第13話『泥なめくじ』

 窓の戸板を下ろして、ベッドの毛布で入り口を覆うと家の中は黒い薄衣をかけたように暗くなった。

 木箱に乗せたルフ老人の足を、屈んだセレジェイがのぞき込む。


「最初に見つけた時期を覚えていますか」


 老人は考え込むように顎に手をやった。


「夏節、じゃったの。半ズボンの裾が引っかかって気づいた。二年か、三年前だったと思うが」

「わたしが初めてここに来たのが三年前で、その時は無かったと思います」


 ラピスが横から補足した。


「んん、なら、二年前か。いかんの、どうも最近物覚えまで悪い」


 老齢のためばかりでもないだろう。妖精症の患者はかなりの割合で精神的な症状を併発する。軽いものなら集中力の欠如や躁鬱、重いものでは記憶の喪失や人格の豹変などを伴う。


「少しの間、こちらを見ないでください」


 セレジェイはそう言うと、右目にかかった前髪をかきあげた。その下を見てラピスは身を強ばらせる。

 薄闇の明かりを集めて光る金色。猫の目に似ているとラピスは思った。けれど違う。横に長く切れ込んだ目筋にはめ込まれたそれは磨いた石のようにつるりとしていて透明感がない。中心に穿たれた瞳孔は縦に細く、剣の刺しあとのようだった。

 わにの目だ、と直感する。同時、ラピスは老人のきずが動くのを見た。


「なるほど、姫様が我々を連れてきた理由はこれか」


 それはラピスと、たった今視えるようにしたセレジェイにしか観測できないもの。

 目のない蛞蝓なめくじ。老人の右足に絡みつくそれは胴回りが大人の腕ほどもあり、蛇のように頭部が膨らんでいる。泥色の表皮は所どころ白く濁り、ぬらりと水っぽい光をはねかえしている。


「……沼へ行かれましたか?」


 前髪をおろしたセレジェイの問いに老人は首を振った。


「五、六年前に腰を悪くしてな。それから町の外へは出ておらん」

「聖手教の方は何と?」


 佇むカリルへ水を向けると彼女は、心配そうにのぞき込んでいた背筋をぱっと元に戻して平静顔で答える。


「土石の魔精が憑いているから、金工の仕事は控えるようにと」


 魔精とは聖手教の唯一神に対する形で作られた悪魔の化身という意味だ。敬虔な人間や教会管轄物に起こった妖精の害について神への非難を免れるために使われる。それ自体は教義を整えるための言葉の綾でしかないのだが。


「……半分は合ってるな。だが、石の妖精ならまずは骨や爪に症状が出る。肌の下の肉から変化しているこれはどちらかと言えば水妖精寄りだ」


 妖精たち共通の法則に、自分の性質に近しいものに惹かれるというものがある。人の体についた場合、水妖精は内臓や脂肪に、石妖精は骨や歯に影響を及ぼしやすい。


「飲み食いに障りが出ていませんか?」


 はっとカリルは口元を押さえた。ルフ老人が答える。


「まあ前ほどは食えんかの。あとはそうじゃな、酒が不味くなった。一口でも飲めば翌日はずっと気分が悪い」


 間違いないとセレジェイは判断した。見たことのない精だったが土地ごとに固有の妖精がいるのは珍しいことではない。近くのものと交わっては形質を変化させる妖精の姿形は虫や草花よりもずっと多様だからだ。


「これからあなたのケガレをこちらの踊り子……エマが引き受けます。正直気が進みませんがこうなると梃子てこでも動かないので観念する他ありません。私も、あなたも」


 老人は一瞬ぽかんとしてから怒ったように腕を組み背を丸めた。


「……ありがたい、と言うべきなのじゃろうな、わしは」


 佇むカリルとラピスを交互に見てから、同じ高さにあるセレジェイの顔をぎろりと睨み付ける。


「約束せい。その娘子に後の障りなきよう力を尽くすと」


 掴み掛からんばかりの意思が篭もったその訴えを正面から受け止めて、セレジェイは頷いた。


「……ええ、誓って」


 老人は疲れたように目を閉じた。その口が任せる、とうごめいたように見えた。セレジェイは立ち上がる。


「この家は、普段使いの水はどこから汲んでいますか?」


 眠ったような姿のままルフ老人が答えた。


「路地の広場の、一番高い山を望む方角に共用の井戸がある。どだい河など出来る土地ではないでな。雨は山を駆け下り、一帯を水浸しにしたあと地に潜る。わしらはそれを汲み上げる他ない」


 セレジェイがエマに目配せすると、彼女は荷物から水筒を取り出して出ていった。

 少しの間、楽器の点検などをして待つ。途中、警戒もあらわな視線に気付いて顔を上げた。


「ああそれと、奥様には治療のあいだ外に出ていてもらいます」


 言われたカリルは目を瞬かせたあと、憤慨したように眉根を寄せる。


「どうしてだい?」


 セレジェイはつとめて淡々と言う。


「儀式の中で、踊り子と患者は夫婦となります。といっても疑似的なものです。この場合ご主人とウチの踊り子になりますが、そこに本当の奥様がいるとややこしいことになる。不慮の事故を避けるため、ご理解いただきたく」

