第22話『出走』


 倉庫街の道は当然商用が主な用途で、表通りほどではないが相応に幅がある。であれば建物それぞれに馬止め、厩舎があるのも相応だった。

 暗い夜道よりなお暗い土と藁敷きの小屋の中へ、マーガレッタは足を踏み入れる。

 覚悟していたほどの臭気はなく、牧草と木と雨と、かすかに混じる生き物の臭いは新鮮で好ましくすらある。

 勘のいい馬がすうっと横たえていた首を上げたのが、黒い影となって見えた。


「大丈夫よ、何もしないわ」


 影は四つ。使っているのはモニカの馬たちだけだ。マーガレッタの気配と声に三頭は目を覚ましたようだが、あとの一頭はぐずぐずと鼻面で地面を掻いている。

 最初に気付いた馬の首を、マーガレッタはそっと撫でた。


「そうね、あなたがいいわ。私を乗せて頂戴。悪いようにはしないから」


 ここから領主館、あるいは教導舎まではかなりの距離がある。おそらくどちらかに捕まっているセレジェイを首尾よく助け出せても、走って逃げるだけの体力は互いにないだろう。直前までは馬を使うほかない。

 壁に掛けてあった鞍を引っぱり下ろして、背よりも高い馬体へ巻こうとする。が、馬は鼻息を荒くして体をずらした。


「……何ですの、まさかイヤとでも言うつもり?」


 ふいと逆を向く馬の頭。むっとしたマーガレッタは落ちた鞍を再度抱え上げた。


「結構。反抗的なのを乗りこなすのも私くし、嫌いではなくてよ」

「――それじゃあ馬泥棒ですよ。マーガレッタさん」


 あるはずのない返事にはっとして、厩舎の奥へと目を凝らす。飼い葉の山から起き上がり、ぱっぱと肩や背中を払ったのは今一番話し難い相手だった。


「馬は純朴に見えてけっこう人を選ぶんです。そんな言い方じゃ僕だって乗せて貰えません」


 モニカの声は平坦で、表情は暗がりで読みとれない。


「馬にへりくだる言葉なんて知りませんわ」

「機嫌をとる必要はないんです。ただ、大切に扱ってあげれば。今だって、始めに声をかけてたでしょう」


 一瞬の間があって、マーガレッタが答えた。


「でも、嫌われているわ」


 みじろぎ、いや、たじろいだ気配。モニカの影が腕を組む。


「嫌ってなんて……いないと思います。ただちょっと、頑固な子なので」


 抱いたのは何故か安堵。それを振り払うように、マーガレッタは両手を広げた。


「そうね、馬は馬飼いの命も同じ。それを盗み出そうとしてただで済むとは思ってないわ。気の済むようにして頂戴」


 影が進み出る。モニカの輪郭が、身体の陰影がにじみ出るように明らかになる。その目はマーガレッタの脇の地面を見つめていた。


「マーガレッタさんは、お客さんです。お客に手なんて出せません」

「……なら、馬は借りていくわ。あなたには悪いけど、あの愚弟を引き取るのにどうしても必要なの」


 淡々と宣言して馬へと向き直る。人間より離れてついた二つの目は、それぞれモニカとマーガレッタを映しているようだった。

 モニカがその両手と瞼をぎゅっと閉じた。


「っ、ですから……っ」


 疾風。それはまさに黒い風というべき勢いだった。


「愚かなのはお前だこの石頭――っ!」


 小柄な影が、予告もなにもなくマーガレッタのわき腹へ突撃する。


「はぐゅうっ!?」


 藁くずを巻き上げて転がる彼女を見下ろして、仁王立ちになったのはカフィ。最高の仕事をしたと言わんばかりの笑顔で額をぬぐう。


「うっぁ、あなた、どうして……?」


 子鹿のように震える膝で立ち上がろうとするマーガレッタに、トントンと耳をつついて見せる。


貧民窟スラム育ちは耳がいいんだよ。逃げたり隠れたりもお手のものだ。助けに行くならあたしこそ適役だと思うけど?」


 避けるようにマーガレッタが目を伏せた。


「あの子を行かせたのは私くしです。その責任は――」

「まだ言うか、このーっ!」

「ひっ、きゃ、やめっ痛いいたいいたーい!」


 一足で距離を詰めたカフィが、両の拳骨でその頭を挟み込む。悲痛な声があがった。


「軽く押さえてるだけだぞ。そんなんで気の済むようにだのって言ってたのかよ」


 呆れたように両手を広げるカフィ。解放されたマーガレッタが濡れた両目で睨みつけた。


