第5話『妖精の輪』

 霧のような飛沫がはじけ、宙へいくつも人の女の形を成す。ウィンディーネと呼ばれる水妖精。その形相は全てがすべて悲哀に歪んで見えた。


「けたけたけたッ!」


 仮面の水王が哄笑する。激しい縦横の回転にもかかわらず仮面だけは観客の方へ向いたまま離れない。そしてその下のカフィの表情といえばおそらく、最初とかわらずにっこりと嘲笑っているのだ。嬉しそうに、親しみすら滲ませて。


「ひえっ……」


 最前列の男がぺたん、と尻を付いた。それを皮切りに、ばらばらと人の波が引いていく。垣根に隙間が出来始める。

 それでも踏みとどまる客が多くいるのは、誰もがこの舞台装置も何もない舞劇に離れがたく引き込まれている証拠だろう。


 結末は文字通り堰が切れるように。

 現れた異形におののきながらも青年は、水精の少女を守るように抱き寄せる。

 だが、水王に釘付けとなっている彼の腕の中で、少女は両手に持った短刀を振り上げていた。

 ガクン、とセレジェイの膝が落ちる。胸に抜き身の刃を刺され、何が起きたのかと眼を見開いて。


「ぁあ、あああ、あぁああぁあああぁあっ!」


 この世のものとも思えぬ悲嘆の絶叫がエマの口から溢れた。太鼓も土鈴も鳴りを潜めた夕闇の広場に、確かな異界との縁が結ばれる。

 同時に噴きあがる泉。水盆の澱みはいつしか清流へと転じ、その周囲を光る川霧のような人間大のもやがいくつも飛びかう。


「あーー! ぁあーーーっ!」


 木の模造剣を震える手で突き立てながら狂涙するエマの表情は、もはや完全に演技とはかけ離れていた。目は赤く腫れ、流れでた雫は首の化粧をおおかた落としている。

 それを支えながらセレジェイは美しいと思った。シャツの手首に隠した生木の枝を抜き出すと、その枝葉でエマの背筋を二度、三度と撫でてやる。


「うちの花形を返せ、悲恋狂いウンディーネども。とっくに幕だ」


 木の名をサカキといった。

 一瞬心外そうにセレジェイを睨んだ何者かは、唇を引き結んだ瞬間に吹き出す。


「うふ、うふふっ、あはははははっ!」


 くすぐったそうに身をよじり、枝から逃れようとする。やがて耐えかねたように、エマの後ろ首あたりから光のもやが一握、すうっと抜け出ていった。

 光の霧は吸い込まれるように泉へと飛び込んでいく。いくつもいくつも、そのたびに過剰ともいえる水しぶきがあがった。

 だらりとセレジェイに覆い被さるエマの目に、徐々に正気の光が戻ってくる。とろりとした緑の瞳は、焦点を結ぶとふにゃっと細まった。


「セレー……」

「ご苦労さん。いい踊りだった」


 その首筋を労るようにさする。


「今日は少し、混ざりかたが深くて怖かったわ」


 なおも体重を預けようとするエマを宥めすかしてセレジェイは彼女を持ち上げた。


「お前は水精や木精と相性が良すぎると、師匠も言っていた。さあ、挨拶だ」


 呆気にとられたように立っていた人々は、二人が立ち上がり深々と礼をすると我に返ったように手を叩いた。その音はセレジェイがカフィ、モニカ、マーガレッタを呼んで頭を下げさせるころには割れんばかりの響きとなっていた。


「よく分かんねえけど、すごかったぞ!」

「妖精なんざ久しぶりに見たぜえ」

「明日もやってくれ!」


 かけられる賞賛にカフィは得意げににやつき、マーガレッタは澄まし顔で腕組み、モニカは身の置き場をなくしたように身じろぎし視線をさまよわせている。

 苦笑しながらセレジェイが合図し、全員でもう一度頭を下げたその時。




「おお! なんと恐ろしきこと!」



 広場で交わる三本の大通り。うち一番太い通りから、人垣が割れていた。

 両手を胸の前で組み、上質な灰色の法衣で身を包んだ大柄な壮年の男。背後に二人の若い教導官を従えたその姿は威厳に満ち、たっぷりと香油で整えられた艶やかな長髪はどこか楽堂の歌手を思わせた。


