第10話『身体美』
屋敷からの道を戻りながらラピスがセレジェイの方を向く。
「セレジェイさんって、礼儀正しいですよね。貴族の方みたいに」
じっと探るような視線。セレジェイは何気なく目を逸らしつつ切り返した。
「姫もなかなかの御令嬢ぶりだった」
「うっ……」
昨夜後半の乱れようからは想像できない、そう言外に含めるとラピスは言葉に詰まり、顔を赤らめた。
しばらく無言で歩き、やがて視線を前においたままぽつりともらす。
「もし、セレジェイさんがもともと何処かの身分ある人だったとして」
体の前で手をもじもじと組み合わせながら、言葉を探すように。
「今の毎日をどう思いますか? あなたは、変わりましたか?」
抽象的だが真剣な問いだと分かる。彼女の立場からセレジェイたちを見て、何か思うところがあったのかもしれない。
「そうだな……」
距離にして十数歩、考えた後セレジェイは答えた。
「変わった、よりは変わっておけばよかったが多い」
「おけばよかった……?」
真意を問う繰り返しに自嘲的な笑みで応じた。
「人間、悪いところにかぎってそう簡単には変わらないもんだ。ダラダラとひきずって色んな所へ引っかけるたび、何でこれまでのどこかで直しとかなかったのかと後悔する。あんなに時間はあったのにってな」
そうやって過去の自分に責任を転嫁する。重い足を掻く妨げにならないよう。
「まあ、宿題みたいなもんだ。あー、分かるか? 宿題?」
「くすっ、はい、分かりますとっても」
きまり悪さに後ろ頭をかくセレジェイに問われ、ラピスはぽんと手を合わせた。その後でやや遠慮がちに、窺うように見上げながら続ける。
「それで、どう、ですか? 今の生活は?」
長い嘆息。怯んだようにラピスが何か言おうとするのを手で遮って、そう大したことじゃないとセレジェイは言葉を継いだ。
「もしもの話だ。俺はしがない座頭で大層な過去もない。だから想像になるが……」
前置いて正面を見る。近付いてきた戸のおりた厩舎からはかしましい声が漏れ聞こえはじめていた。
「それでも何とかやっていけるのは、ゆ……目的があるからだろう」
夢、といいかけて憚る。その言葉は自分の胸には綺麗すぎるように思えた。
「美しいものを磨きに磨いて、その先にある光を見る。薄暗い世の中しか知らない奴らに、明るい居場所を作ってやる。いつか自分がそうされたように、俺も……」
そこまで声にしてむぐ、と口を噤んだ。決まり悪く脇を覗くと、慈愛をふくんだ金の瞳に絡めとられる。
「大丈夫です。誰にも言いません。ふふっ」
ナイショですね、と微笑まれ苦笑する。本当は憮然と目を逸らしたかったが、それではあまりにも子供っぽいだろうという自制が働いた。
厩舎は目の前だ。横でラピスが優しい表情をするのを敢えて無視してセレジェイは、横に長い戸板を押し上げた。
「―-だから、減るもんじゃなし見せてナンボじゃ……」
「あら、貞淑の美を知らないなんて可哀想ねカフィ。充分に勿体をつけないと女の素肌というのは――」
乗りいれた馬車の横で裸のカフィとワンピース下着の上半分をはだけたマーガレッタが言い争っていた。にわかに増した明るさに誰何の目がセレジェイへ向けられ、見開かれる。
「はっ……?」
「……きっ……」
くるりと即座に背を向けてセレジェイは耳を塞ぐ。
「いぃぃあああああッ!」
予想に外れてカフィの悲鳴だけが聞こえ、バタバタと馬車の天幕へもぐり込む音がする。そのままの姿勢でセレジェイはラピスへ語った。
「美しいだろう? 跳ぶためだけに鍛えられた小麦色の身体。脚だけじゃなく全体を使って跳んでいるから細身を保っていられる。腰のラインが少し物足りないが、あばら骨や背骨の陰影が体のひねりにとても映えるんだ。跳舞の踊り手として一級の素材と言っていい」
「は、はあ、なるほど……?」
ラピスは状況をはかりかねているのか首を傾げて頷くだけだ。そのやり取りを遮るように。
