第17話『異変』

 夜半。外は暗く、馬車横に設えた卓上のランプも闇の中で息を殺している。

 ふと、雨に紛れた何かの気配を感じた気がしてセレジェイは瞼を上げた。

 同時に、鈍痛が隠れた右目の奥から響く。喉が渇いて、水を求め身体を起こした。


「……っ……」


 誰かの声。

 馬車の中かと思う。コップはどこへ置いただろうかと左目をこする。


「セレジェイさんっ!」


 ばしゃり、と泥を踏む音。次いで厩舎の戸を叩く音で、半ば覚醒した意識が一気に現実へ引き上げられる。セレジェイは御者台を飛び降りると内側まで濡れそぼった木戸を押し上げた。

 飛び込んできたずぶ濡れの彼女を受け止める。ラピスは室内用の布靴を履いていた。


「お父様が……!」


 縋るように襟首に掴まり、それ以上言葉を繋げず口は空回りする。まずは落ち着かせようとセレジェイは開けた戸を下ろそうとした。その直前。

 違和感。

 見上げた空は分厚い雲に覆われ、光などあるはずもない。にもかかわらず、嫌にはっきりとその様子は見て取れた。

 遠く、街路が蠢いていた。浅い川面のようにぼこぼこと、ぬるぬると。

 大通りを埋め尽くすそれが泥蛞蝓の大群で、それらを照らすのは時ならず町中に灯った明かりだと気付いたとき、セレジェイは息を止めてその光景から部屋を隔てていた。


「……!」


 どっと汗が滲む。口がカラカラに乾き、疼く右目だけが倍にも膨らんだようだった。


「何だ、あれは……?」


 動悸が早くなる。悪い夢を見ているのではないかと思う。


「セ、レジェイさん、苦し……」


 ラピスの声ではっと我に返った。とっさに庇った腕を緩める。


「悪い、何がどうなって――」


 訊ねようとしたときだった。


「エマ姐様っ!?」


 馬車から聞こえたカフィの声に、反射的に駆けていた。背部の幕を開け、ランプを差し入れる。

 背中を丸めて眠るエマと、その肩を揺するカフィ。エマの呼吸は荒く、目は薄くぼんやりと開いている。その背中から首のあたりに見覚えのある痣を見て取って、セレジェイはふらつきそうになる足を全力で叱咤した。


「どうした!? エマ、返事をしろ!」


 カフィの隣に膝をつき、呼びかけながら目の前で手を振る。茫洋とした瞳が、ゆっくりとセレジェイに焦点を結んだ。


「セ、レ……? ごめんなさ、い……上手く、出来なくて……」


 意識があることに胸をなで下ろす。油断ならない状況に変わりはないが。


「いったい何がどうなっていますの!?」

「エマさん、治ったんじゃなかったんですか!?」


 慌てるマーガレッタとモニカの声でもう幾分か冷静さが戻ってきた。対処できるのは自分だけだ。


「もう一炉、妖精除けの香を焚く。カフィは手伝え。マーガレッタはニガカゲ茶をいつもの倍の濃さで淹れて、モニカはエマを起こすのに手を貸してくれ」


 一刻を争う事態というものに敏感なのだろう、真っ先に動いたのはカフィだった。香炉の類を置いてある棚へとんでいき、箱ごとひっつかんで持ってくる。遅れてあとの二人も続いた。

 受け取った道具箱から必要なものを出して準備するセレジェイの背後から、ラピスが声をかける。


「あの……!」

「コールマイト卿の状態について詳しく話してくれ。何が起きているか知りたい」


 頷いた気配。淡々と手を進めるセレジェイに、ラピスは話しだした。


「書斎で一人でいるときに倒れたと聞きました。足から胸に、ルフさんと同じ瘡が……お父様はある時足を悪くされて、それからずっと長いズボンをはいていたんです。もしかしたら、その時から……」

