人はお喋り好きな奴だ。堅物の壮年の騎士とはほとんど口をきいたこともないので、苦手だった。

 めずらしい三人組だ。回廊の端からきこえてきたのはその三人の声で、普段は人の話なんて気にしないロベルトも、つい聞き耳を立ててしまう。もっとお喋りなたちであったなら、ロベルトは彼らの会話に混じっていただろう。盗み聞きなんて格好悪い。立ち去ろうとしたそのときに、アドリアンという単語が耳に届いた。

 頭にのぼれば理性よりも先に感情が表に出る。ロベルトは、そのうちの一人に掴みかかっていた。

「どういうことだよ。アドリアンは間違ったことなんてしない!」

 二人掛かりで引き剥がされても、なおロベルトは歯を剥き出しにする。いきなりロベルトに詰め寄られた童顔の騎士はやや驚きつつも、自らの発言を取り消さない。

「不正だなんて言ってない。でも、アドリアンは騎士にあるまじき行いをしたから」

「おなじじゃないか。いい加減なことを言うなら、おれはおまえたちを軽蔑する」

「落ち着けよ、ロベルト。あんたはアドリアンをよく知ってるみたいだけど、俺たちはそうじゃない。アドリアンは教官でもなければ俺たちの上官でもない。ただの同僚だ」

 やっとロベルトは拳を解いた。たしかにそうだ。彼らはアドリアンを知らないから特別な感情を持たないのだ。

「アドリアンは元老院派のやつらに金を渡したんだ。それも金貨が数枚の話じゃない。だって、おかしいじゃないか。そうでなければ、こんなに早く話が収まるわけがない!」

「なんだと……!」

「よせ。見苦しいぞ、ロベルト。何をそんなに熱くなる必要がある?」

 壮年の騎士はロベルトよりもずっと大人で、他の二人にもない声をする。興奮しているのは認める。けれど、これは怒りなんかじゃない。壮年の騎士は嘆息し、冷えた眼差しでロベルトを射抜く。無機質な鉱物さながらに。騎士が人間ではないかのように。

「それの何が悪い? むしろこれで済んだことをアドリアンは褒められるべきだ。お前たちも、私も、誰もアドリアンを責めることはできない。元老院派の者たちの矜持がなんであれ建前だ。財産を奪われたら、誰だって困窮する」

 反論しかけてロベルトは唇を噛んだ。正論に真っ向から立ち向かえるほどロベルトは饒舌でもなかった。

「そこに正しさを求めるなら、ただの綺麗事だ。いいや、偽善でしかない。中身の何もない奴に、アドリアンも言われたくはないだろうな」

 これほど長く説教をされたのは、いつ以来だろう。ロベルトはいつだって人の言葉を咀嚼するまでに時間がかかる。

 その逡巡のあいだに三人はもう行ってしまった。軽蔑か、失望か、落胆か。たぶん、全部だ。アドリアンにも元老院派の奴らにも。そして、自分自身にも。

 その日、ロベルトはなかなか寝付けなかった。瞼を閉じていても嫌なことばかりを考えてしまう。観念して寝台から這い出すと、水を貰いに台所へと行く。さすがにこの時間には誰の姿もなく、ロベルトの足は外へと向かった。北からの風は冷たくて、まだまだ春には遠かった。外套を羽織って来るべきだった。ロベルトは嘆息し、それからうしろでくしゃみがきこえた。どうも付けられていたようだ。

「ちょっと、散歩をしようと思っただけだ」

「こんな時間に?」

 見抜かれている。けれども、眠れなかったのは嘘じゃない。

 長い付き合いであるから彼が何を言いたいのかきかなくともわかる。それならば、隠さなくてもいい。ロベルトもブレイヴも、おなじことを考えている。

「これから話すことは、きき流してくれていい」

 彼はただうなずいた。

「おれ、ずっと考えてたんだけど、この一連の件で最後に得をするのは誰だろうって」

 彼の顔は見ずに、自分へと確認する声でロベルトは言う。

「アロー伯爵もクルタ伯爵も、おなじように財産を没収された。あの騒動があったからじゃない。二人が、国王派と元老院派だったからだ」

 上流貴族の派閥争いなどいつの時代にも起こり得る。これまでは前王アズウェルが元老院の傀儡であったから、表面化していなかっただけだ。しかし、即位したばかりのアナクレオンはちがう。新王が元老院を敵視しているのは明らかで、そうなれば貴人たちはどちらに付くべきかをまず考える。保身のため、出世欲にしてもけっきょくは自分の家を守りたいからだ。ロベルトは嫌悪を感じない。それが人間という生きものだ。けれど、と。ロベルトは思う。なぜ、あの二人でなければならなかったのか。

