第15話『物忌み』
§
人肌の温度にふれるとき、最初に思い起こされる記憶がある。
自分は抱き、抱かれることが好きな子供だった。
一座の娘。母は知れども父は知れず、生まれながらに片手落ちな不安定さがそうさせたのかも知れない。血の繋がらない姉たちには場を弁えずに甘えては叱られたものだし、一座が新たな娘を迎えれば姉さん風を吹かせては大いに撫で回して可愛がった。
大体の者はそれを拒まなかった。人は誰しもどうしようもなく人恋しくなる時があって、その渇きを癒すには肌を合わせることが一番だと本能的に知っている。そこにさらに一抹のスパイスというかおまけというか、そういった行為を加えるかどうかは人それぞれで、自分にとってそれはさしたる違いでもなかった。
だから、明確な拒絶を受けたのはあの時が最初。
――俺に触れるな、異教徒が。
こっちからお断りだと思った。今考えれば完全に逆ギレなのだがともかく。
新しく来た彼を座の長が王子様だと冗談めかして言うのを誰も信じていなかったし、自分もそう思っていた。端々に育ちのよさは感じるが、富貴な家の子供がどうしてあんな死んだ目をするものか、と。
ある時、母を亡くした。
背中にあった妖精症が後ろ髪の生え際まで広がったのを端緒に、急に体調を崩したあとすぐのことだった。
血の繋がりがある自分は、母のいる馬車にすら入ることを許されなかった。淡々と事実を告げられ、一人ぼんやりと佇んでいた。
不意に、抱きすくめられた。振り返ると、太い肩に頭を押さえつけられて視界を塞がれた。
「……どう、して」
今更こんな時にこんなことをするのかと聞こうとして、喉がひきつって声がでないのに気付いた。
「寂しそうだった」
少しだけ背が高くなっていた彼の言葉は、ひどい屈辱感をもたらした。自分は彼に顔を見られないよう強く額を押しつけた。
「……寂しくなんて、ない!」
突っぱねてから同じか、と悟った。初めに会った時の彼と。人は自認しがたいほどに打ちのめされる時があるのだと初めて知った。
「っ……いつか、仕返し、するから」
ひとしきり声を殺して泣いたあと、本気で心外そうな顔をする彼を睨みつけて言った。
「あなたが本当に辛くて悲しいときに、最低に空気の読めないこと言って、泣かせてやるんだ、から」
少なくともその時は本気で腹を立てていた。それまでの何処かへ消えてしまいそうな、死んでしまいそうな喪失感がほんの少し薄れる程度には。
そして忘れもしない妖精祭の夜、彼は突然倒れた。
あらゆる妖精が活性化するその日は踊り子ならば多少ナーバスになるものだが、彼のそれは度を超していた。自分が師の馬車へ呼ばれたときには、彼は歯を食いしばり寝台の端を握りしめて苦痛に耐えていた。妖精症の拡大を抑えるためのピアスを開けられ、合わせ鉄への拒絶で赤黒く腫れ上がった顔で。
――エマ、ついてやっとくれ。本当なら親兄弟以外でよく知ってる人間がやるもんだけど、この子はねえ。
その時初めて、彼が頑なに右目を隠していた理由を知った。その瞳と周辺は妖精にのまれていた。
――間違っても、引き受けようなんて思っちゃぁいけないよ。何で死んでないか分からんようなケガレだから。心中したいってぇなら別だけどねえ。
そう釘を刺して師は出ていき、残された自分は仰向けに寝かされた彼をのぞき込むくらいしか出来なかった。
「……一人で構わない」
苦痛に顔をしかめながら、嫌そうに彼は言った。
「死んじゃうよ? そのままだと」
その表情が腹立たしくて、思わず反駁した。
ケガレは受けてすぐ、広がってすぐならば抜くことが出来る。正確には、混ざって変わってしまった部分を強く思い直すことで修復する。しかしそれは一人では叶わない。直すには、本人以上にその者をよく知る他人が最低一人は必要になる。
「別に……」
彼は顔を背けると目を閉じた。気付けば私は上着の留め具に指を掛けていた。
「お、いっ、何を……っ! 触るな!」
寝台が軋み沈み込む音で彼も異変を察したようだった。覆い被さった私を残った右目で健気に睨んでくる。それが無性にいじらしく、笑みを抑えきれない。
「触ってませんー、ほらほら、大丈夫大丈夫―」
「子供か! いいからどいてくれ、俺に構うな!」
どっちの態度が子供だと言いたいのを、四肢の力を抜くことで代わりにした。
「私、いつかあなたに泣かされたわ。だから私も今、あなたが嫌がることをしても許されます。はい、簡単」
私は根に持つタイプだった。
「大丈夫、良くなるわ。私、わりとあなたのこと見てるもの。嫌いだから」
「…………」
大きく脱力した気配が伝わってきた。あるいは気を失ったのかもしれない。
それを機に、私は集中する。身体の境界が意識から消えてしまうほど彼に寄り添い、ひたすらにこれまで見てきた彼を想う。
