第27話『ヒュアデス』

 くすぶるのみとなった香炉に目をやって、モニカはカフィのことを思った。彼女はもう位置についているだろうか。

 ステージではラピスが大きな拍手を浴びている。

 バイオリンから持ち換えた小鼓のばちを汗ばむ手で握った。

 パイプオルガンがふつりと鳴り止む。スポットライトがさらに絞られ、場面は暗闇の荒野へと進んでいく。

 トコトコトコトン、と四度打つ。中二つを強く、打ち寄せる波のように。直後、首に提げた土鈴を一度振る。


「 ――姫よ、何処へ行かれるか」


 サトラン神父がそれまでと違う声域で歌った。低めの女声。それは新たな登場者を意味する。

 ラピスが答えて返す。


「 ――山のいと貴き竜に会いに」

「 ――なんと恐ろしいこと!」


 さらに四打と一振り。伴奏というよりは効果音に近い。


「 ――夜の闇はあの方が背に太陽を隠すがゆえ。あらゆる魔精はあの方の配下。何故行かれるのか?」

「 ――思いし人に三度みたび会うため」


 ラピスの口調に淀みはない。それはこれが彼女自身の物語だからだろう。


「 ――万のやじりがお前を穿つだろう」

「 ――もとより虚空うろを抱えし心なれば」


 魔女のごとき恫喝に姫は答える。


「 ――無尽の刃がお前を引き裂くだろう」

「 ――千々に乱れて断てぬこの思い、切れるものならどれほど楽か」


 大切な者を失う以上の絶望などありはしないと。


「 ――魔光の剣がお前を灼き尽くすだろう!」

「 ――二つの炎に身を焦がすほど、私の愛は浮薄ではない!」


 ホールライトが明滅する。一瞬のこと、誰が彼女に気付いただろうか。

 モニカは鼓を叩き始める。同じリズムを繰り返し、徐々に早く。

 意図して同じ律動なのだとエマは言っていた。

 繰り返される小鼓の四音。あの日、あの場にいた者ならば誰もが思い出すだろう。高く艶やかな跳躍を。異形の仮面と背を寒くする笑い声を。

 人々が同じ場所で同じ物を飲み、同じことを思う。

 彼女こそがそうなのだと。その思いに背を押されて彼女は跳ぶ。

 サトランが力強く謳った。


「 ――ならば姫よ、力を貸そう。我は嵐の精。雨の妖魔と風の亡兵、雷の将を麾下とする女王!」



                  §



 憎悪は、もはや人語を伴って殺到した。

 何たる欺瞞ぎまん、何たる蒙昧もうまい。こんな茶番は許さないと、おびただしい数の口が歯を軋らせる。

 香を喫んだことで知覚が拡がったに過ぎない、そう自身に言い聞かせねばならないほど圧倒的な怨嗟の瀑布。

 かつて竜にくべられたその男を演じたことで、セレジェイは実質的に最も毒竜と近い位置にいた。


(予想以上だな)


 石毒が身体を蝕んでいくのを感じる。副作用で不規則に暗く狭くなる視界に慣れようと試みながら、白昼夢のように脳裏を侵すイメージに耳を傾けた。

 シャーリクという血への妄執。理不尽に、他人の都合で全てを奪われた憎しみ。あまつさえそれが今まさに歪められようとしていることへの怒り。


(ああ、分かるとも)


 その思いを、セレジェイは肯定した。かつての自分と男を意図して重ね合わせる。

 共感し同化すること。害意ある精と交感する時、それは身を守る第一歩となる。

 その上で。


(だが、その娘にだけは手を出すな)


 相手の中に自分の願いを混じらせること。これが踊りの基本であり根幹。共感が深く同化が強まるほど大きく相手を感化できる。


「ぐッ……ぅがあ……っ!」


 瞬間、溶けた鉛を耳から流し込まれたような苦痛に、セレジェイは悲鳴を上げるのを歯を食いしばって堪えた。手足の感覚が吹き飛び、自然頭から床へ倒れ込む。

 基本にして根幹、だが今回は規模の桁が違う。アリが巨象の鼻先を変えようと立ち向かえばどうなるか、これはそういう話。

 頭蓋を揺るがすような、一部を脳が拒絶するほどの思念が響く。


 ――断ル 此は我ガ愛シの君 必ず取リ返ス


 自意識を排し相手と同化するべき局面で、真っ向から対立する思いを抱いてしまったこと。それは両者の間に強い摩擦を生み、結果として比べるまでもなく脆弱なセレジェイは擦り潰される。