「クソ変態野郎! 死ねっ!」
くぐもった罵倒にセレジェイは振り返り、それから思いだしたように目線を下げる。
「……ッ……」
両腕で胸を押さえ、微動だにしないマーガレッタ。実年齢にそぐわない見た目は肌質にも及び、緩みはおろかホクロひとつ見あたらない。成熟途上のような瑞々しい体つきはセレジェイ以外が見れば充分魅惑的なものだろう。
「惜しい」
「は……?」
額に極深の溝を刻んだままマーガレッタが聞き返す。セレジェイは心からの溜息でそれに応えた。
「本当に、見てくれだけなら母上の多くを受け継いでいるというのに。内面の粗暴狷介なことといえばまるで虎狼の如しだ。せめてその癇症だけでも直ればいくらかマシなものを……」
目頭を押さえて諦めたように首を振る。
ギリィ、とおよそ子女の口から出るべきでない音がマーガレッタからした。
「このっ不埒者ッ!」
一組のヒールが飛ぶ。片方はセレジェイの顔面に。もう片方ははっとしたようにその目を塞ごうと伸びあがったラピスの側頭部に。
「っぐ」
「はくっ!?」
必然、弱い部分にくらった方がダメージは大きくなる。ラピスは頭を抱えてしゃがみこんだ。
「あっ、ごめんなさ……あなたに言ったんじゃありませんわ愚弟! むしろあなたがラピスに謝りなさい!」
貞淑の美とは何なのか。理不尽な嚇怒に従ったわけではなく、ただ割といい音がしたのでセレジェイはラピスを心配する。
「おい、大丈夫か?」
「うぅ、だい、大丈夫です。それよりセレジェイさんはだ、はだかを……」
「ん?」
セレジェイが屈み込んだとき、馬車の向こうからのんびりとした声がかかった。
「セレー、戻ってきたのー?」
ひょこ、と濡れた髪を豊満な肢体にはりつけたエマが顔を出す。まだ少し水を残した手桶がその足下に転がった。
顔と肩、背中と屈められた腰だけが車輪の陰に見えている。
華奢、なのだろう。背のわりに細い肩も、仰け反ったまま折れてしまいそうなくびれも。にもかかわらず全体の印象が円さを失わないのは、女性的な肉付きに恵まれているゆえだ。痩せ型でも骨ばった部分はなく、肌の下に薄くのった柔らかさが美しいラインを描いている。それは腰で大胆に膨らみ内腿へと流れていた。
「ああ、悪い。寝てたから起こさず出た。何でもないから続けてくれ」
言ってセレジェイが手を振ると、そう?と言って引っ込む。それから思い出したように、顔の上半分だけが戻ってきた。
「セレ、あんまり女の子に意地悪しちゃ駄目よ」
叱るような視線。受けて不本意そうにセレジェイは言った。
「そもそもお前が気にしなさ過ぎるせいで俺まで慣れたんだ」
否、修業時代に関わった女性ほぼ全員か。最初こそセレジェイも目の置き場に苦慮していたが、皆が皆あけっぴろげ過ぎてそのうち気にするのが馬鹿らしくなってしまった。
エマは拗ねたように目を細める。
「なぁにそれ、そもそもセレが素直に喜ばないからいけないんじゃない。本当はあんなに甘えたがりだったクセに」
「お前な……」
立ち上がっていたラピスがさりげなく身を引いたのが分かった。マーガレッタは言わずもがなだ。
「この……一家の恥……っ」
沸点を超えて反転したのかその視線は氷のようだった。
「違う誤解だ。おいエマ、お前が俺を虐めてどうする」
「ふーん、だ」
「……そういえばモニカはどこだ。姿が見えないが」
「ふーーーーーーん、だ!!」
苦し紛れに見回して訊ねたのが何か決定的に癇にさわったらしい。エマは完全に姿を隠してしまった。
替わりに反対の陰からもはや見慣れた牛飼い帽がのぞく。
「……? 呼びましたか、セレジェイさん?」
「ああ、服は着てるか?」
御者台の下から頭だけ出したモニカは、シャツの襟をつまみ上げて見せた。
「着てますよお。僕、朝は早いので。皆さんより先にこの子たちとお水もらっちゃいました」
同意するかのように馬が小さく嘶いた。