「このっ、乱暴者っ! モニカにならまだしもなぜあなたに――!」


 ぐんと二人の顔が近付く。そうしたのはカフィの方。


「この非常時にお前がつまんないことで拘ってるからだろ」

「っ……どういう」


 笑うでも皮肉るでもない真剣な眼差しにマーガレッタはどきりとする。鼻先が触れ合うほどの距離。


「あたしが行って、モニカ姐が馬を走らす。お前は留守番とエマ姐様の看病。それが一番かしこいやり方だろ。こんな時になに遠慮してんだ」

「遠、慮……?」


 そんなものするものかと思う。使えるものはすべて使って当たり前。だが言われてみればそれが一番理想的で効率のいい形に思える。


「ほかに理由があるのか?」


 理由。その選択肢を最初から外していたのは。


「だ、だって私くし、モニカにひどいことを……」


 無意味だと思ったから。あんなことを言ってしまった後で、元より無理な頼みなど聞き入れられるわけがないと思ったから。


「マーギーが酷いのはいつものことだろ」

「あなたにはいいのよ!」


 大仰に肩を竦めたカフィがモニカへと視線を流す。マーガレッタもまた、おそるおそるそちらを見た。


「……仕事だっていうなら嫌ですよ」


 むすっとした態度にマーガレッタの唇が弱々しく動く。先んじてモニカが続けた。


「でも、友達の頼みだっていうなら……やれなくはないです、から」


 モニカは言葉を詰まらせながら手を差し出す。


「マーガレッタさんが選んでください。馬を諦めるか、僕と友達になるか」

「っ……そんなの……」


 マーガレッタは一度強く目元を擦った。それから両手でモニカの手を取ると、抱きしめるように胸へと引きつける。陰になった顔から滴が数滴、その上にこぼれて散った。


「そんなの、ずるいわ、モニカ。あなたはっどれだけ私くしを雁字搦めにするつもりなの?」


 モニカが一歩距離を詰める。俯いたマーガレッタをもう片方の腕で引き寄せると、ふっと吹き出した。


「不思議ですね。マーガレッタさんは――」

「マーギーって呼んで!」

「……うん。マーギーはセレジェイさんのお姉さんなのに、話しているとまるで年下のお姫様みたい」


 カフィが同調する。


「だよねえ。やっぱ本当は妹なんじゃないの?」


 ようやく上げた視線を、マーガレッタは再びそらした。


「それは……」


 ぶるる、と馬が口をふるわせ胴をゆすぶった。驚いてそちらを見たカフィとマーガレッタに、頷いたモニカが笑って言う。


「早く走りたいって言ってる」

「分かるの?」

「もちろん、この子が生まれた時からの付き合いだもん」


 マーガレッタはその言葉を真実だと思った。そして心からの敬意をもって二者へ頭を下げた。


「……お願い、セレの様子を見てくるのに力を貸して。このままだと、どうしていいか分からない」


 力強く、モニカは請け合った。


「うん、任せて!」



                  §



 カンテラの明かりが馬体にあわせて上下に振れる。

 合わせて腰を上下させながらモニカは後ろへ乗ったカフィに声をかけた。


「しっかり腕を回して掴まってくださいね!」


 物珍しそうに後ろや横をのぞき込んでいたカフィはすぐにその通りにする。


「おおぉ、これ、役っ得ぅ!」


 もぎゅぅ、と諸々まとめて抱え込まれてモニカはぴんと背筋を張った。


「ひゃあ! は、速さが出てきたらイタズラしないでくださいね!?」


 言う間にも馬は並足から早足へ。雨よけに二人でかぶった油布にあたる水の音も心なしか強まってくる。


「うーん、このムチモチ感……人種の差かなあ。ねー、モニカ姐ってどこ産?」

「え……ひゃ、ん、ポート族という北方と平原の境の生まれで……んっ、牛や羊みたいに言わないでくださいよぅ」


 かなり無遠慮に動き回るカフィの腕を肘や二の腕で抑えようとするもののうまくいかず、困り顔でモニカは答えた。


「ほらぁー、やっぱり北のほうじゃん。だからこんなに色白でふかふかなんだよ。いいなぁー、あたし平原でも南の方だもん。肉なんてつかないよ」


 すふすふと鼻で息をしながらモニカの背中に張り付いていたカフィだったが、不意に前方を見て目を細める。その腕がぎゅっと締まった。


