第28話『閉幕』

 それは一度は溶けた人格の復活。《竜》自身がそれまで持ちえなかった、混じっても無視してきた感情を意識したことで起こった。

 衝撃は《竜》自身の力でもって、またそれに掘り起こされた《彼》の思いをも乗せて総身を駆け巡る。

 変質していく。暗く澱んだ自身が、輝かしいなにかによって。


「馬鹿、な……なかったことにするつもりか、お前たちの都合で! この怒りを!」


 うねらせ、のたうち、掻きむしりながら《竜》が血を吐くように叫ぶ。


(ああ、そうだ)


 よりはっきりと返る声。それは《彼》が奪われた主権を取り返しつつある証左でもあった。


(周りの思う在り方によって変質する、そういう存在にお前はなったんだ。お前がそうして竜を変えたように、より強い祈りにお前も塗り変えられる)

「ふざけるな! こんな、こんな事実はない! あの娘は私が……ッ!」


 殺した、そう吼えようとして、気付く。

 少女がすぐに《彼》の変化に気付いたように、《竜》もまた彼女の変質に。


                  §


 同時、ラピスは限界まで高ぶった精神が体から遊離するのを感じていた。

 まるで魂だけ抜け出てしまったよう。けれど抜け殻のはずの自分は、倒れるでもなく目前のセレジェイを見つめている。


(というかちょっと私、視線が熱っぽいような……)