「二人を争わせることで何が起こった? 国王派と元老院派が炙り出されて、それから白騎士団は鎮圧するのに躍起になってる。アドリアンが介入して収まった? いいや、そうじゃない。解決したように見えても、まだ隠されてる何かがある」

 彼は何度か瞬きを落としたもの黙ったままでいる。何かを深く考え込んでいるときによくする癖のひとつだ。

「なあ。おれ、おかしいのかな? 何もかもが仕組まれていたとしか、考えられなくなってる。はじめにアロー伯爵はクルタ伯爵に嫌がらせを受けてるって言ってた。それだって、ほんとうにクルタ伯爵にできたことなのかな? ずっと前に起きたアロー伯爵の失踪だって、クルタ伯爵が関わってる証拠なんてなかった。そもそも、二人の不仲も偶然だとは思えない。全部あの二人を争わせるための、」

「ロベルト」

 彼の声でロベルトはやっと呼吸をする。間違っているのだろうか。いいや、そうじゃない。彼もロベルトとおなじところにたどり着いているはずだ。

「白の王宮はずっと前から動いていた。アロー伯爵とクルタ伯爵を中心に国王派と元老院派として分かれていたのは事実で、彼らを危険視していたんだ。有力な貴族たちが、力を持つのは望ましくないと懸念している。だから、ここにアドリアンが呼ばれた」

「なんだよ、それ。なんだって言うんだよ。アロー伯爵もクルタ伯爵も、別に国や王家に背いたわけじゃない。それなのに、」

「ただしくはない。正しくは、ないんだ。だけど……」

 それはまるで、彼が自身に言いきかせているみたいだった。綺麗事だと仲間は言った。そのとおりだと、思う。だからこそ理解ができないし、心はそれを認めようとしてくれない。

「ごめん……。俺も、そうなんだ」

 ロベルトは瞬く。なんだよ、と。詰る声は擦れて消えた。

「俺も、アドリアンも。ここにいるのは偶然じゃない。ここに、アロー家に入ったのは王命だ」

 どういう反応をするのが正解だっただろう。見習い騎士のロベルトならそのまま殴りつけていた。あるいは、心ない言葉で彼を罵った。けれど、ロベルトはどちらも選ばずに、ただ笑った。

「そんなの、今さらだろ?」

 彼は公爵家の人間だ。王家に近しいことは知っているし、アドリアンにしても白騎士団に信用されている。つまりは監視役で、しかしロベルトは裏切りだなんて思わない。理解に感情が追いつかないだけだ。

「誰かが裏で操っているんだ。おれたちは、きっと利用されている」

 目の奥が熱くなる。拳が震える。怒ったところでどうにもならない。悲しんだとしても同情でしかない。まるで子どもみたいだ。騎士なのにいつまでも見習いのままでいる。ロベルトもブレイヴも、もう十八歳だ。だから、ちゃんと大人にならなければいけない。

「おれは信じてなんかない。最初からそうだ。王も元老院も、国も白の王宮も信用なんてしてない」

「でも、ロベルトはアドリアンを信じている」

 ちがう。おれは、本当はアドリアンのことも――。

 同時に振り返ったのは、背後で足音がしたからだ。誰かにきかれていい話ではなかった。しかし、それ以上の音はきこえずに逃げ出すような気配もなく、二人は目を合わせる。喘鳴がしたのはそのすぐあとだ。

 ロベルトは目を瞠った。騎士はたしかにロベルトの仲間の一人で、ここ数日姿が見えなかった。きっと、アドリアンの言いつけだとそう思っていた。けれど、それがどうしてこんなことになるのか。騎士はそこからもう一歩も進めずにうつ伏せで倒れている。背に受けた無数の矢はあまりに生々しく、ロベルトは震えた。とっくに力尽きていてもおかしくない傷だった。それでも騎士はここに帰ってきた。皆に、知らせるために。

 アドリアンと。その人の名をつぶやいたきり、騎士は目を覚まさなかった。


          