「意識はあるか?」


 鍛鉄の香炉の上皿にジャコウネコの香嚢とヒマワリの花弁、蒸留した黒山羊の乳酒を入れて豆炭で炙る。本来なら丸一日は寝かせるのだが昨日今日で量を使いすぎた。

 ラピスは答える。


「私が行った時には眠っているようでした。家人に介抱されながらいくらか話したそうです」


 良くない状態だ。意識を失えば妖精症の進行は早くなる。


「なら次は町で起きていることについてだ。館の回りであの蛇みたいな奴はいたか?」

「ここに来るまでに何度か見ました。でも、通りのほうがずっと多いです」


 それはこの館が多少なりとも高台にあるせいだろう。水を媒介にする精ならば低きに流れやすいのは道理だ。そしてならばその源はやはり。


「井戸……鉱山かその地下で何か……いや、今それを言っても仕方ない、か」


 おそらくこの雨が引き金となったのだろう。水は山を流れ落ち、町を水浸しにして地へ潜る。そのどこかで今回、何かが混ざった。


「……赤い、石……」


 掠れた、うわごとのような声でエマが言った。


「……何?」

「真っ赤な、石の眼、とても遠くて大きい。ずっとこっちを見てる」


 マーガレッタがカップを持ってエマの傍らにかがんだ。


「出来たわよ。人肌に冷ましてあるから」

「エマさん、一人で飲めますか?」


 カップを受け取り、ゆっくりと中身を嚥下していくエマを見ながら、セレジェイは何かがつながりそうな感覚に黙りこんだ。


「……まさか、トサカ石か?」


 つぶやきを聞きとったカフィが振り返る。


「それって、マーギーがハトのなんとかだっていって掴まされた?」

「ああ……昔、血の道の薬になるというデマを信じてトサカ石を飲み続けた男が、体が石くれのようになって死んだという話を聞いたことがある」


 当時は宝石もどきにありがちな与太話だろうと気にもとめなかったが。


「カフィ、お前が酒場で受け取った石は」

「っと、これ!」


 さっと畳まれたフードの内側から取り出されたそれをセレジェイは睨む。


「……粗いが研磨されているな。現地で加工までやっているのか?」


 最近そればかり取れる、とあの若い鉱夫はこぼしていた。もし大量のトサカ石を採掘し磨く工程が山地で行われているなら。


「石毒の溶けた水……それがあの妖精の原基おおもとか?」


 それでもまだ腑に落ちないことはある。エマが背中にケガレを負ったあの時、どうしてラピスが狙われたのか。


「重ねて訊くが、あの妖精に覚えはないんだな?」

「はい……」


 ラピスはしゅんとして俯いた。


「それはコールマイト卿も同じだと思うか?」

「……分かりません」


 これ以上深入りするならそのあたりだろうとセレジェイはあたりをつけた。あの呪詛の声からしてシャーリク家がこの一件と無関係とは思えない。

 ニガカゲ茶を飲み終えたエマは、いくぶん生彩を取り戻した表情でセレジェイを見上げた。


「セレ……何か、分かったの?」

「いや」


 話せない。妖精の本質を知ることもまた症状を進行させる要因になり得る。

 もうその程度の小細工しか出来ない。分かってはいるのだ。このままでは。


「少し外を見てくる。エマを頼む」


 ラピスに目配せして、馬車を降りた。


 ブーツとズボンの重ね目を紐で縛り、はねた泥が入らないようにする。ラピスのことはどうしようかと考えていると、背後に気配を感じて振り向いた。


「何だ、お前か」


 マーガレッタだった。じっ、と探るような目つきでセレジェイを睨んでいる。


「また、黙っていなくなるつもりですわね」

「少し領主に話を聞きにいくだけだ」


 はぐらかしながらセレジェイはおそらく無駄だろうと思った。腐っても姉弟、互いのことはおおかた分かる。マーガレッタはふんと鼻を鳴らした。


「それ、無事に戻れる保証があって?」


 重大な秘密に首を突っ込むことになるかもしれない。その場合身の危険は十分にある。


「まあ、ラピスもいるんだ。そう手荒なことにはならんだろう。エマのこともあるし、深入りはしない」


 が、ここで不安にさせても噛みつかれて時間を喰うだけと敢えて口にはしない。


「……私くしのときは、戻ってきませんでしたわ」


 だが彼女の表情を見てぎょっとした。噛んだ唇に朱のさした頬。長い睫と絞り出される声は震えていた。


「すぐ戻るからと塔へ連れて行かれて、そのまま行方知れず。何の言葉もなしにいなくなられた方が、どれだけ迷惑するか分かっていて!? どれだけ……っ!」


 マーガレッタはきつく睨みつけた目をかすかに赤くして言い募る。こうなるとセレジェイの立場は一気に弱くなった。仮にも紳士たれと教育された身であるし、なにより怒りの向こうにある情に気付いてしまうが故に。


「それは……悪かった」


 きまり悪く頭をかく。マーガレッタは髪をかきあげる仕草に紛らせて目元を拭うと、腕を組んで睥睨した。


「私くしのことは構いません。あなたの愚かさは今に始まったことではありませんもの。けれど、それを晒すのは姉だけにしておきなさい」


 そう言って馬車のほうを見やる。だがセレジェイは、全てを話せないならば徒に不安を煽るだけだろうと判断した。


「言えない理由がある」

「ならせめて保険をかけておくべきですわ。あなたが居なくなっても、彼女らが迷うことのないように」


 まっすぐに向けられた金の瞳が、察しろと言っているようだった。


「……もし四半時経って俺が戻らなければ、お前が皆を纏めてここを離れろ」


 その意を汲んで、セレジェイが言う。


「あなたを置いてこの雨の中を馬車で逃げろと、あの三人に? 冗談、酷い汚れ役ですわ」


 マーガレッタは空惚けたように片方の肩をすくめた。


「ヨゴレだからお前に頼むんだ」

「怒りますわよ」

「いつも怒ってるだろ」


 不本意げに一度、小さな鼻から大きく息が吐き出された。


「……まぁ、構いませんけれど。こんな場所でどう思われようが、どうせ仮の住まいですもの。あなたもゆめゆめ忘れないことですわ。こんな場所では終わらない。国では多くの者が王の盲政に苦しんでいる。あなたにはそれを救う力と義務があることを」


 ぴんと立てられた指がセレジェイを向く。セレジェイは改めて靴紐に向かいながら言った。


「無いさ、そんなものは」


 くすりと、憐れみとも嘲りともつかぬ表情で、少女にしか見えぬ女は笑う。


「あることを忘れてしまっただけですわ。喪失も、憎しみも、そのさきにあった幸せも。ですが、そんなことは私くしが許しません」

「今ここで、充分に満ち足りている。二度と失わなければそれでいい」


 座頭としての責務をまっとうするという思いを込めて、セレジェイはまっすぐにマーガレッタを見て返した。

 彼女はきょとんとこちらを見返した後、さっと白い肌を紅潮させる。


「なっ……にを、欲のないことを言っていますの。確かにあなたは昔から私くしベッタリでしたし、家を出たのもあなた一人の意思ではないということでしたから、再開が嬉しいというのは分かるにしても……いいえ、いけませんわ、あなたには大切な役目が……んっ、ぅん!」


 後にしましょう、とマーガレッタは咳払いの後言った。くるりと表情を隠すように背を向けて、はあっと憤りを吐きだす。

 捨てぜりふは直前の怒ったような顔に合わない穏やかさだった。


「早く帰ってくるのですよ、セレ。あまり姉を心配させるものではありませんわ」


                  §

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