 切れ切れの白昼夢。無数の落とし子がこの教導舎へ群がっている。それは程なく壁を突破、舞台へ殺到しセレジェイを喰い潰すだろう。

 だが。


(……思った通りだ、お前は)


 セレジェイは笑っていた。血を流し、冷や汗を浮かべながら。


「文句があるなら終わってから言え。目を離すなよ舞台から」


 小鼓と土鈴の音が軽やかに、その意識を掬い上げる。



                  §



 自分の名が謳い上げられた瞬間、少女は地を蹴った。

 しとどに濡れた群青のケープに金の腕足輪、背中へ連ねた土鈴と水王の面。

 それだけの異様を何故これまで意識しなかったのか。彼女の隣で観劇に興じていた男の最初の衝撃はそれだった。

 人々の間を跳ね回りながら、カフィは哄笑する。

 驚いた人々の心音と、真上から見た教導舎の屋根、自身が流れ落ちるパイプオルガンの管の冷たさ。五感も距離もごちゃ混ぜになった感覚が立て続けに少女の思考へ流れ込む。


「ケタケタケタッ!」


 人ならざるものと繋がったことによる幻覚、高揚感。抑えがたいそれらを爆発させるように跳ぶと、天空高くから地面を踏み下ろすかのごとき錯覚を得た。

 土砂降りの雨が、さらに叩きつけるような風雨となって屋根を打つ。

 建物へ取り付いていた毒竜の落とし子が霧消した。

 彼らは水を媒介として移動する。地上地下の区別なく、石毒の混ざった水は竜の眷属となる。

 カフィが縁を結んだのは雨の精ヒュアデス。普段は雲の中に棲むと言われる小妖精だが、天候によっては龍に匹敵する力を持つ。

 彼らはあくまで空の妖精であるため、石毒に侵されることもない。

 カフィは跳ぶ。雨に濡れた薄衣を褐色の肌へはりつかせて。振るわれる手足は細かな水の粒を室内へと降らせ、観客は思わず荒らかに鳴る天井を仰ぐ。

 跳舞とは落ち続ける踊りだとカフィは言った。その性質は雨という事象にこの上なく親和する。

 重みを忘れたような着地が決まるたび、図ったように鼓の音が鳴った。


(モニカ姐……!)


 心の中で叫んだ。いや実際声に出したかもしれない。それすら分からないほどカフィは高ぶっていた。

 それはエマにセレジェイが施したのと同じ暗示。自分と自然が確かに繋がっていると踊り手に信じさせるためのトランス。

 鼓のふちを叩く硬質な打音は、先の歌詞と相まってやじりの突き立つ様を見る者に想起させた。もし天上の目を持つ者がいたならば、時を同じくして雨粒が無数の矢形へと変じたのに気づいたろう。

 聖堂全体が今や一個の《妖精の輪》と化していた。彼らの思いは踊り子という窓口を介して自然そのものの在り様すら変える。

 毒竜の重圧が軽減した。破天荒にステージを跳び回ったカフィと入れ違うように、セレジェイはラピスの前へと再び進み出る。

 もはや職工の男としてではない。十四の宝石を冠のように巡らせ、金鎖で編まれた覆衣はまるで鎖帷子メイルのよう。

 人間的な起伏の減ったそのシルエットは異形への変身を意味する。即ち。


「 ――お前の願いは叶わぬ。男はもはや亡く、またお前も無事には帰れぬだろう」


 竜。極低の男声は聞く者の内臓を掴むよう。感情を針の穴から爆発させるイメージの女高声ソプラノとは逆に、節制と抑圧を求められる男低声バス。いかに特異な体質を持つサトランとはいえこの転換は酷使以上と言うほかない。

 だがそれでも、セレジェイ自身が歌うわけにはいかなかった。

 セレジェイは既に毒竜そのものと言っても過言ではなくなっている。血の婚礼、忘我の香、そして役を演じることで同化は極まり、押し流されそうな自己を全霊で繋ぎ留めている状態だ。


