第6話『教導舎の宴』
何とかラピスの好意を固辞しつつ片付けを済ませ、町の東寄りにあるその建物に着いたのは太陽が茜色の髪を山向こうにすっかりとしまい終わった頃だった。
「お一人様1ルナードです。飲み物は一杯無料、ただし料理を頼んでください」
「ぜんぶお父様にツケておいてくださいな」
ぎょっと顔を上げた教導官――少なくとも格好は確かに――の脇をすり抜けていくラピスに連れられて石造りの入り口をくぐったセレジェイは、驚きにぽかんと口を開けた。
柔らかなランプの灯りが、水拭きされて間もないであろう艶めいた木のフロアとU字カウンターを照らしている。本来なら内側に斡旋業務を担う教導官が入り、それに向き合う形で仕事を求める人の為の椅子が置かれるはずのそこは、今は多くの食事客で賑わっていた。内側には酒ボトルの棚が壁のように立ち並び、その傍でこれまた格好だけは法衣を着た男女がグラスを磨いたり料理を運んだりしている。
「あ、れ、ここって日雇いの斡旋所だよな?」
一歩入ったカフィがぱちくりと辺りを見回す。
「ちょっと! 急に立ち止まらないでちょうだ……あら……」
つんのめるようにその肩へ手をついたマーガレッタも、建物の内外のギャップに戸惑ったようだった。
「最近の聖手教は酒場の経営までするのか?」
ホールの最奥に設えられた小さなステージの方を見ながらセレジェイが訊ねると、ラピスはくすくすと笑った。
「ここは特別みたいです。たまに外から関係の方がいらっしゃると、そのたびに目をむいたり、しかめっ面をしたり。面白いですよ」
労働と生産を美徳とする聖手教信者のなかには、酒場やそれに付随する芸能、賭博場などの施設を毛嫌いする者も多い。
あいていた丸テーブルに皆で座り、ビールと林檎のシードルを注文する。
運ばれてきたグラスの一杯目を、来た端から各々急角度で傾けた。
「っき、っはあッ! 沁みるぅ~」
カフィが野卑な歓声とともにグラスの底でテーブルを叩くのを、ラピスが目をまん丸にして見つめている。
「ぷぅ、今日はいっぱい汗かいたものね」
セレジェイの隣でビールから口を離したエマがほっとしたように息を吐いた。カフィもせめてこれくらいの慎みは持ってほしいと思う。暑いさなかに踊る過酷さは分かるものの、だ。
モニカが半分ほど飲んだグラスの表面を指でなぞりながら首を傾げた。
「これ、どうやって冷やしてるんでしょう。井戸水につけたってこんなに冷えませんよね?」
「きっと水冷機でしょう」
「水冷機?」
なかなか来ないシードルに業を煮やしつつあるマーガレッタが少しだけ早口で答え、それにさらにモニカが問いを重ねる。マーガレッタに脈絡なく睨まれて、セレジェイはため息混じりに説明した。
「水浴びをしたあと風にあたると、水に浸かっていたときよりも寒く感じるだろう。濡れたものが乾くとき、そこに冷気が溜まる。風妖精と水妖精の力を使って同じ現象を起こす機械がガウェン聖手国で発明されたと、何年か前に聞いた」
聞いただけでセレジェイにも形など詳しいことは分からない。
「なるほどぉ、やっぱり聖手国の技術って進んでるんですねえ」
モニカが感心したように傾けたビールへ上唇をひたした。
料理は鳥のソテーがお勧めだというのでそれを中心にいくつか頼む。
「すごくいい香りがするんですよ。でも次の日の朝まで服から匂いがとれなくて、すぐここへきたのがバレてしまうんです」
楽しそうに話すラピスは、すっかり打ち解けた様子だ。片付けを手伝おうとするのを抑えるのに、物怖じしないカフィをつけたのは正解だったかもしれない。
「ねえ、ラピスの名前って長いよね。なんだっけ? やっぱりお姫様だから?」