「古さびた森の異教徒が町の水へ毒を混ぜた! 間もなく森の病がはびこることとなろう!」


 男はよく通る声を朗々と響かせると立ち止まり、じろりとセレジェイたちを見た。その目には長年人の心を動かすことに心血を注いできたであろう理知の光がけぶっている。


「これは、聖手教の。神父様におかれましては生業捗々はかばかしいようで何よりのこと」


 セレジェイが慇懃に頭を下げるのにも焦点を合わせない。何度も往復するその視線にエマはセレジェイの裾を握り、カフィはモニカの陰にそれとなく隠れた。

 男はやっとセレジェイに顔を定めて言う。


「万手千頭の神が護りたまいしこの町へ、何らその手で作り出すことのない生まずの手が十も入り込み我が物顔をしてある! 嘆かわしきことである!」

「我ら荒れ地の飢えに耐えかね、この町を頼った次第に。踊りは何も持たぬ我々のせめてもの礼。そこに他意などありましょうか」


 へりくだるセレジェイはさして堪えたふうでもない。聖手教の森辺の民ぎらいは今に始まったことではない。

 万手千頭の巨人という唯一の神を戴き、他の精はすべて神が姿を変えて宿った化身にすぎないという聖手教の教えから見たとき、その神たる妖精を使役する踊り子や魔女などという人種は涜神者として扱われる。

 そんな事情から、教導官とのトラブルを避けるための文言も踊り一座の歴史のうちに出来上がっていた。

 再度、法衣の男が視線を横へ流す。それはマーガレッタの襟首あたりで止まった。


「……その割には、奢侈な格好をしてある」

「みな父祖伝来のもの。繕い繕い使い続けております。どうかご容赦を賜りますよう」


 恐縮したように手のひらを擦るセレジェイを見てマーガレッタが凄まじく面白くなさそうな顔をしたが、法衣の男は何も言わずに背を向けた。


「売春婦どもめ……」


 控えていた二人の教導官のうち、一人が去り際そう吐き捨てた。その、言葉に。


「っ――」

「――取り消させなさい、サトラン神父」


 幼さを思慮分別で固めればこんなだろうかという声。

 いつからそこにいたのかセレジェイ達の斜め後ろ、控え幕の陰から十四、五歳とみえる少女が進み出ていた。


「これは、ラピス姫様」


 サトランと呼ばれた法衣の男は即座に向きなおり、きっちりと直角の半分腰を折る。少女はそれに軽く手を挙げて答えてから、険しい口調で続けた。


「今、あなたの部下が聞き捨てならないことを言いました」


 切り立った高峰におりた雪が、白さという白さをそっくり流れる雲に返してしまったような灰水晶の髪。金の瞳はきろりと開かれ、普段は子猫のように愛らしくとがっているであろう唇も今は平たくへの字に結ばれている。

 お言葉ですが、とサトラン神父が言った。


「ラピス様は異教徒とよしみを通じなさるおつもりで?」

「異教徒とではなく、町を頼った旅人とです、神父。窮者には施すべしと教書にもありました。教え導く立場であるあなた方が彼らに投げるのは、心ない言葉だけですか?」


 立場を弁え言葉を選ぶようにという牽制を、即座にかわして言い返す少女。あちこちがふわりと膨らんだ少女のドレスは成長すら視野に入れた一級品であろうが、それが今にもはじけそうな蝶のサナギのようにセレジェイの目には映った。