それしか出来ることはなかった。なかったから、それが少しでも実を結ぶよう強く腕をかき寄せた。
私はそのとき初めて、自分以外を癒すために肌を合わせた。
§
気付けと妖精除けの香を焚き篭めた馬車の中で、セレジェイは寝息とは違った気配を首元に感じる。瞼を上げると、まだ開ききっていない緑色の瞳がそこにあった。
「……ああ、起きたか」
ゴン、と鎖骨に衝撃。ぶつけられたのは広く平坦な額。
「もう、セレってば昔と全然変わらないのよ?」
寝ぼけ眼で意味の分からない同意を求められる。今朝は昔の方が良いとかさんざん言われた気がするが。そこに何故か非難めいたものを感じて、セレジェイは思わず問い返した。
「お前は何か変わったのか?」
ふすっと鼻息がふかされる。
「変わりましたぁー、髪の毛とかぁ、おっぱいとかー……あと、セレはどこが好きなんだっけ?」
まだ意識が回復しきっていないのだろう、そう断じて黙殺する。
「俺だって髭なら伸びてる」
「だからー、そういうとこを言ってるのー」
ごんがんごん、前後する頭を押し留める。山場を越えたとはいえまだケガレが抜けていない。
「……今、何日目?」
締め切られた幌の切り抜き窓へ目をやってエマが問う。
「まだその日の夜中だ。何があったか覚えているか?」
んー、と彼女は睫にかかった髪をかきあげた。窮屈な中でさらに腕一本分ひしゃげた双丘が悩ましくつぶれる。
「たぶん大丈夫……ラピスちゃんは?」
「無事だ。お前のことを心配して、さっきまでここにいた」
終始悲痛な面持ちで涙ぐんでいたので、問い詰める気が失せてしまった。
「そう、良かった」
エマは微笑む。相対してセレジェイの眉間には皺が寄った。
「……喪心の香で朦朧としている間のことだ。責任は俺にあるが――」
「覚えているわ」
押し出されるように溢れた苦言を、エマの言葉が遮っていた。
「演奏は止まっていたわ。だからちゃんと叱って」
すがるような手が首へ回される。その訴えに、セレジェイはますます怒りがしぼみ自責の念がつのるのを感じた。
「……今回のことは俺のミスだ。思いがけないことが起こる可能性を考えず、準備を怠った。無関係でしかも重大な身分の人間を入念に遠ざけなかった」
まったく迂闊と言うほかない。ラピスに先に帰れと言わなかったのは無意味な感傷だ。老人を心配しながらも佇むほかないその横顔に、誰かの面影を重ねていた。
「すまなかった。ラピスが無事だったのはお前がいたからだ。その上で言うが、もう少し自分を大事にしてくれ。お前に何かあれば、一座そのものが、っぐ!?」
そこまで言った時、きゅっと回された細い指がセレジェイの首を掴んでいた。
「セレー、叱ってとは言ったけど、建前をきかせてとは言ってないわ。ほら、怒ってるならちゃんと言おう? ねぇ、私に何かあればなに?」
嫌な汗が背中を伝った。妖精症の影響か、どうも精神が退行しているフシがある。かつてその爪牙に掛かった少女たちをして「野良猫の尾を踏んだようなもの」と言わしめた気まぐれかつ奔放な彼女に。
「わ、かったから動脈を塞ぐのをやめろ……!」
白い手首を掴んで抵抗すると、エマはくすくすと笑って手を離した。全く笑っていない二つの目がそれで?とばかりに次の言葉を催促する。
「……もう八年だ、お前と会って」
エマはぱちくりとして繰り返した。
「八、年?」
蠱惑的だった表情がきょとんとしたものに変わる。それは最近よく見るようになった顔だった。
「もしお前に何かあった時、自分がどうなるかなんて考えたくもない。考えさせないでくれ、頼むから」
「……んー」
威力のない頭突きが首元へあたって止まる。さらりと流れた髪がくすぐったい。しばらくそうしてからエマはぽつりと言った。
「……ペケぎりぎりの三角?」
座りの悪い評価だった。まあこの程度だろうという採点側の諦観が感じられる。
「これくらいで許してあげる」
そもそも自分が叱る側ではなかったかと自問したとき、二人の間にわずかにあった隙間がきつく埋められた。
「……ごめんなさい、セレ。もうしないわ。とても、怖かったもの」
ゆっくりと現実の感覚が戻ってきているのだろう。不安に震えるその声を聞いた時、セレジェイは自然と動いていた。
「もう大丈夫だ」
エマの肩に手を回し、痛みを感じさせるほどの強さで抱き締める。
「山は越えた。あとはケガレを抜けばいい」
二度と恐ろしい幻へ戻ることのないように。この腕がこぼすことのないように。
「……直るかしら?」
あえてだろう。何でもないことのようにエマは訊く。
「直す。お前の美しさに痕一つでも残れば大陸中の損失だ。そんなことはさせん」
吹き出された吐息が首筋をかすめた。
「ふふ、なら、引き続きお願いしないとね。ところでねえセレ、どうしてあなただけ着けているの?」