 自分はこれほどあからさまな表情で舞台に立っていただろうか。だとしたら何やらすごく恥ずかしい。


「――私、に」


 不意に、畏れるように唇をわななかせてセレジェイが言葉を発した。


「私に……もはや貴女の瞳に映る資格はない。姿は変わり果て、怒りと憎悪が常に躯を灼いている。……あれほど狂おしく懐いていたはずの貴女への愛すら、もう」


 それはラピスが書いた詞ではなく、また歌ですらなかった。さらに驚いたことに、自分が抜けた身体もまた言葉を発する。


「もう……お持ちでない、です、か……?」


 か細い、小動物を思わせる声色だった。いつもの自分はもう少しはっきり快活に喋る、とラピスは思う。

 いや!と青年――セレジェイではないと感じる――が慌ててかぶりを振った。


「今も……だが、こんなものではなかったと……」


 その少年のような初心さがまるで別人のようで、ラピスは状況を忘れて笑った。それが伝播したかのごとく、目に映る彼女もまた柔らかく微笑んだ。


「平気です……わたくしもずいぶん変わってしまったような気がしておりますから、無理もありません。その点、貴方はお変わりなく……」


 男が訝るように目を瞬かせた。少女は一歩踏み出してその手を取る。


「……いつもどこか怒ったように不機嫌で、けれどとても心の綺麗な優しいお方。参りましょう、今度こそ二度と手を離したりいたしません」

「………………ああ」


 男の手が少女の背を抱く。二歩、三歩とステップが刻まれ、天を向いて慟哭した。


「嗚呼、ああ! 何故こんな事に。私は、俺は、ただこうしたかっただけなのに!」


 悲痛に響くその胸に縋るように、少女は寄り添う。


「えぇ、でも大丈夫です。きっと、これからは」


 その髪に湛えられた虹色の光が膨れ上がり、堰を切ったように溢れ出す。

 目を灼くような一瞬の奔流。

 客席からあがったいくつかの小さな悲鳴を聞いたとき、ラピスは自分が再びステージへ立っているのに気付いた。

 驚くほどすっきりとしている。舞台が始まってからこっち、蓄積し続けていた異物感がたった今きれいに消えていた。

 町中から感じた憎しみと怒りも。

 ライトの眩しさに目を細めると、誰かが長い口笛を吹いた。

 それを皮切りに拍手が起こり、大きくなる。雨音のように自分を包むその暖かさに、ほぅと肩の力が抜けた。


 どさり

 と、倒れ込む音。


「っ、え……?」


 客席からの、息を呑むような悲鳴。

 その光景を目の前にして、ラピスは血の気が引く音を聞いた気がした。


 何か、忘れていないだろうか。

 龍は未だここに在り。それは毒竜から転じた宝石竜でも、一時それに匹敵する勢威を顕した雨の精でもない。


『  ――畜生横行の土竜めが  』


 ぎらぎらと爛々と、仰向けに倒れたセレジェイの右眼が火を宿していた。




                  §



 漆黒の闇の中、自分の矮小さだけが際だっている。

 それが見えない一寸先にいる怪物の巨大さゆえと気付いたとき、セレジェイはひとつの諦観に達した。

 この存在の意一つで自分は命を亡くすだろう。

 ゆえに逃げようと足が竦むこともなく、防ごうとしゃがみ込むこともしなかった。

 しゅうしゅうと、巨大な顎が開く。

 まるで鼓膜の間近で石を挽くようなひび割れた声。

 茶番だ、と。

 嘲笑する。


「……そうだな」


 嵐を越える勇凛もよし、時を越える愛もよし。

 ただお前が筋を引けばすべてが嘘になる、と。

 失笑する。


「ああ、その通りだ」


 争いも愛も厭う自分は、それを本気で描けない。今回の成功はそれを怖れることなく書き上げたラピスと、その意を汲んでセレジェイの構成へと落とし込んだエマの力に拠る。

 カフィも、マーガレッタも、モニカも。もちろんラピスに、サトランも。皆宝石など及びもつかない輝きで舞台を照らした。

 自分だけが、その価値を何段にも貶めている。美しさを求め信奉すらしながら、それを正視することのできない臆病者。

 

 ではこれで終わりか、と怪物が言う。

 幕を引いて構わないかと。


(……感想くらい言う暇があればよかったんだがな)


 美しかった。

 蒼白な顔で立ち上がったラピスも、それを信じ後押ししたサトランの歌唱も。

初めてとは思えない成果をあげたカフィの跳舞も、見事それに合わせてみせたモニカの演奏も。怪物のようなオルガンを見事に弾き馴らしてみせたマーガレッタも。

 賞賛を送りたかった。手放しで褒め、己の非才を詫びたかった。

 そしてもし、次の機会があったならその素晴らしさに恥じない自分でありたいと。

 そう、伝えたかった。それだけを望んだ。



                  §



 金鎖の帷子かたびらを突き破り、鋼の棘のような鱗が隆起する。

 全身を紫銀の鱗で覆われた姿は、まるでお伽話に出てくる竜人族ドラゴニトのようだとラピスは思った。

 客席から悲鳴が上がる。それとほぼ同時に、サトランが舞台の幕を引いていた。

 喧噪と、それを収めようとする教導官たちの声。


「セレジェイさんっ!? な、何が……っう……!」

「上手くいったんじゃないのかよ!?」


 舞台袖からモニカとカフィが駆け寄ってくる。モニカはセレジェイの姿をみて絶句した。ラピスははっと我に返ると、口をもつれさせながら言う。


「右目です、そこから鱗が広がって――」


 サトランがラピスを庇うように間に入り、屈み込んだ。


「……これは不味い、ここまで進行すれば我々では手の施しようがないうえに、魔精そのものになる恐れすらある」


 その言葉に、全員が息を呑んだ。

 妖精症の著しい深化にも命を落とさず、かつそれにより人間の範疇を外れたと判断された者の扱いは国によって異なる。だがその大半は追放か拘束、重ければ死。聖手国の場合「教会預かり」となるが、その先どうなるか知るものは僅かだった。


「そんな、あんまりです! セレジェイさんは皆を……町を救ってくれたのに!」


 ラピスが泣きそうな声で言い、モニカは俯き、カフィは唇を噛む。

 そこへ、割って入った声があった。


「おどきなさい」


 オルガンから立ち上がったマーガレッタが、セレジェイの傍らへと近付く。

 異形化したその姿を見下ろして顔をしかめると、溜息をついた。


「まぁ、こんなところで死なれては意味がありませんものね」


 その手がセレジェイの右目に触れた。


「よせ……!」


 サトランの制止もむなしく、白く華奢だった指先が一瞬で紫銀に覆われていく。

 近親者への妖精症の感染。誰もがそう思い目を覆いそうになった、その時。


 誰が気付いただろう。セレジェイを見下ろすその相貌が、爛々と輝く黄光を二つ宿していることに。



                  §


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