第8話『神父サトラン』
「 ――種が芽を吹くように」
まさしく、地よりも低い歌声。
唸るようでありながら、確かな言葉となって聞く者の腹に響く。
「 ――幹が伸びるように」
誰にも暴かれたことのない古代の廟所で、人知れず石棺の蓋が落ちる音を聞いたとすれば今と似たものあわれさを覚えるだろうか。
「 ――枝が広がり葉が繁るように、あまねく神の御手が善き者たちへ向けられるように」
パイプオルガンが鳴動する。階段を上るように画一的な音色が、町全体へ届きそうなほど大きく。
奏者による音の強弱や揺らぎのないその音は「悲鳴をあげる機械」という蔑称すら生んだ。一方である音楽家はその発明を「天上の音曲に至る唯一の道」と絶賛した。
だが驚くべきことに、建物自体が楽器と化したようなこの状況においても、その中心たるは歌声。
木の葉を浮かべた水盆が淡い光を発する。それは先の《精霊の泉》の再現のようにホールの天井へと伸び上がり、やがて粉雪よりも小さな粒となって客席へ降り注いだ。
「ふぁ、あ……」
エマがぴくんと背筋を伸ばし、恥ずかしそうに唇に指を当てる。
「ん、これ、って、もしかして《奇跡》ですか? 偉い司教様たちが、式典なんかでやるっていう……?」
腕を抱き背中をやや丸めてひそりと訊ねるモニカ。
セレジェイもまた、起き抜けに濃い森の空気を吸い込んだような爽快感を感じていた。
頭上で渦を巻くように流れるその光霧が、巨大な掌に見える。
「まさか……聖人祭でも収穫祭でもない日に、それもたった一人で……?」
無意識、だろう。両手を組み祈りの形をとったマーガレッタがいよいよ魔人でも見るような目をステージへ向ける。
歌声は続いていた。高音は狼の遠吠えよりも高く澄み、なお太さを失わない。
「大した、いや……美しい歌だ」
奇跡による高揚感のなか、セレジェイは素直にそう一人ごちた。
高く高く詠いあげられるのは、神への賛美。
聖歌、と呼ばれるもっともポピュラーな教会音楽であるそれが、斯様な現象を起こしうると知る者がどれだけいるだろうか。
薄明く照らされた客席では、全員がマーガレッタと同じように手を組み、多くの者が頭を垂れている。
「皆さん、今夜もお越しいただきありがとうございます」
歌い終えた神父が両腕を広げて挨拶すると、大きな歓声がおこった。その目がちらりとセレジェイたちの方へ向く。
「……人というものはとかく、自分と異なるものについて短慮を起こしやすいもの。それを弁え、おおらかな心で歩み寄ることで生まれる友誼もあるでしょう。今宵はもう一曲、ラピス姫様とその新たなご友人方のために」
驚いたラピスが集中する人目から逃れるようにテーブルの下へ頭を引っ込める。だが一歩遅れて尾を引く美しい灰水晶の髪は一目瞭然で、どっと笑いとも感嘆ともつかぬ声がホールを満たした。
再動したパイプオルガンが奏でたのは低く沸き上がるような旋律。
『妖しの郷に入りて』と題されたその曲は、聖手国のある音楽家がラウルス共和国を訪ねた際に作曲したソナタ。彼はのちにその楽譜をガウェン聖手国王に献上するが、教会は曲名が教えの国にふさわしくないと遮った。しかし王が強いて曲を欲したので教会はやむなくそれを認めることとなる。楽譜は『神国』と題名を変えて献上され、今なお教会音楽のひとつとして親しまれている。
なるほど、神父とセレジェイたちとの歩み寄りを象徴するにはふさわしい選曲と言えるだろう。だが。
「 ――おお、巨大で恐ろしい龍の王よ!」
高く高く、オルガンの重低音に真っ向から対立するかのごとく詠われたのは、セレジェイにすら聞き覚えのない詞。
