第20話『袋叩きに招く手』

 騒然となった二階の廊下を覗いて、ラピスは目を疑った。

 人、人、人。埋め尽くす市民たちの向こうで、灰色の集団が儀杖を組み伏せている。その下には、腕から血を流すセレジェイの姿。


「何をしているのですかッ!?」


 叫んだ彼女に視線が集まると同時、人垣が割れる。すぐさま駆け寄ろうとするラピスを遮って、細く背の高い法衣の男がその肩を捕らえた。


「ご安心を姫様。なに、殺してはおりません。この男、お屋敷の窓を割って暴れたため取り押さえたまでのこと」


 それ以上進めず、ラピスはもがく。床へ伏したセレジェイはぐったりとしていて、意識があるのかすら分からない。


「離してください! それなら早く手当を! その方は理由もなく暴力を振るう人ではありません!」

「なに、おおかた我々に追いつめられて分別をなくしたのでしょう。今やかの者の命運は我々が握っていると言っても過言ではありませんからね」


 軽い冗談でも言ったように笑う男に、ラピスはすとんと何かが切り替わるのを感じた。それは親に反抗する子供が抱くような、理屈を省略した敵愾心。


「……あなたは?」


 問いながら冷静になっていく。男は会釈と敬礼の半ばあたりへ手短に頭を下げた。


「これは失礼を致しました。クヴェル=キーハ副務官です。ここへはサトラン神父の代理として参りました」


 打ちのめされそうになるのを足を踏ん張って堪える。神父がこんな酷い行いを許したとはとても信じられなかった。その神父に教わった文言を、正確に頭から引き出していく。


「教化権による逮捕拘束は、聖手の教えを蔑ろにする行いを罰し、またそれを未然に防ぐために許可されるもの。ですがその権限はガウェン聖手国内と各地特例区でのみ有効のはず。ここではあなた方はその権限を持ちません」


 キーハは少なからず驚いたようだった。してやった、と思う。相手を小娘と侮ってかかるからだと。

 だが、見下ろす法衣の肩は小癪にすくめられただけだった。


「……さすがはサトラン神父の教え子。その通りですがこたびは事情が異なります。例えばそう、人道を定める立場である王が、たとえ他国領であれ自ら定めた法を犯すことが許されるでしょうか。これはそういう話です。あの男の名はセレジェイ=ナナエオウギ=ガウェン」


 一瞬、ふわりとした現実感のなさに囚われる。


「ガ、ウェン?」

「はい。聖手国王ハミルロット=ガウェンが第五子。八年前、行幸中に神の怒りに触れ、母子ともに遠行。死んだと思われていた男です」


 それは遠国の一領主の娘ですら知る、大きな事件だった。次期王位を約束された第一王子の夭逝。それに連なるように起きた第二、第五王子の死。端的な事実のみからも伝わるその陰惨な連鎖を、単なる偶然と見る者はあまりに少ない。


