第14話『狂宴』

 鞄から引き出したのは、肘から先ほどもある筒状の袋。

 鳴壷マラヴィスという特有の楽器で、厚手の麻袋に通した竹製の骨を膨らませると、文字通り取っ手付きの壷のようになる。口部は張られた水牛の皮で閉じられ、中には乾燥した木の実がいくつも入っている。

 ゆっくりとそれを掲げ、傾けていく。ザアァ……と海鳴りの音がした。


「……っ……」


 ふらりと誘われたようにエマが立ち上がる。

 セレジェイは壷を傾け続けながら、一方の掌で鼓状の口部を打った。響きという点では大鼓小鼓ほんしょくに劣るがそのぶん音の角が取れている。

 ゆったりとした先触れのような律動に何気なくエマが腕を上げた。

 瞬間、セレジェイが一際強く鼓を打つ。忘我の中にあるエマにはまるで、自分の腕が虚空を打ったかに思えるタイミング。

 確かめるように、彼女はもう一方の手を脇へと流した。同時、セレジェイが壷の底を掌でこするシャッという音。

 続けて三度、四度と同様の行為が繰り返される。至って、酩酊よりなお深いエマの世界は不可思議な音曲の坩堝と化した。

 手をかざせば風が鳴き、腕を振るえば波が疾る。地を踏めば無数の砂利たちが飛び跳ね、首を回せば炎のはぜる音がした。


 それはまるで『妖精の輪』の世界。自然が隆起し、本来全く性質を異にするはずのものが一つの旋律を創り出す。この演奏の目的は、踊り子をその中核的存在へと落とし込むことにある。彼女自身が妖精を引き寄せる力場となる。

 無論容易なことではない。喪心した人間の精神が映すのは、自身の原風景に強い感情や願望が混ざり込んだ混沌。そんな領域を少しでも意図して変えられることは才能だし、さらに妖精との交感まで安定して行おうとすれば長い訓練が必要になる。ゆえに。


「ほ……」


 ルフ老人の感嘆の声。

 エマにはそれが出来る。踊り一座の子として育ち、妖精と共にあることが人の生だと信じて疑わない彼女ならば。

 彼女の一挙手一投足を目で追い、それに応じて即座に音を出すセレジェイの紡ぐ音律が、徐々に安定していく。


 直後だった。エマの体がふぅっと薄らぐ。暗色の一枚着サーフはもとより薄闇に溶けて見えず、その向こうの白い肌だけがぼんやりと見えていたのが、透明になったように色を失う。まるで周囲の自然へ溶け込んだかのように。


 異変はそれだけではない。家のあちこちでするはずのない音がし、おかしなものが見え始める。パチシと爆ぜたのは、すっかり火の落ちたかまどの真っ白な灰。

 熾き火のようなオレンジ色の光が一粒、ふわりと舞い上がる。火の粉はまるで意思があるようにエマの周囲を旋回し、顔の前あたりで静止した。

 火蛍と呼ばれる焚き火の精。物言わず鼻先に追従する光の粒に、エマは無意識で唇を寄せた。

 瞬間、透明な彼女の内側を唇から後ろ髪まで火の赤色が染めあげる。しかしすぐに色は抜け、長い髪の中から先の火蛍が心なしか勢いを増して飛び出していく。

 ビィィッと布が裂ける音。洗濯カゴの影であさっての方角を向いているのは、ぼろの給仕服を着た小さな人影。ただしその頭は白い毛長猫であり、足には鳥のような鉤爪がついている。ほうき鳥キキーモラの変種だろうが、猫が混ざっているのを見るのはセレジェイも初めてだった。

 猫給仕はすまし顔で踊るエマへ近づくと、猫の爪で揺らめく一枚着を引き裂こうとする。が、それより先に目前の床をタップで通り過ぎたエマの足先にすっかり興味を移してしまったようだった。


「くす、ふ、あはは……っ」


 くるくると楽しげに回るエマと、そのつま先を本物の猫のように四つ足で追いかけ回す猫給仕。そこへ今度は客席であるルフ老人の背後から、ドスンと大人が尻餅でもついたような大きな音がした。

 背の高さは手のひらほど。高い鼻にぎょろりと大きな目、皺だらけの顔に分厚い歯をした作業着姿の小人だった。老人の作業机の中からまろび落ちた彼は、腰に提げた金物ペンチやヤスリをガチャガチャと鳴らしながらエマに向かって一目散に駆けていく。その音がいちいち、大の男がいるかのようにうるさいのだった。

 小人はドスドスと足踏みしながらエマを見上げるも、くるくると走り回る猫給仕のせいで近付くことが出来ない。鼻を真っ赤にしてじれたように床を踏むと、天井からパラパラと埃が落ちた。

 その時、鬼ごっこを続けていたエマがひょいと屈みこむと、小人の肩を人差し指でくるりと回す。またすぐに猫給仕から逃げるエマの隣で、小人がそれを真似るようによたよたと回る。時折エマがしゃがんでは肩を押してやるのだが、そのたびに小人はエマの指に掴まろうとした。

