第23話『二つの檄』


                 ◆


 湖の淵からあがってきたそれは、銀の蛙に見えた。

 まだ残っている長い尾を水辺にひたした、輝きの粒。子供の足で十歩ほどの距離からそれを認めて、駆け寄った。背後から姉の笑い声と、母が息をのむ気配。

 上から覗くと、それは奇妙な物体だった。丸めた粘土を適当にひねったような銀の塊から、細長い糸のような長い尾が、水底へ見える限りに続いている。

 先端の塊は火にかけたシチューのようにぼこぼこと形を変え、やがて目の前でぱっと広がった。


「セレ……!」


 両掌の手首をくっつけたような形をしたそれは口、だったのだろう。推測しかできないのは、直後に自分は視界を塞がれていたから。

 ひったくるように抱かれた母の胸からなんとか抜け出したとき、真っ白になったその顔に息をのんだ。


「逃、げ……て」


 切れぎれの母の声に異常を察した。わけもわからず背を向けて走り出す。二三歩行って振り返ったその時、姉の悲鳴が聞こえた。

 水面から空へ伸び上がったそれは、最初に見たときとは似ても似つかぬ巨大さと複雑さを備えていた。

 ぴかぴか光る紫銀の鱗。牙の並んだ口以外に何もない頭部。蜥蜴と蛇の中間のような体は、大木が倒れるように姉の頭上へと迫っている。


「っ、姉上!」


 とっさに往き足を踏み返していた。竦む彼女を突き飛ばし、覆い被さる。直前、後頭部から頭の右半分が喰いちぎられた。

 出血はおろか、外傷もない。だが確かに大事なものが欠損し、代わりにそら恐ろしい何かが流れ込んだ感覚に息の続く限り悲鳴を上げた。


                  ◆


 終わりとも始まりともいえるその記憶を何度繰り返しただろう。

 右目の疼きが強まるたび、まるで現実のように五感を襲う幻覚を、無心になってセレジェイはやりすごしていた。

 幻へのまれそうになる意識を引き戻し、壁を作って押し留める。それが現実へと溢れることの無いように。


 ――お父様を、恨まないであげてね。


 幻からこぼれた母の声。ざわざわと鱗状にめくれた皮膚が蠢き、赤熱したピアスを震わせた。


「~~~~ッ!」


 がきりと奥歯が軋む。香も薬湯もなく深化した妖精症を抑えるのは、傷の痛みを忘れるほどの苦痛だった。


「っ争うことも……愛することも、ない……」


 いつかの誓いを口にする。争えば父のようになり、愛すれば母のようになる。どちらにもならないと決めた。だが、それも。

 腹の底に息を溜め、長い時間をかけて吐き出す。一分ほど吐き続けると、次第に右目の疼きが収まっていった。


 かつん、と石の床を何かが叩く。

 窓から流れ込む雨水の川へ転がったそれは、クルミ大の石。はっとしてセレジェイはその出所を仰ぎ見る。


「誰かそこにいるのか?」

「っ、お前っ!」


 ガコン、と鉄の窓格子が鳴る。暗い上に高い位置にあるので見えないが、人がそこに取り付いたのだと分かった。


「カフィか……!?」

「そうだよ! 大丈夫か、ひどい声してるぞ?」


 声だけで互いを確かめ合う。セレジェイは咳払いして壁を伝う雨水で口をゆすいだ。


「無事でよかった」


 複雑な味の洗い水を吐いてまず、そう口が動いた。含み笑う気配と、微妙な間。


「……あたしらは大丈夫だけど、エマ姐様が」


 セレジェイは目を一度閉じて開く。覚悟はしていた。


「どんな様子だ?」

「お茶を飲んでも起きてられないって。背中の痣がもう肩まで……話しかけても反応ないときがある」


 予想よりも進行が早い。セレジェイとて似たような状態ではあるが、こちらは何度か危ない境を越えてきたぶん精神的に余裕があった。


「……今は、エマ姐様の知り合いだっていうじいさんの紹介で避難所に置いてもらってる。言われたとおり皆動けるよ。なぁ、どうすればいい、何とかできるんだよな?」


 セレジェイは拘束された手足で壁を支えに立ち上がる。互いの気配がわずかに近くなる。


「ああ、出来る」


 あえて断言した。その手には折り畳まれた便箋。


「カフィ、ロープか何か持ってないか。ここまで届くような」


 問いかけに躊躇うような間。


「この窓、お前が通れる大きさじゃねえぞ」

「違う、渡したいものがある。紐でも何でもいい」


 シュッと何かを引き抜く音がした。


「ちょっと待ってろ」


 やがてするすると白い包帯よりは幅広の布が降りてくる。見覚えがあった。


「お前……下着はちゃんとしたのを着けろと言っただろう!」

「うるさい! こっちのが気合い入るんだよ! こんな時にくだらねーことでマジギレすんのやめろ!」


 カフィが一座へ来たときに着けていたさらしだ。今後の成長を見越して今は締め付けの少ない乳帯を使わせている。


「まあ、役に立ったから今は言わないが。しかしお前くらいの年頃の習慣で将来的な体つきが……」

「はーやーくーしろ変態!」


 窓格子が叩かれる。この雨の中ほかに聞こえるということはないだろうが、あまり長く居させるのも確かによくない。


「カフィ」

「ぁんだよ!」

「踊れるか?」

「当たり前だろ!」


 この上なく簡潔に、最後の意思確認は終わった。一切迷いのないその言葉にセレジェイは感じ入る。美しい、と。

 二枚持っていた便箋のうち一枚をその場で破り捨てる。残った方をさらしの端で結んで引き上げさせた。