「止まって、モニカ姐!」

「うっく!」


 反射的に手綱を引くモニカ。


「どうしました?」

「……にょろにょろの大群だ。昨日からそこらじゅうで見るけど、イヤな感じがする。別の道を行けない?」


 カフィの目には見えるだけでも二十を越える毒竜の落とし子が通りを流れていくのが映っていた。


「見えるんですか?」

「うん、貧民窟の子供には多いんだ。国が出来るよりずっと前から平原で暮らしてたご先祖様の名残だってばーちゃんは言ってた」


 厳しい自然で生きるためには、彼らの声を聞き意思を伝える力が必要だった。多くは失われたものの、そのような原始的精霊信仰の残滓は大陸各地に見ることが出来る。モニカは以前風変わりな学者を乗せたときに聞いた話を思い出した。


「分かりました、迂回しましょう」


 手綱を操り馬を回す。やや速度を落として脇道を行きながら声をかける。


「カフィさんは、すごいですね。こんな状況でも普段通りで、ちっとも怖がってない」


 やや警戒して前を見ていたカフィが、照れくさそうに強ばった眉間を緩めた。


「そんなことない、あたしだって不安だけどさ、そういうの、表に出したら負けなんだよ喧嘩だと」

「喧嘩、ですか……」

「うん。あと、頭を取られても負け。これは絶対。だからアイツは助けなきゃいけない」


 正直なところ、モニカにはセレジェイがいたところでこの状況を何とか出来るのかという疑問もある。

 避難してきた人々が示し合わせたように口にする《化け物》。町中に蔓延るそれが妖精魔精の類だとして、それはもはや洪水や竜巻といった災害と変わらないのではないか。人知及ばぬ自然の脅威、立ち向かおうとすること自体がそのさらなる怒りを買うのではと不安になる。

 何より、セレジェイは座頭だ。彼の力は踊りを組み立てることであり、肝心の踊り子がいなくてはそれを発揮できない。今のエマが踊れるとはモニカには思えなかった。


「あたしは目が利くし、跳舞トータだって踊れる。エマ姐様の代わりにだってなれる。だからまずは、アイツにあって話をしなきゃ」


 強い決意がのった言葉。

 モニカは五人の中では一番新顔だが、カフィ、マーガレッタとてそう変わらないときいていた。


「どうして、そこまで……」


 ただの向こう見ずではないと分かる。密着した体は微かな震えまでを互いに伝えていた。カフィは額を擦りつけるようにモニカの背へ押しつける。くぐもった声がそこから響いた。


「全部捨ててきたんだ。クソッタレな親父も、妹分も、姐様たちも。寝床も、仕事も、貧民窟のことぜんぶ。空っぽになってここにいるんだ。だから」


 脇腹あたりの服がきつく握りしめられるのを、モニカはどうかして握り返したいと思う。しかし雨と曲がりくねった路地のせいで、手綱をとる手はなかなか空かなかった。


「だからここで手に入れるしかない。なら、出来ることは全部やらないとさ」


 モニカは馬の腹をやや強く足で挟んだ。不満げな嘶きとともに馬速があがる。この時だけは、雇われの立場を口惜しく思った。それでも。


「カフィさん」

「?」

「僕は、カフィさんのおかげでマーギーと仲直り出来ました」


 空っぽなどではないと伝えたかった。彼女は既に多くを手に入れていて、けれどそれが本当に自分のものか自信が持てないのだろう。自分の拠って立つ場所を求める渇望が今の彼女を衝き動かしている。


「きっと皆、カフィさんを大切な仲間だと思ってます。ですからどうか、危ないことはしないでくださいね」


 そこにある危うさをモニカは案じた。前へ前へと突き進む強さは、止まれなくなる危険を孕む。

 背中越しにカフィが笑うのが分かった。


「ありがと、モニカ姐。でもそれじゃああたしは踊れなくなっちゃう。ほら、跳舞トータって地面に向かって落ち続ける踊りじゃない?」


 心配ないよ、と彼女は腕を緩める。


「それにさ、ちょっと危なっかしいくらいがキレイに見えるでしょ?」


 


                  §

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