第11話『緑の瞳』
パチッ、と白くなりかけた卵がフライパンの上ではぜる。
ラピスがバスケット一杯に持ってきたそれを人数分だけ貰い、自前の火櫃で調理していた。
「それにしても、本当によく竈の慣習を知っていたな。俺たちの他に踊り一座が来たことがあるのか?」
火の様子をみながらセレジェイが訊ねると、ラピスはどうでしょう、と首を傾げた。
「あったとしても、私が生まれる前かずっと小さなころでしょう。私が知っているのは、お父様の持っているご本で読んだからです」
本、とは珍しいとセレジェイは思った。流浪の民の慣わしに筆が及ぶような書物とは。
「聖手教の教導書かなにかか?」
教えの正当性を唱える上で、異教の者の異質さを引き合いに出すことは効果的だ。
ラピスはいえ、と否定した。
「私たち共和国民の先祖について、森辺の民について書かれた本です。父は収集家で、近い内容のものが書斎に沢山ありました」
意外な事実だった。ここまで聖手教に教化された国の領主がそんな本を欲しがるとはどんな考えあってのことだろうか。
「ラピスの親父さんってどんな人なの?」
幌からはみ出した荷台の床板へ腰掛けたカフィが、パンと目玉焼きと干しぶどうを立て続けに口へ入れながら言った。
「お父様ですか? そうですね……優しい方です。町に住む人はみんな自分の家族みたいなものだっていつも言っていて、町の皆さんも父親みたいにあの人を慕っています。怒ると、ちょっと恐いですけど」
ラピスは最後にはにかんだように付け加えた。
セレジェイが焼けた卵をマーガレッタとモニカのパンに乗せてやり、自分もパンをかじりはじめた時、ラピスが真面目な顔で訊ねる。
「あの、皆さんはお仕事を探されてるんですよね?」
ああ、とセレジェイが頷くと、視線をさまよわせやがて思い切ったように身を乗り出した。
「診てあげてほしい人がいるんです」
◇
森辺の民は、医術にも好く通じていたという。
知識は共和国の改宗という変化の中で多くを散逸したものの、踊り一座の中で受け継がれてきた。
それは教育と言うよりも、実生活に即した「習い」というべきもの。流浪の生活で病や怪我をすれば自分たちで何とかする他ない。そういう言ってしまえば卑近な知識だけが、偉大な先人の知恵から抜き出され伝わった。
ゆえに街人が彼らの医師としての側面をあてにするとき、相談の多くは妖精症についてのものとなる。踊り一座にとって、今も昔も最も根深く関わり続けてきた病。
「まだ母が生きていたころ、父はよく親子三人で町を見に出かけたものでした」
大通りを脇へはずれた細い路地を、よどみない足取りで進みながらラピスは話す。
路地では職人らしき人々が、それぞれの家の前で日差しを避けるように腰掛け、石工や彫金を黙々とこなしていた。ふと視線を上げてラピスに気付いた者も、会釈のみして作業へ戻っていく。慣れているのだろう。
セレジェイはそんな彼らをふらりふらりとのぞき込むエマの手を引きながら、裏路地に不似合いな案内人の話に耳を傾けていた。握った手は主の機嫌の悪さを代弁するようにやや重い。
「いつだったか、わたしは町で迷子になってしまって。そのときにお世話になった方なんです。当時はどこの誰かも分からなかったんですけど、何年か前サトラン神父にその話をしたら、探して引き合わせてくださって」
ラピスは嬉しそうに言ったあと、表情を沈ませた。
「神父とは、懇意なのですか?」
セレジェイが訊ねる。
「先生なんです、音楽の。って、何でいまさら言葉遣いを?」
「いや……気にしないでくれ」
喋りだしてから何を訊いているんだと我に返った結果だとは言えず、言葉を濁した。後ろへ伸ばした手がさらに重みを増す。
(おい、いい加減にしろ。これから仕事を請けるんだぞ)
強めにエマを引き寄せ、声を落として言う。不機嫌の因が自分にあると言われれば反省もするが、それと仕事は別だ。特に薬や妖精症についての知識は、生まれながらに踊り一座だったエマの方がずっと豊富で、どうしても彼女に頼ることになる。
だが当のエマは、振り返ったセレジェイと視線を合わそうともしない。
「ふんだ、どぉせ私はこんな時くらいしか気にしなくていい女だもん。仕事だけの付き合いだもん。あーぁ、昔の可愛いセレはどこいっちゃったのかなぁ」
いじけたように言い募り遠い目をする。
「昔より今の方がいくらかマシだと思うんだが」
少なくともセレジェイにとっては、思いだすだに頭を柱へ打ち付けたくなるような記憶がまあまあ存在する期間だ。
「うぅん、昔の方がよかった。今は私をあまり見てくれないもの」
「見てるさ」
くい気味に否定して、振り向けられた泣き顔と目が合う。気まずさに今度はセレジェイが目を逸らした。
「ただ……他にも気を配ることがある。手際の悪さは俺の未熟だが」
すん、と鼻を鳴らしたエマは少しのあいだ唇をとがらせてから、嘆息。
「ねぇセレ。あなたの一人立ちに、お師さんが何か餞別をって言ったとき、セレはなんて言ったんだっけ?」
最大級に答えにくい質問に、さらに目を逸らす。ラピスがどうしているか気になったが、それを確認すると余計に場がこじれそうで二の足を踏む。やむをえずそのままで答えた。
「……お前が、踊り子としてのエマが欲しいと言った」
「ウソばっかり。じゃあもう一つ聞くわ? それを私に伝えに来た時、あなたはなんて言ったかしら?」
誤魔化されないとばかりに詰め寄られて一歩後退する。ちらりと視界の端にかすめたラピスは何か勘違いしたようなキラキラした瞳でこちらを見ている。いい気なもんだとセレジェイは理不尽な怒りさえ覚える気分だった。
「……一緒に来い、ただそれだけで、踊れなくても構わな……っ?」
ぴたりと制するようにエマの指が口先へ突き付けられる。
「その先は言わないでいいわ。あの時も最後まで言わせなかったと思うし。はいじゃあ最後の質問。それに乗せられた私はセレとどういう関係になったでしょうー? いち、恋人。にぃ、夫と妻。さーん、ただの座頭と踊り子。どーれだ?」
どれだも何も実際に三つ目でしかあり得ないのだが無言の圧力を感じる。具体的にはそれを選んだら三度と機嫌を直してやるものかという。
「……四つ目、家族だ。何よりも大切で特別な」
時に父と娘のようであり、時に姉と弟のようにもなる。セレジェイはそんな繋がりを気に入っていたし何より、そこが精いっぱいだった。
それ以上に抱え込もうとするなら、変わらなければならない。今までズルズルと引き摺りつつ引っかけつつ無視してきた自分から。
「ばか、そういうことを言えちゃうから昔のほうが良いって言うのー」
至極不服そうに目を細めてエマは体を離した。ふわりとステップと共に広がった外套が華のような円を描く。
「ごめんね、ラピスちゃん。足を止めちゃって」
「いっ、いいえ、いいえ! えっと……ごちそうさまです!」
謝罪するエマにラピスは興奮した様子で首を振った。色白の頬は紅潮し眼差しは尊敬に満ちているように見える。
セレジェイはなぜか一人大損をした気分で、猫背がちに二人の後へ続いた。
◇
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