 アロー家の人々が医者を呼ぶには家長の許しが要る。

 けれども、伯爵は深い眠りについている頃だし、執事長をたたき起こせば騒ぎになってしまう。だからロベルトが最初に頼ったのは庭師だった。その選択は間違っていなかったと思う。庭師は驚きつつもすぐに応じてくれた。自らが医者を呼びに行き、そうして小一時間もしないうちに医者は駆けつけた。ブレイヴはそのあいだにアドリアンの部屋の扉をたたいたが、そこに騎士はいなかったという。アドリアンはときどき、夜になると姿を消すことがある。だけど、誰もそれを咎めなければ疑ったりもしない。息抜きは必要だ。アドリアンはずっとこの家に尽くしてきた。

 庭師の部屋はとても狭く、ロベルトもブレイヴも追い出された。

 早くアドリアンに知らせなければと、焦りはそのうちに苛立ちに変わってロベルトは行ったり来たりを繰り返している。彼はずっと黙り込んでいる。何かを深く考え込んでいるのか、あるいは祈っているのかもしれない。あまりにひどい有様だった。いきなり何者かに襲われなければああならない。矢は騎士の肺まで届いていた。

 悪い予感は際限なくつづいて、そのうちにロベルトは考えるのをやめた。彼のように祈ることをする。けれど、どうだろうか。ロベルトはヴァルハルワ教徒ではない。あのときだって、神さまは助けてはくれなかったじゃないか。

 空の色が変わりはじめた頃になってアドリアンは帰ってきた。

 仔細を皆まで伝える前にアドリアンは庭師の部屋へと入って行き、出てきたときもおなじ表情だった。教官のアドリアンならばロベルトを励ます声をしてくれた。けれど、今のアドリアンは騎士で、それに慰めの言葉を言ったところでなんにもならない。神さまはやはりロベルトの祈りなんてきいてくれないのだ。

 疲れ切った騎士二人に、アドリアンはすこし休むようにと言う。無力で無知な二人には他にできることなんて何もなかった。眠れるわけがない。それなのに、心はそれなりに参っていたのだろう。目を覚ましたときには昼を過ぎていた。ロベルトは真っ先にアドリアンの部屋に向かう。ききたいこと、知りたいこと、たしかめたいこと。全部答えてくれなくてもいい。アドリアンの口からききたいのだ。ところが、その途中で呼び止められる。ロベルトたちのなかで一番年長の騎士だ。前にロベルトに説教したときよりも冷たい眼差しは、すべてを悟っているようだった。そして、アロー家の人々も。

 階下では皆が騒ぎ出していた。不安、おそれ。それから動揺と怒りと。混乱を鎮めるためには執事長と侍女頭だけの声では足りない。アロー伯爵の隣には古参の騎士がいたものの、そこにフレデリカの姿はなかった。一人が亡くなったという事実を伯爵令嬢に伝えなくてもいい。そう判断したのかもしれない。しかし、隠しておくのは限界がある。いったい、何が起こっているのか。わからないからこそ、皆は余計におそれているのだ。

 やがて、奥からアドリアンが現れた。

 皆の視線が一斉に騎士へと集まる。それまでわめき散らしていた者たちもおとなしくなり、アドリアンは皆の顔を順番に見る。しかし、ここにはもう一人がいなかった。医者を送って行った庭師が帰ってこないのだ。老爺はアロー家のただの使用人とはちがう。アドリアンは庭師を忘れたりはしない。

 皆に話さなければならないことがあると、そう前置きをするアドリアンを急かすのはアロー伯爵だ。伯爵はまだ知らない。若い騎士は何者かに襲われて死んだ。それが、何を意味するかを。

「おそらく、今日のうちにこの邸に白の王宮より使者が来るでしょう」

「使者だと……?」

「ええ。しかし、使者と呼ぶにはふさわしくはないでしょう。彼らは、この家を敵だと見做みなしている」

「あ、アドリアン! わかる言葉で言ってくれ。何が、起こっているというのだ」

 アドリアンはいつも回りくどい物言いをする。アロー伯爵が憤るのも当然だ。

「この家に入っていたのは、私の他にもう一人いたのです。そして、私はそれを見抜けなかった」

「で、では、私は……」

 ロベルトは唾を飲み込む。アドリアンは何を言い出したのか。その顔をたしかめたいのに、ここからではよく見えない。

「アロー伯爵。あなたも覚悟を決められよ。すべては、遅すぎたということです」

 処刑台を前にした罪人さながらに、アロー伯爵の足は震えている。そして――。

「私は、これからこの邸に火を放ちます」

 もっとも残酷な言葉を、アドリアンは吐いた。

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