 サトランはそれ以上何も言わず、かしこまった様子でセレジェイへと体を向ける。そして深く頭を下げた。


「すまなかった」


 一瞬面食らったセレジェイはしかし、ふっと笑って肩をすくめる。


「俺は何も言われていませんよ」


 サトランは渋い顔になる。ふうっと大きく息を吐いて、それからセレジェイ以外の四人の顔を順繰りに見てからもう一度。


「ご婦人方、先の不躾な言葉をどうか許されたし。この通りお詫び申し上げる」


 片膝を砂埃の積もる地面へつき頭を垂れる。後ろの二人がぎょっとして、すぐさまそれに倣った。


「あら」

「わ、え、えっと……?」

「そ、そ、そ、そん、そんなっ」


 予想外のことに慌て引き気味になるエマ、カフィ、モニカ。相対的に押し出される格好となったマーガレッタが仕方ない、という調子で応じた。


「……許します。神は礼を尽くす者には寛容といいますわ」


 それでも憤懣やるかたない、と言わんばかりのマーガレッタに、ラピスと呼ばれた少女が歩み寄る。彼女は下から両手でマーガレッタの手をとった。


「私はラピス=ルヴィニ=エスカ=シャーリク。この町を治める領主の娘です。あなたがたを賓客として迎えます。どうかこの場は怒りをおさめてください」


 兎がぴんと耳を立てたような表情のマーガレッタは、弱々しく握られた手をさまよわせた後、それが返事をするまで離されないことを悟ったらしかった。


「で、ですから、もう気にしてなどおりません!」

「踊りを見ました。皆さん素敵な方ばかりで! 屋敷はすぐそこです、ご案内しますね!」


 キラキラした目で見回して、噴水の向こうに見える赤い館へ踏み出したラピスへ、セレジェイが慌てて待ったをかけた。


「いえ、我々は森のケガレを身に帯びるもの。同業以外とは深く関わらないのが慣わしです。それには及びません」

「あら、聞いた話では馬屋までなら大丈夫だと。お屋敷は厩舎も広くて綺麗ですわ」


 見返った金の瞳にセレジェイは二の句が継げなかった。

 初めて森の祭儀官に寝食を施した町長まちおさが、その馬車を自らの馬屋へ迎え入れた伝承から馬屋と馬草を供することは踊り一座への最上のもてなしとされる。

 だが大方は町の片隅か行商人用の停車場、町の外へ案内されることすらある。当たり前だが領主の屋敷など前代未聞だ。

 それと、とラピスが続けた。


「見たところあなたが座長さんのようですけれど」

「あ、ああ、そうですが」


 肯定を受けてラピスは嬉しそうに唇を曲げた。


「皆さんのことをとても大切に思われているのですね」

「……?」


 セレジェイには何を指してそう言われたのかわからない。


「あなたが袖に隠した拳を握らなければ、私はこっそり見ているだけで終わっていました。こうして皆さんとお知り合いになれたことに感謝を」


 そこまで聞いてやっと思い当たる。サトランの従者の一人がこぼした言葉を聞いたあの一瞬、怒りに自分を失ったことを。

 ラピスの一声がなければセレジェイ達は町にいられなくなっていたかもしれない。否、最悪――


「ああ、いや、見苦しいところを……」


 セレジェイはすぐにでも頭を掻きたい気分だった。

 自分は座頭だ。踊り子たちが飢えぬよう、生きていけるよう立ち回るのが仕事だ。

 ラピスは首を振った。


「賢い獅子ですら、子を傷つけられれば理知を捨てて猛るもの。それは見苦しさではなく、愛です」


 愛、という言葉がセレジェイの胃をもうわずかに重くした。まるで腐汁の滴る果実がひとつ入っていて、言葉がその表面をそっと押したように。


「でも、それはそれとしてあなたには一つだけ文句を言いたいのです。朝から広場で人を集めていたせいで、伝書屋さんが集荷もそこそこに行ってしまいました。おかげで兄への手紙を出しそびれてしまって」


 まったく預かり知らぬことではあったが、それを顔に出すほど愚かではない。セレジェイは気持ちを切り替えるとできるだけすまなさそうな顔を作った。


「それは、申し訳ないことを……」

「ええ、だから代わりにあなたが話を聞かせてくださいませんか? お屋敷は広くて綺麗ですが、退屈ですから」


 好奇心を隠しきれないその表情に、セレジェイはふっと力みが消えるのを感じた。そっと膝を折り、目線をあわせる。


「わかりました、仰せのままに。しかし片付けもしなければいけません。馬車も離れて停めてありますので、すぐというわけには……」

「ああそうですね私ったら。でもどうしましょう。取り急ぎその、祝儀と言うのでしょうか、素晴らしい踊りへの返礼をしたいのですが、お渡しできるようなものがありません」


 言わなければ誰も咎めはしないだろうにとセレジェイは微笑みそうになったが堪える。


「……そうですね、では神のお引き合わせに感謝して聖手教舎へ伺いたいのですが、場所を教えていただけますか?」


 信仰のばらつきがある町ならば気にすることもないが、この町で仕事をしようとするなら聖手教に筋を通しておくに越したことはなさそうだ。なにせ全ての労働は神の御腕の内にあるべしと言う連中だ。

 目の前で姫が道を教えたとなれば、神父も邪険にはできないだろう。

 そのような思惑で言ってみたのだが、反してラピスの表情は素晴らしいプレゼントを前にした子供のようにパッと輝いていた。


「教導舎ですね、あそこも夜は素敵な場所です! 分かりました、ご案内します!」

「は? い、いえ、道を教えていただくだけで」


 セレジェイが取りなそうとするも、ラピスは興奮した様子で首を振る。


「そんな勿体な……いえ、それでは私の気が済みません! さあ、片付けなら私も手伝いますから!」


 呆気にとられるセレジェイをそのままに、控え幕のほうへと駆けていく。

 聖手教舎など、そう子供が行きたがるような場所だったかと首をひねりながら、セレジェイは慌ててあとを追った。


                  ◇

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