バゲットにかじりついたまま喋る行儀の悪さを窘めたかったが、カフィはちょうどセレジェイの対面だ。ラピスが頷く。
「はい。ルヴィニは赤の国、エスカは鱗という意味で、領主に与えられる位では一番小さなものです。本当は父の物なので、私が名乗ったのはナイショにしてくださいね」
可愛らしく手を合わせる様子は年相応だ。じっと見つめていると真横からくるぶしを蹴りつけられた。
「その不埒な目をやめなさい。他国の公女に手をつければあなた一人の恥では済みませんのよ」
釘をさすようにマーガレッタが言う。
「お前、俺を
頭数が増えるほどいい人買いと違って、踊り一座には規模に見合った人数がある。大所帯になれば道具も増え演目も変わるし、食い扶持の稼ぎ方から見直さねばならない。
「踊りは全員の合算じゃなく平均だ。心底から美しいと思えるものを持ってないなら数が増えても意味はない」
ふうん、とマーガレッタは満更でもなさそうに鼻を高くした。
「ああ、お前は例外だぞ。カルムが本気で困ってたから引き取っただけだ。勘違いするな」
ガン!と椅子の足が蹴飛ばされる。今度は避けた。
「このっ、あなたが行方を眩ましてからどれだけ私くしが苦労をしたと……というかあの贅沢者、こんな完璧な淑女を妻にしておいてぜんたい何の不満があったというの!?」
そういうところだろ、と突き刺さる嚇怒の念をかざした手で遮る。
カルムというのはセレジェイとマーガレッタ共通の幼なじみだ。歳は二人より五つ下。覚えている限りで一番古い思い出が、初めての行事参加のために整えてきた髪をマーガレッタにボサボサにされて泣いている光景というセレジェイにしてみれば同情甚だしい相手だ。
八年ぶりに合った瞬間の、あの泣き笑いのような表情をセレジェイはしばらく忘れないだろう。
「無理な結婚なんてしなくても、後見なら父上がいただろう」
口にしてから自分でもこれはないと思った。案の定、人を刺せそうな鋭さで睨まれる。
「あの男の世話になるくらいなら適当な男に嫁いだ方がいくらかましよ!」
「悪かった。けど、適当ななんて言うなよ。カルムが可哀想だ」
ぐ、とマーガレッタが言葉に詰まった。シードルをちびりとなめると、言い訳のようにつぶやく。
「あの子ったら、私くしのことを怖いと言うんです。こちらは精一杯優しくしているつもりなのに……二人きりになるのも嫌がって……」
幼少期に刻まれた恐怖はそう拭えるものでもない。日常的にその暴虐にさらされていたセレジェイは対処法を身につけたが、年下でさらにたまに会う程度だったカルムにそれを求めるのは酷だ。さらに降嫁した姫となれば、カルムの家としても扱うに難しい。
「……まあ、十歳を過ぎたばかりで結婚と言われても実際困るだろう」
古びた家の宿命とはいえだ。セレジェイは努めて言葉を選んだ。
「前から聞きたかったんですけど、マーギーとセレジェイさんって、もしかしてすごい身分……?」
マーガレッタの向こうに座ったモニカが控えめに窺いつつ聞いた。問われたマーガレッタはちらりとセレジェイを見やる。
「え、そうなんですかっ?」
ラピスまでが興味の目を向けてくる。セレジェイはぞんざいに首を振った。
「そう大したものじゃない。それに俺はずいぶん前に絶縁してる。むこうは俺のことを死んだと思ってるだろうさ」
はあ、なるほど、とモニカは早々に乗り出していた体を椅子へ戻した。さすがに弁えている。ただラピスだけはそれ以上聞いていいのか悪いのか、計りかねているようだった。
「いよう、踊り子の嬢ちゃんたち!」
酔った男が一人、ふらりとセレジェイたちのテーブルへ近づいてきた。
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