「 ――我が恋人を戻したまえ。吾が髪を梳いた手を、頬に触れし唇を、愛に満ちたその心臓を返したまえ!」
本来この曲に歌詞などない。ならばこれは。
「ひぁあああ!」
ラピスが奇声をあげてテーブルへ突っ伏した。何事かとのぞき込むカフィに大丈夫ですから、と首を振る。
歌は歌劇の一部のようだった。山場か、その前にあたる場面のものだろうか。
――恋人を奪われた女が龍と対峙し、男を返すよう訴える。龍が拒むと女は自分を殺し恋人と同じにするよう嘆願する。至って龍は女の真心を認め承諾する。
そのストーリーを歌声だけで表現してみせた張本人は、さすがに顔や首に汗をにじませて息をついた。盛大な拍手がホールを包む。
ふと先の様子が気になってラピスの方を見たセレジェイは、一瞬ステージの光が目に焼き付いたかと錯覚した。
突っ伏してぷるぷると肩を震わせているラピスの灰水晶の髪が、ほのかな光を発しているように見えたからだ。燐光は虹色で、高級な絹のように艶めいている。セレジェイは何度かまばたきをした。
ホールの明かりが戻り始める。オイル灯のオレンジ色がテーブルのでこぼこした陰を浮き彫りにし、コップについた水滴へ無数の自身を映し出す。
明かりの中に沈んだラピスの髪の毛は、会ったときのままやや乱れて、テーブル上で灰色の毛玉と化しているだけだった。
「先ほどからどうかなさったのですか、姫様?」
問うと、顔を上げたラピスは赤くなったおでこをさっと髪で隠した。目がやや潤んでいる。
「いえっ、あの、お恥ずかし……いや拙い……じゃなくてその、何でも……」
言いながらぷるぷると震え目が泳ぐ。そこに。
「ようこそおいでくださいました、皆様」
ついさっきまでステージで響いていた張りのある声が、ごく間近で発せられていた。ラピスが非難がましくその名を呼ぶ。
「サトラン神父……!」
セレジェイとマーガレッタの背後に立った大柄な体は、壁ができたかのよう。
「お楽しみいただけておりますか?」
自信に満ちた笑顔。先のこともあり素直に頷くのは癪だったが、目があってしまったのでしょうがなくセレジェイは肩をすくめて言った。
「参りました。素晴らしい歌声に音曲です。あんなものを後に見せられては小手先の演出など霞んでしまう。いや、己の非才を嘆くばかりです」
あえて芝居がかった調子で、決して本心ではなさそうに偽装して。
神父は呆れたように苦笑する。
「あなたは少し謙遜が過ぎるようだ。それは秘めた自信ゆえかそれとも……別の何かを隠しているためか。踊り一座の長などというのは、もっと野卑な男かと思っていたのだが」
最後の一言は明らかな挑発だった。まず何より先にマーガレッタを制しようと目を向けたが、そう何時でも喧嘩を買うほど元気でもないらしい。単にセレジェイをどう言われようと気にしないだけかもしれないが。眉をしかめて目を閉じている顔は、シードルのせいか少し紅潮している。
ならばとセレジェイは言い返した。
「俺も、教導官ってのはみんな融通の利かない石頭ばかりだと思ってたよ」
ぎょろりと見開かれた目がもう一回り大きくなった気がした。神父はにやりと笑って手を後ろに組むと、ホールを一望する。
「私が神の教えに心から忠実であるように、このホールもまた神の御意志に沿っている」
客たちは各々会話や酒食に興じながらも時折もの珍しげにこちらを見ている。
「……たしか、聖手教で享楽は罪だと」
マーガレッタが片眉を上げて神父の方を見ずに言った。
「然り。だがお嬢さん、君は歌のひとつもなしに日々を過ごせるかね? お喋りをする友人もおらずに日がなずっと
少なくとも私は耐えられない、と神父は大仰に肩を落とした。