「神罰の……第五王子」


 都合三人目に起きたその事件でラピスが知ることはたった一つ。王子とその母は《神たる龍》の怒りに触れ、帰らぬ人となったということだけ。


「何の騒ぎだ、これは!」


 足音も荒らかに階段を上り、人混みをかき分ける大きな身体。思わず叫んでいた。


「サトラン神父っ」


 疑惑もあったが、それ以上に安堵があった。後に辛い現実を突きつけられることになっても、彼の前ならば泣かずに立っていられると思った。

 キーハは社交的な笑みで応じる。


「これは神父。たった今、事件の原因と思われる彼の男を捕縛したところです」


 倒れ伏すセレジェイに神父は眉を顰めると、厳めしい声音で否定した。


「その男は無関係だ。座の踊り子の一人は、魔精によって死の危険に瀕したのだぞ」


 キーハは天に向けた右掌を胸の前へ。神への礼をとったあと口を開く。


「魔女はその密儀において敢えて魔精と交わると聞きます。その程度、潔白の理由にはなりません」


 不安げに成り行きを見守る町の人々へサトラン神父は視線を巡らせていた。彼の人となりを知るなかにはそこで自らの軽挙を恥入る者もあった。

 神父は長く均一に息を吐くと、キーハへ相対する。


「主謀者という証拠もない。それに事態の収拾を求めるなら、その男を打ち据えるよりも先に知見を請うべきだ。こと魔精に関して我らが知ることはそう多くない」


 ラピスは内心救われた心地だった。やはり神父がこんな乱暴なやり方を命じるはずはなかったのだ。しかし。


「なんと!? 神父あなたは、異教徒の騙る歪んだ神のありように耳を傾けるおつもりか!」


 キーハは大仰に腕を広げ天を仰ぐと悲嘆極まる様子でうなだれた。


「私とて、信じたくはなかった! 神父が異教徒と通じているなどと! ゆえにあなたが独断で異教徒の女に《奇跡》を与えたと聞いたときも、何かの間違いに違いないと断じたのに。信頼とはかくも容易に裏切られるものか!」


 怒り、悲嘆、そして隠しきれない喜悦がその顔にのぞく。何もかも過剰なその挙動を前にしてサトランは静かに深いため息をついた。


「……なんたることだ、かような身中の虫に気付かなかったとは」


 彼の嘆きと視線に、教導官たちの何名かは気まずそうに顔を背けた。神父はキーハを無視してラピスへと向き直り、片膝をつく。


「姫様、申し訳ありません。この騒動、私の不徳の致すところ」

「そんな、頭を上げてください!」


 ラピスの声は悲鳴に近かった。不安が内側から胸を突き上げていた。神父がひとり、何か大きなものを背負い込もうとしているような。

 そのやりとりを、キーハは苛立たしげに眺めていた。


「今ここで! あなたを背教者として捕らえることもできるのですよ神父!」


 頭が真っ白になる。背教者、それは教会において何よりも恐ろしい堕落の烙印だ。ひとたび押されれば教会を放逐され、二度と聖職に就くことは許されない。

 そのような宣告を受けてなお、サトランは背筋をのばして立ち上がった。鳶色の瞳が真っ直ぐにキーハへと向く。凪いだ、しかし決然とした意志の光。


「教導舎総員が出席する会議での審議を希望する。もとより未曾有の事態に際しては、そのようにあたるべきだった」


 キーハがもはや隠す気配もない卑小な笑みでそれに応えた。


「……いいでしょう。しかし住民の監督と受け入れのためこちらに数人は残します。領主様姫様におかれましては御身の安全のため、お部屋を出ることのありませんように」


 しばらくぶりに寄越された視線に、真っ向から睨み返す。


「あなたに、指図を受けるおぼえはありません……!」


 一度肩をすくめたキーハは、それきりラピスもコールマイトもいないかのように我が物顔で部下に指示を出し始めた。セレジェイが引き立てられ、サトランの両脇にも杖を持った教導官が立ち沿う。


「セレジェイさん! サト……っ!」


 その背中に何かを伝えようとして、言葉に詰まった。

 何を言えるというのだろう。こんなに無力な自分が。この後に及んで助けてくれとでも言うつもりか。

 惨めだった。何も教えてもらえず、相手にもされずにただ嘆くしかできない有り様が。

 ずっとそうだった。自分は大切に仕舞われた置物で、分相応に呼吸していることだけを望まれてきた。私自身、それ以上の価値を己に見いだそうとしなかった。外の世界を憧れ見ながら、そこへ飛び出す努力をしなかった。