「そうか……」
「なんでちょっと残念そうなんですか!?」
ラピスが思わずといった調子で割り込む。何か言い訳しようとしてやめた。迂闊に口を開くとどこから横矢が降ってくるか分からない。
「馬が蹄を痛めちゃったみたいで」
悲しそうに眉を下ろしてモニカが言う。
馬車を回り込むと、
繋がれた馬たちは三頭が馬草に鼻を突っ込み、あとの一頭が水桶で喉を鳴らしている。みな毛並みがツヤツヤと照っているのは、何日かぶりにモニカに洗ってもらったのだろう。
「この子です」
モニカが水を飲んでいる一頭の後ろ足を指した。
「どれ、ああ確かに」
なめらかな曲線を描く蹄の一部が、擦りむいたように削れている。
「ん……?」
傷そのものは浅い。人の爪で言えば甘皮を擦った程度だ。だが。
「蹄も洗ってやったんだろう?」
「はい、やっぱり気になりますよね……」
そこが本題だとモニカが頷いた。
傷の外縁に砂利をまぶしたようなざらつきが出来ている。よく手入れされた乳白色の蹄は象牙に似た光沢で、それゆえに少しの違和感が目に付く。
「こすっても落ちないんです。悪いものなら蹄を削らなきゃいけないんですけど、今はそれほど伸びてもいないですし、必要があるのかも分からなくて」
こんなの初めてで、とモニカは心配そうに馬の足を撫でた。馬は気ぜわしそうに傷ついた足で地面を掻いている。やや四肢の平衡を崩した馬体は、どこか先に会ったラピスの父を彷彿させた。
「判断は任せる。一週間は町を出ないから、少し様子を見てもいいんじゃないか」
そうですね、とモニカは馬脚を見たまま答えた。
考えても分からない以上あまり深刻になってもいけない。セレジェイは馬を驚かせないよう緩く二度手を叩いた。
「よし、朝メシにしよう。カフィ、服は着たか?」
幌の中でガサッと動く音がした。
「き、着たよ! ヘンな想像するな馬鹿っ!」
「あぁ悪い、ついな。着ているならパンと干しぶどうの残りを出してくれ」
がたたっ。
「ついだぁっ!? お前なあっもう! 勝手に取ればいいだろ!」
悲鳴のような台詞と共に、どしんと内から蹴りつけられたように車体が軋んだ。
「セレが性格までお師さんみたくなってきてお姉ちゃんは悲しい」
「それ、どちらかと言えば私くしの台詞なんですけど?」
喧々と内外が騒がしくなったとき、ラピスがおずおずとセレジェイの方へ近づいてきて提案する。
「あの、もし失礼でなければ何か……あ、卵とか果物とかなら火も使ってませんし、持ってきましょうか?」
セレジェイは若干の驚きを込めてその顔をまじまじと見た。
「な、なんですか?」
「いや。《市人と
実際セレジェイも師から教わったものの、守れと厳命はされなかった慣習だ。
「え、それじゃあ今は大丈夫なんですか?」
各家にある火は浄なるもので、それを使って調理したものを食べることは家系と縁を結ぶ行為といえる。文字通り同じ釜の飯を食うということだ。この戒めもまた必要以上に只人と関わらないためのもの、だったというが。
「大丈夫というか、今じゃもう難しい。煮炊きの火が駄目なら昨日みたいな酒場も使えないし、パンや燻製やの加工品も買えなくなる」
「そう言われると、そうですね。それじゃあ……」
どうしましょう、とラピスは言った。
遠慮するのはかえって悪い気がして、ついでに少々貧相な朝食事情を考慮した上でセレジェイは頭を下げた。
「卵を貰えるならとても有り難い。礼はいつか必ず」
「わっわ、そんな、お礼なんて! こちらこそ、お招きしておいてこんな事しか出来なくて……!」
いや、ことごとく断っているこちらがむしろ非礼を詫びるべきだろう。
ぐるりと腹が音を立てる。慌てたように、それじゃあ行ってきます、とラピスはスカートをつまんで駆けだしていた。
◇
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