 ほかにも、窓からは植え込みの木霊こだまが、水瓶からは玉水虫ミルプットが現れ、戸棚からは餅ねずみが桜色のふくふくとした体を投げ出した。

 彼らは皆ここの住人だが、普段は姿を隠している。揃って姿を見せるのは年に一度の妖精祭の夜くらいだろう。

 徐々に数を増していく不可思議な同居人たちはしかし、周囲にいるセレジェイやルフ老人には見向きもしない。

 猫給仕がついにエマのつま先を捉え、白色の影がふくらはぎや太股を周回するように駆け上っていく。くすぐったそうに身を屈めたエマの指先へ、待ちかねたように小人が飛びついた。

 それを機に、集まっていた妖精たちが我先にとエマに群がる。透き通ったエマの内側に様々な色が殺到し、さながら水彩の絵の具板を丸ごと水に沈めたかのごとき様相となる。

 今まさに彼らは交わっていた。エマという《場》を介して。


「む、ぐうっ、む……!」


 ルフ老人が右足を押さえて苦悶の声を上げる。奔放さを増すエマの踊りに忙しく演奏を合わせながらセレジェイが声をかけた。


「気持ちが悪いでしょうが手を放してください。出ていこうとするものを引き留めてはいけない」

「むう、分、かった……!」


 老人が震える膝から手を外すと、その下からのたくる背中が現れる。泥蛞蝓はすねの方へと徐々に這い出すと、やがてべちゃりと音を立てて床へと落ちた。

 粘性の体は伸縮を繰り返して進むかと思いきや、蛇のように左右へ体を蛇行させて驚くべき速さで動く。ぼってりとした印象だった体は徐々に細く長く伸び、速度はさらに増した。唯一太さの変わらない頭は時を待たずしてエマが踊る部屋の中央まで進み、


「……なんっ、だ!?」


素通りした。細長い体が向かう先は、玄関。


「セレジェイさん? どうかしましたかっ?」

「――っ来るなあ!」


 暗幕の向こうで聞こえたラピスの声に、外聞もなくセレジェイは叫んだ。

――おかしい、何故だ。どうしてこれだけお膳立てを整えた状況でまったく蚊帳の外にあるラピスが狙われる――!?


「ぇ、えっ……!?」


 しかしラピスは硬直した。人並みの目しか持たない者であったなら、セレジェイの言葉に即座に従えたかもしれない。踊りによって活性した妖精でも、大半の人の目にはおぼろ気にしか映らない。だがラピスははっきりと、玄関から這いだした異形を見てしまっていた。それが這ったあとに残る赤黒い粘液の筋も、子供が出鱈目に切り抜いたような歪な星形の口からのぞく無数の鋸歯のこぎりばも。


「……ぁ、らぴ、す、ちゃ……」


 セレジェイは異変が起きてすぐ鳴壷を打つ手を止めていた。それは踊り子にとって踊りの終了、トランス状態からの回帰を意味する。ふらりと傾ぐエマの身体。


「だ、め……!」


 体の大半を妖精の色で染められたままの不安定な状態でエマは、裸足の指を握り込むと体勢を立て直す。そのまま倒れ込むように玄関へ歩み寄ると、出ていこうとする泥蛞蝓の尾を掴もうとする。


「待て、エマ……!」


 楽器を放り捨て、セレジェイが片膝を立てる。が、既に遅かった。

 蛞蝓は倒れ込んだエマの手首から全身を舐めるように這い、足裏からくるぶしへ、さらに締めあげるように太股から下腹へと這い上がる。

狭い谷間の終端にある尾骨から反った背中の中心までを、もはや流体に近くなったそれはびゅるりと痙攣するように跳ね飛んだ。


「ぃき……っア!」


 エマの体がびくりと震え、体中から様々な色の光が飛び出していく。妖精たちに先のようなはっきりした形はなく、まるで追い立てられたよう。

 代わりに背中から体中を染めていくのは、土砂水の濁流。

 これまでエマが妖精たちと接して平気だったのは、《場》としての役割に徹していたからだ。交わろうとする妖精をあしらい、水や空気と同じように振る舞っていたからだ。その極限まで澄んだ精神状態は、踊りの終演と共に失われている。