 天罰だ、とラピスは思う。置物でしかいようとしなかった自分は、今ここにあっても置物でしかない。

 過去を、これまでの自分をやり直したい。そう切に願った。



                  §



 泥水とともに車輪が跳ね、その軸木が九死に一生を得たかのごとき軋みをあげた。

 薬や香の材料が入った瓶の蓋がひとりでにカタカタと飛び上がる音を、天井を見上げたエマはその枕元に聞いている。

 御者台と天幕の仕切をはね上げたのはモニカ。


「それで、本当にどこへ行けば!?」


 とても立って歩けず四つん這いで前へ出たマーガレッタが、雨音と車輪の悲鳴に負けぬよう声を張った。


「西側の町外れへ! この雨の中、教会の連中もそう遠くまでは探せないはず! 大通りは避けてちょうだい!」

「ごめんなさい、今まさに一番太い道走ってます!」


 モニカの言葉に頭だけ外へ出すマーガレッタ。吊り下げられたランプから額に滴った大粒の雨に数度まばたきをして、遙か先の闇へと目を凝らした。

 次の瞬間、行く手を照らしていた明かりが消える。叩き落とさんばかりの勢いでマーガレッタがそれを引き寄せ、吹き消したのだ。泡を食ったモニカが何か言う前に、彼女は指示を飛ばした。


「教会の見張りがいるわ、左の小路へ!」


モニカには何も見えない。だが浮かんだ疑問は後回しに、今はその言葉を信じて手綱を引いた。



 深夜にも関わらず、人家にはぽつぽつと明かりが灯っていた。それだけを頼りに、馬車はそろそろと街路を進んでいく。


「エマ姐様、大丈夫?」


 カフィがニガカゲ茶の椀を差し出して見上げてくる。受け取って、エマは熱いそれをこくりと嚥下した。


「ふぅ……ええ、皆のおかげでね。カフィちゃんは、無理してない?」

「あたしは慣れっこだよ」


 慌ただしさもどこ吹く風という表情に、力づけられる。

 実際彼女はまったく普段通りに、狭い車内を動き回って自分にできることを探している。焦っても得などないことを経験から知っているのだろう。

 マーガレッタの言葉には力があり、モニカの手綱捌きには淀みがない。このまま眠ってしまってもなんとかなりそうな気さえする。

 意識がかなりの頻度でぼんやりとして、背中側が自分の身体でないようだった。元々あった皮膚の在り様を思い出そうとするのだが、うまくいかない。始めからこうであったような気さえする。


(セレがいてくれれば……)


 唯一正確なところを覚えてくれている彼は、囚われの身。ならば何とかしなければと思うが、しばらく考えても案の一つも出てこなかった。


「エリス!」


 馬の嘶きと同時にモニカの呼び声。


「どうしましたの!?」

「馬の蹄が割れたみたい! これ以上は走れない!」


 がくんと車の行き足が落ちる。


「一度停まって、様子を見ないと……!」

「そんな! 何とか無理をきかせられませんの!?」


 背後を気にするマーガレッタの言葉に返ったのは、明確な怒りだった。


「いい加減に……っマーギーあなたは、人間相手でも同じことを言うの!?」

「っ」


 マーガレッタが胸を押さえる。エマは再び意識の谷間へ落ちていきそうになる頭で、懸命に考えていた。

 自分に何が出来るのだろう。踊ること以外に何の取り柄もない。

 手を引き導いてくれる相手がいなければ、その取り柄すらどう使えばいいか分からない。

 何のために生きているのだろうと時々思う。そしてそのたびに子供のような、胸を締め付ける気持ちを思い出す。


「……セ、レ」


 怖い、と感じた。

 死ぬのは嫌だ、と思った。

 会いたい、と願った。

 

 不意に、横合いから馬車が照らされる。馬たちが驚き、マーガレッタは咄嗟にモニカを中へと引き入れ、カフィは腰を浮かせた。

 カンテラらしいその明かりは見回すように左右へと動く。石畳を叩く足音が嫌にハッキリと聞こえた。


「問う問う、御内は古き祭儀を識る者か?」


 枯れた、穏やかな声が幌に降る。


「――――、」

「どうか車を軒へ入れ、旅の疲れを落とされよ……もっとも、随分と手狭になっておるがの、はっは」


                  §

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