「夫婦うっ……!?」


 カリルは悲鳴じみた声で繰り返した。そこへ。


「セレ、ただいま」


 準備を終えたエマが戻ってくる。水筒と、それまで着ていた上掛けを手に持った薄衣一枚の格好で。


「な、な……っ」


 言葉にならない声をあげるカリル。エマはシルエットこそ広場で踊ったときと変わらないが、今着ている生地はより妖精に対して無防備な半透明のものだ。下着はなく、ぼんやりと白く丸い肌が薄暗闇に浮かんで見える。


「エマ、お前はもう少し場の空気を……いや、いい」

「?」


 きょとんとする彼女を一旦おいて、セレジェイは心なしか肩を震わせているカリルへ向きなおった。


「あっ、アンタたち、うちの人をどうするつもりなんだい! まさか……」


 誤解です、と弁解しようとしたとき、横合いからルフ老人が窘めた。


「カリル、大丈夫じゃから言われた通り外へ出ておれ」

「でっ、でも、あなた……!」


 ぱちりと、なおも言い募ろうとする婦人に対して老人は片目を開けた。


「わしは任せると頼んだ、お前も言うとおりにせい!」


 びくりとカリルが背筋を伸ばした。その下唇がぎゅっと噛みしめられる。


「るっ……」


 キッとセレジェイたちを一瞥し、


「ルフさんの馬鹿あっ!」


 ばふっと入り口の毛布を跳ね上げて飛び出していった。

 ルフ老人はそれを無言で見送ってからセレジェイを見上げる。


「すまんの。あれは気立ても器量も申し分ないが、少々短絡なところがある」

「いえ」


 一抹の共感めいた沈黙を誤魔化すように黙礼した。


「では、始めます。姫様も危ないですから外へ」

「は、はい! お二人ともよろしくお願いします!」


 ラピスは緊張した面持ちで頭を下げると建物の外へ。まるで本当の孫のようだなと思いながらセレジェイは、テーブルの上に口を付けずにあったティーカップの中身を、空になっていた別のカップへと移した。

 誰も口を付けていないカップがルフ老人とひざまづいたエマの間へ置かれる。セレジェイはそこへ水筒を傾けた。


「エマ、井戸の深さは分かるか?」

「ん~っと……セレが、五、六人ぶんくらい?」


 浅いな、とセレジェイは一人ごちる。嫌な予感を顔に出さないようにして、ルフ老人へ説明した。


「今しがた汲んだ水です。同じ器から飲むことで略式の婚姻として縁を強めます」


 妖精症はまれに親から子、妻から夫へというように伝播する。これは家族において行われる儀礼や営みが彼らの性質を近しくするからだと言われており、踊り子は発症者と疑似的な近縁者となることでケガレを引き受けやすくする。


「ルフさんから先に一口飲んでください」


 促されたルフ老人がその通りにすると、そのカップを受けたエマが残りを一息に飲み干す。なだらかに反った喉がこっくんと動いた。

 その間にセレジェイは手のひら大の香炉を取り出す。小さな柄杓ひしゃくのような棒付きのそれに火種を入れ、中敷きを挟んでシンゲツ藻を主原料とした練香を炙る。成形に使われた蜂蜜の香りが漂い、しばらくすると炉の中は濃い水色の煙で満たされていた。


「エマ」

「ん」


 水を掬うように合わされた手を口元に、エマの唇が上向きに開かれる。仰ぐ先に差し出された香炉が注ぎ口を下にすると、重い煙がその口腔へと注がれた。


「んむ、ふ、ん……」


 開いた口から煙が溢れ、顎を伝って手のひらへこぼれる頃、ようやくセレジェイは香炉の角度を元に戻す。それを合図に口を噤んだエマは、うがいでもするように口をうごめかせた。


「森辺の民の秘薬か……不可思議なものだ」


 エマの手に溜まった煙を見つめて言う老人に応じつつ、セレジェイは炉の蓋を閉める。


「喪心の香といいます。焚くのはもちろん、飲み方にコツがあり誤れば毒薬に等しいものです」


 具体的には舌の裏で四分、鼻の奥で一分、残り五分を肺で取り込む。一人前の踊り子となるにはこの含み方を体で覚えねばならない。


「っはぁ……、すぅぅっ」


 掌に残った煙も残さず服すると、エマはぼうっとした表情でセレジェイを見上げた。虚ろな瞳は何かを待っているようにも見える。


「では、以後は目を閉じずにおいてください。右足は極力見ず、意識することも控えるのがいいでしょう」


 セレジェイが言うと老人はふむ、と正面を見据えた。


「つまりとくと見よ、ということか」

「ええ。大丈夫です、よそ見など出来ません」


 秘された神像の廟を開く司祭のように、厳かな中に誇りをもってセレジェイは請け合った。


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