「より良い労働のためには日々のささやかな楽しみが不可欠だ。しかし私が赴任したときこの町には、酒場の一軒すらも無かった」
それで、と含み笑いながらラピスがあとを引き継いだ。
「神父が最初にお屋敷にいらしたとき、お父様はびっくりしたんです。てっきり鉱山や町で働く人たちの仕事について話し合うのだと思っていたら、音楽堂を作りましょう、だなんて」
鈴声をころがすラピスに弱り顔で顎をなでると、神父は思いだしたように分厚い手を打った。
「ときに皆様、二曲目の歌はいかがでしたかな。あの詞はといえば、何を隠そうこちらのラピス姫様の御手によるもの」
猫をおどかせば瞬間的に同じ顔が見られるだろう、目を見開き頭をぴんと起こして固まったラピスは、テーブルの視線を一身に集めているのに気付くと目にも止まらぬ早さで椅子の後ろへ隠れた。
「サトラン神父っ!」
泣きが入った声が弾劾する。なるほど、態度がおかしかったのは羞恥によるものだったらしい。
「え、すごい、あの歌ラピスが作ったの!?」
「違います違います人違いです!」
カフィの無邪気な驚きに椅子の背の両端をはみだすほど首を振るラピス。
「僕、あのお話は初めて聞いたんですが、お姫様のオリジナルなんでしょうか?」
「いえ、それは母から……って違います! 私じゃ……」
さらにモニカの質問に小さくなる姫を見て、神父が愉快そうに笑った。
「はぁっは、良いではないですか姫。私から見てもあの歌は、本国の聖歌隊に歌わせたいほどの出来」
「それはただの贔屓目です! わ、私の詞なんて本職の方から見たら全然なって……ません、し……?」
言葉は次第に小さくなり、椅子の後ろに見えていた頭もついに見えなくなる。神父が、カフィが、モニカが同時にセレジェイの方を見た。
「……ん?」
殺気を感じて片足を上げる。座っている椅子がエマの方にゴッと蹴押された。
(フォローしなさい、このスカタン!)
マーガレッタが押し絞った声で怒鳴る。なるほど、本職とは自分のことか。
だが人の創意を評価できるほど偉いつもりはないし、仮に素晴らしいと言ったところでこの状況では届かないだろう。それにこの曲には……。
「……
まるでセレジェイの心中を引き継いだように、さらりとエマが訊ねた。ぴいっという悲鳴が椅子の裏から上がる。神父がそれは嬉しそうに頷いた。
「無論。今夜の公演では割愛せざるを得ませんでしたが、それは切々たる恋物語が……機会があれば皆様にもぜひ」
「絶っっっっ対に禁止です! あんな恥ずかしいもの捨ててって言ってるでしょう、やったら二度と口をききませんからね!?」
ばん、と椅子の背を叩いてラピスが憤然と立ち上がった。
「聞いてみたいな」
セレジェイは言う。
「え……?」
いからせた肩を落としてこちらを見るラピス。
「ぜひ通しで聞いてみたい。そう思わせる力がさっきの詞にはあった」
ラピスの口があわあわと言うべき言葉を探してさまよう。
「いっいえ、でもですね……」
「無理強いはしない。だが歌というのは歌われなければ無価値になってしまう。それは悲しいことだ、良い歌ならなおさらに」
畳みかけるように言うと、ラピスは言葉を呑み込んだ。ぐるぐると変わる表情に、葛藤がありありと見て取れる。
ややあって。
「分かり、ました。ちょっとだけ心の準備をさせてください。その代わりに、いいですか?」
「ええ、なんなりと」
セレジェイが努めて気安く請け負うと、ぱっとラピスの顔が明るくなった。
「この町にいる間、いろんなことを教えてください。私、町の外のことをもっと知りたいんです!」
◇
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