「 ――ああ、なんと痛ましく枯れたる声! 在りし日に私を呼んだのと同じ。竜よ、なぜ私を謀るのか?」


 色の抜け落ちた顔でラピスが歌う。その髪はライトの下でも分かるほどに輝き始めていた。


「 ――男はすでに我が虜囚とりこ。もはや貴女の顔すらも、彼には分からない」


 重々しく一抹の悲哀を伴った歌声を聞きながら、セレジェイは瞑目する。

 そこは既に夢の内と言ってもよかった。

 止めどなく流れてくる憎悪の流れを遡り、毒竜の本質へと至る。

 セレジェイではその在り方を変えることは出来ないだろう。真実の歴史を知り、またその怒りを少なからず理解できてしまうが故に。だが、ラピスならば。


「 ――ああ貴方、愛しい貴方!」

「 ――否! 吾はおぞましき魔精。どうか引き返すがいい、シャーリクの姫!」


 指先や足の爪が石毒で崩れていく。開いた目には視界が戻るも、それはもはやセレジェイの意思に従うものではなかった。


                   §


「……ぁ、なたは……」


 目の前の少女が気付いたように表情をこわばらせる。だがそれはすぐに決意を宿したものへと変化した。

 セレジェイの口が持ち主ではない何かによって言葉を紡ぐ。


「茶番、ヲ」


 地深く穿たれた岩の裂け目から吹く風のような声。

 その腕が少女めがけて伸ばされようとしてピタリと静止する。己に溶けた何者かの弱々しい抵抗を知覚して《竜》は不快げに眉を顰めた。


「セレジェイさんは……」


 その名を呼ぶ少女に、凶なる笑みでもって答える。


「死ンダ」

「っ嘘、です、だって、あなたは……」


 その絶望に《竜》はようやく理解する。先ほどから奏でられる気障わりな茶番の筋を引いていたのはこの少女と男であるらしい。


「シャーリクの係累、皆殺ス。魂ノ一片スラ残さズ朽チ果テルガイイ」


 少女が耳を覆ってしゃがみ込むのが見えた。虹色に輝く髪がその光を失い、代わりに土砂水の濁りが渦を巻きはじめる。

 どれだけの甘い夢に浸ろうと、否応なしに流し込まれる真実の呪詛を無視することはできない。小癪な語り部による偽りの歴史はすでに崩壊しつつある。


「そん、な……では、お母さまは……? 他の……あなたが愛した女性すら、あなたは……!」

「無論」


 そも、そこが己に混じった最初の呪いの始まりだ。彼女を愛したばかりに、男は全てを喪った。


「此ヲ憎マズ何ヲ憎む? 最モ愛シた者に、私は裏切らレた」


 少女がはっと顔をあげる。そこに怒りにも似た生命の賦活を見てとって《竜》は一度まばたきした。


「「それは違います」」


 この男の肉体の限界か、と錯覚する。二重に聞こえた少女の声。


「確かにこれは作り話。ですがそれを語り継いできたのは他ならぬわたし達だから」


 あるはずのないエコーは一瞬。しかし少女に先までの翳りはない。


「忌むべきことが、取り返しのつかない罪があったのかもしれません。でもだからこそ、後悔は恋の物語として残ったんだと思います。罪あればこそ自分たちは死ぬのではなく、まず愛あればこそこの呪われた運命があるのだと」


 生まれながらに繋がれた縁は報われぬ想いによるものでなく、尊い愛の産物だと。その願いが受け継がれたからこそラピスもまたそう信じた。


「あなたは、裏切られてなんていません。証明なんてできないけど、わたしは絶対にそうだって思います。だから――」


 泥色に染まった髪の毛が、火の燃え立つように輝きを取り戻し始める。小さな唇がめいっぱいに息を吸い込んだ。


「 ――されば我もまた汝が虜とならん。どうか美しき竜よ、我が夫に掛かりし牙でもて、我が胸を貫きたまえ!」


 それは停止した過去を再動させる魂の叫び。

 歌と動きの途切れた舞台に戸惑っていた観衆は、待っていたとばかりに暖かな拍手をうつ。百に届く祝福が、わずか一角とはいえ《竜》の中身を塗り替える。


「――――…………」


 なまじ触肢を伸ばしていたせいで《竜》は気付いてしまった。少女の言の葉の真なるに。たとえ本当に命を失うことになったとしても思いを伝えるという強い意思に。

 その愚直とすらいえるを前にした、その時。


(――――?)


 あり得るべからざる声が《竜》の内へ響いていた。

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