下着のことだろう。ちなみにエマは何も着けていない。
「……仕方ないだろう。肩から足まで広がってたんだ。着せたままじゃ処置が出来なかった」
「私が裸の理由じゃなくて、セレが着てる理由」
そんなもの当たり前だと反論しようとして、からかわれていると気付いた。
「お前な……この状況じゃ大して変わらないだろう」
少なくとも着ていることで何か隠せているとは思えない。エマはそうね、と可笑しそうに相づちを打った。
「でも、不公平でしょう? 私だって恥ずかしいのよ?」
ならもう少しそれらしくしていろとセレジェイが返そうとした時だった。
「ごっほ! けほっ! ぅえっほっ!」
薄暗闇の向こうからわざとらしい咳が差し込まれる。あら、とそこで初めてエマは毛布の中以外のことを意識したようだった。
さして動じた様子もないさばけた少女の声が、呆れたように響く。
「セレジェイ、マーギーが枕を噛み始めた。鬱陶しいしその辺で勘弁してやれよ」
「ふぅっふぉふふぃいっふぇはんへふほ!」
さらに向こうからもくぐもった声。布団をかぶっているのかよく聞き取れないが機嫌良くないことは確かだった。
「あら、いやだわ、恥ずかしい。みんないるの?」
エマの頭がひとつぶん下へズレる。毛布に潜りたかったのだろうが密着した状態でやられるとセレジェイとて平静を保つのが辛かった。無理に渋面を作って答える。
「モニカは俺と交代で御者台だ。というかお前たち、寝てなかったのか」
カフィがあくび混じりに返す。
「あたしは寝てたよ。マーギーはサカッて眠れなかったみたいだけど」
「ぷはっ、げほっ、だ、誰が! 酷い臭いのせいで寝付けなかっただけですわ!」
ふすふすとカフィが鼻を鳴らした。
「そう? 言うほど臭わないと思うけど」
「私くしは繊細なんです!」
二人が騒ぐのを聞いたのか、御者台からモニカが顔だけを出して目を瞬かせた。
「皆さん起きてたんですか? あ、エマさん気がつかれたんですね、良かったぁ。……あの、セレジェイさん、僕の顔、どこか変ですか?」
「いや、真っ当な反応に感心しただけだ」
もとより未だふざけていられるほど余裕のある状況ではない。エマの背中には面積の半分ほどのケガレが残っている。
ぱらぱらと、厩舎の木戸をたたく音がした。
「あれ、雨ですかね」
モニカがいったん頭を引っ込め、外を窺う。
「雨期に入ったのかもしれないな。俺は朝まで処置を続けるからお前たちはもう寝ろ」
小鳥でも追い散らすようにセレジェイが掲げた手をぶらつかせると、カフィは気のない返事をして、マーガレッタはぶつぶつと言いながら毛布をかぶりなおした。
おやすみなさい、と再度モニカが断って幕を閉める。しとしとと滴の落ちる音だけが周囲に満ちた。
「……ねぇ、セレ」
複数の寝息が聞こえはじめたころ、エマが背中へ回した手をしがみつくように握る。再び集中と瞑想の境へ入ろうとしていたセレジェイは、片方だけ目を開けて応えた。
「……何だ」
「昨日、噴水で踊った後、私が怖かったって言ったの、覚えてる?」
セレジェイは頷いた。踊りを終えて身体を預けながら、混ざり方が深かったと身を震わせた彼女。
エマはかすかに顔をしかめて、思い返すように視線を落とした。
「さっき目が覚める前も、同じだったの。なにか遠い、水の向こうからずっと見られ続けているみたいな感覚」
意外な報せにセレジェイは彼女を見返す。
水妖精と、正体不明の泥蛞蝓。二つは外見からして全く異なるものだ。エマはそこに共通する何かを感じたという。
「二つが間違いなく同じだと言い切れるか?」
問いに、少し目を閉じた後エマははっきりと肯定を返した。場数を踏んだエマの確信であればおそらく正しい。
「ざわざわするの。地震や、火事が起きる前みたいな。妖精たちが、騒いでる」
それは不吉な予感だった。暗く彩るように、消え際に人の言葉で呪詛を紡いだ泥蛞蝓の口が思い出される。
だが少なくとも今は、目の前の不安をなんとかするほうが重要だとセレジェイは思った。枕元に置いた香炉の蓋を開けて、涌いた煙を一吸いする。
「少なくとも、今夜いっぱいは俺が起きてるから心配するな。それとも、お前も付き合うか?」
後ろ髪を梳きながらそう言って炉を差し出すと、エマはセレジェイの顔と見比べてからその煙を吸い込んだ。
「ふ、はぁ……そうするわ、私の背中のほくろの場所とか、セレは覚えてないでしょう?」
「覚えてるぞ。ここと、ここだ」
くい気味にトン、トンとエマの背中を指がすべる。エマはびっくりしたようにセレジェイを見て、それからふにゃりと笑った。
「……私、あなたの物みたい」
◇
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