 セレジェイが駆け寄ったとき、その白磁の肌は土気色に生気を失い、四肢はぐったりと投げ出されていた。


「エマ、大丈夫か、エマ!」


 うつぶせの肩を叩いて反応を確認しながら、全身を確認する。背中一面、上は首の付け根までがルフ老人と同じように角質化していた。


 ――背骨か心臓か、どちらにせよ食いつかれた場所が悪すぎる。


 意図して妖精症を身に宿す場合、出来るだけ体の末端部分に受けるのが鉄則だ。体の中心線に近づくほど肉体に出る影響が激化する。


「姫様!」


 暗幕を跳ね上げて外へ出る。日の光になじむ視界へ、腰を抜かしたように座り込むラピスが浮かび上がった。


「おい、どうしてだ。何故エマでなくあんたが狙われた!? 心当たりがあるだろう無いわけがあるか!」


 呆然としていたラピスを引き起こし、両肩を掴んで揺さぶる。彼女はようやく目の焦点を合わせると、何度かぱくぱくと口を空開きさせてから言った。


「い、え……っ、わた、わたし、何がなんだか……!?」


 血の気が引き、未だ恐慌の最中にあるらしいその顔を見て、セレジェイは掴んだ手を離す。わずかに頭が冷えたが、自分とて同じかもっと酷く混乱しているのは明らかだった。


「おいっ、どうした、何がどうなっとる!?」


 立ち上がった老人が、杖を頼りにやってくる。

 その腰に提げられた採寸用の縄束にセレジェイは目を留めた。


「その紐をお借りできますか。すぐに彼女を連れて帰らなければなりません」


 抱えることくらいわけはないが、弱った体には負担となるだろう。背負う方がいい。

 上半身を固定するため、エマの腋下から肩へと紐をかけていく。体を起こさせるため、背中を腕で支えた時だった。


 ――衰滅セ ヨ、 シャーリク ノ 血  !


「っ!?」

 頭の中にはっきりとした声が響く。エマに沿わせた腕から不快な感触が這い上がり、ギチギチと歯鳴りのような音が耳元へと迫る。

 視界を覆う不定形の口。その奥に見える無数の舌のような突起群。セレジェイをも取り込もうと這いだして来た泥蛞蝓と瞬間、至近で対峙する。


「こ、のっ!」


 セレジェイは首の動きだけで右目を覆う前髪を跳ね上げた。一瞬あらわになった鰐の瞳が、まるで独立した意思を持つようにギロリと泥蛞蝓を睨む。

 鋸歯の音が威嚇するように高鳴った。最後に一度ギチギチと口を窄めたあと、ふっと蛞蝓の姿が霧散する。


 どっと全身に汗をかいて、セレジェイは膝をついた。

 何だ今のは? 分からない、分からないが、ひとつハッキリした。

 セレジェイは師がかつて言ったことを思い出していた。


『思念でも感情でもない「人語」を喋るのは、人を喰ったことのある妖精だけだ』


 全身に喝を入れてエマを背負い上げると、街路へ飛び出す。一刻も早い手当が必要だ。

 路地を出たその直後、分厚い胸板にぶち当たった。


「お前は……!」


 露骨にしかめられた左目を、厳かな表情で見下ろすのはサトラン神父。何故ここに、というセレジェイの疑問を見て取ったように彼は再度釘を刺した。


「言ったはずだがな。貴殿は聖手教の監視下にあると」

「今、問答している時間はない」


 どけ、と言外にいうセレジェイを無視して、神父はぬうとその背後をのぞき込む。


「酷い顔色だ。少しそのままにしているがいい」


 法衣の懐から木の水筒と小箱を取り出す。セレジェイは強引にそれを押し退けながら怒鳴った。


「処置はこちらでする、いいから通せ!」


 サトランの脇をすり抜けると、その後ろにカリルがいたことに気付いた。彼女は恐れと忌避がないまぜになったような表情で二人を見、神父の陰に再度隠れる。

 そんなことを気にする時間も惜しく、二歩、三歩と足を動かした。その背中を、冷静な声が打つ。


「もう少し賢い男だと思っていたが。そのままでは館に着くまでもたんぞ」


 それはどんな罵詈雑言より強く、セレジェイの足を縫い止める。

 遅れて、ラピスが飛び出してきた。両手にセレジェイたちの荷物を抱えている。


「サトラン神父!? っお願いします、わたしに出来ることなら何だってします!」


 神父はそれにきっちりとした礼で答えてから言った。


「姫様が軽々に何でもなどと言ってはなりません。ですがそう言わせてしまったのは私の不徳の致すところ」


 無垢木の小箱には乾燥した葉が何枚か入っていた。神父はそこに水を注ぎながら、再びエマの様子を観察する。


「……呼吸が浅すぎる。拍動も弱っているか血色も悪い。

  ――枝が繁り、葉が天を覆うように、遍く人に聖手の加護のあらんことを」


 葉の浮いた小箱をかざして祝福の詞を唱える。日の下でうっすらとしか見えないが、光の霧が水から湧き立ち、エマの口鼻に吸い込まれていく。


「ぅ……すぅ」


 エマが身じろぎをする。秋節の川水のようだった身体に熱が戻っていくのが背中越しにセレジェイへ伝わった。


「エマ、しっかりしろ、おい!」

「これで数時間は持つだろう。入信儀礼も必要かね?」

「ふざけるな! 必ず助ける!」


 既に歩き始めたセレジェイに神父は首を傾けると肩をすくめた。


「すまない、失言だったな。その娘の無事を祈ろう」


                  §

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