「それは踊りの構成書きだ。省略記号ばかりだがエマに見せれば大方は伝わる」


 破ったのは次善の構成だ。どちらも綱渡りには違いないのだが。


「お前は香のみ方を習っておくんだ。本番では妖精を活性おこしてもらう。本当は四日ほどかけたいが時間がない。三日で覚えろ」


 エマの容態を考えるとギリギリだった。それ以外は現状あるものでなんとかするしかない。


「二日で、いや一日でいいよ」

「駄目だ、服香は正しく覚えないと命に関わる。それに、他の準備にも三日は必要だ」


 カフィの勇み足を抑えつつ、最後のピースをどうするか考える。


「ここへは一人で来たのか」

「モニカ姐が馬で近くまで来てる。隠れたり嗅ぎ回ったりはあたしのが得意だからさ」


 聞いて、セレジェイは決めた。二人の負担を大きくしてしまうが、出来るときにやらなければどうなるか分からない。


「伝言をひとつ頼みたい」



                  §



 ちいちいと、火鼠がランプの火をせわしなく揺らめかせる。

 オレンジの光がぼうと灯る薄暗闇の自室でラピスはひとり、膝を抱えて丸まっていた。


(どうしたら、いいんだろう)


 不思議な感覚だった。胸の中は吹き荒れる不安で壊れてしまいそうなのに、手足身体が死んだように動くことを拒否している。

 友人が手紙に書いていた恋の悲しみというのが確かそんな風だったなと、どうでもいい考えが浮かんだ。

 ふと、床に広がった自分の髪の毛に目が止まる。


「あ、れ……?」


 ぱちぱちとまばたきをする。ぎゅっと瞑ってまた開ける。見間違いではなかった。

 自分の髪が燐光を放っていた。ランプとは違う、虹色の光。


「―――――ぁ」


 急速に、意識がさかのぼっていく。

 幼い自分、既に病床にあった母。

 ベッドの端から離れようとしなかった自分を細い手で撫でてくれた母の髪もまた、同じ色ではなかったか。


 ――ラピス、私はね。山の神様のところにお呼ばれしにいくの。

 ――かみさま?


 首を傾げたラピスに、母は話してくれた。その時だ、一族を守る虹色の宝石竜と、それにまつわる恋物語を初めて聞いたのは。

 母を亡くした時ラピスはとても悲しかったが、その悲しみに子供なりの折り合いをつけられたのは、心のどこかでそのことを覚えていたからかもしれない。死は別れではなく、いずれまた会えるという思いが心に空いた穴をゆっくりと塞いだ。そして、今。


「……私も、行けるのかな」


 母と同じ症状いろを顕し始めた毛先を見て、思う。

 もしそうなら何と良いタイミング。ラピスは恐れより先に天恵を得た思いがした。


(そうだ、かみさまにおねがいしよう)


 大切な人たちを助けてほしいと、自分の命を引き替えにして。伝説の中の姫のように。恐ろしくも人の真心を尊ぶ竜なれば、この思いは必ず届く。


「もう、それくらいしか、わたしには……」


 がたん。

「ラピスっ!」

「っ?」


 顔を上げる。音を追って窓を見る。あやふやだった瞳がその向こうへ焦点を結ぶ。

 カフィが掴まっていた。ここ数日で親しんだ、表情豊かなひとつ年下の女の子。あの人の家族。


「開けてっここっ、屋根の雨が落ちてきてすごいつめたい!」


 あれほど動かそうとして動かなかった体が、何を考えるまもなく飛び起きていた。

 長らく開けていなかった窓を力一杯で押し上げ、塗れそぼった身体を抱きしめるように部屋へ取り込む。


「カフィ……っ!」


 雨で冷えた肌の感触が、胸の奥を沸き立たせるようだった。恐ろしさと心細さ、これまでの全てを中和するように細く締まった身体を抱擁する。


「ら、ラピス、ちょっと苦しい……あと、服も床も汚れちゃうから……」


 カフィの猫毛に顔を埋めたまま、首を振る。嬉しかった。こうしてまた声を聞けることが。


「……ぃっくしゅ!」


 震えた肩にはっとして、ラピスはやっとカフィを解放した。タオル、毛布、部屋からあるだけかき集めてカフィに押しつける。

 カフィはその柔らかさを無邪気に喜んだあと、ふと真面目な顔になって言った。


「セレジェイから、伝言があるんだ」


 ほぅ、と肩の力が抜けるのが分かった。腰まで抜けるのでは心配になってラピスは立ったまま壁に背を預けた。


「セレジェイさんは無事なんですね?」

「どうだろ、姿は見てないけど……まぁあれだけお節介がやけるなら心配いらないと思う、それより」


 笑いそうになった顔を引き締めてカフィは続けた。


「長居できないんだ、簡潔に言うよ。ラピスの持ってた宝石箱、あれを貸してほしい」

「宝石箱、ですか?」


 ラピスは鏡台に置いたそれに目をやった。


「うん。三日後、あいつはどうかして捕まってるところを抜け出してでっかい舞台をやるつもりだ。その衣装を作るために、この国で採れた宝石の上等なのがたくさんいるんだって」


 ラピスはまた少し気持ちが沈むのを感じた。


「それは……構いませんけど」


 ほんの一瞬、わずかばかりに期待したから。ただ一人、自分にしか出来ない役割でもって皆の役に立てるような夢物語を。だが実際に求められたのはただ親に与えられただけの宝石で、自分はひとつ頷くことしかできない。

 物語の読みすぎだ、とラピスは自嘲的に俯いた。それから顔を上げる。


「あの、わたしも連れていって貰えませんか?」


 カフィが何か言おうとする。その前に一気にまくし立てた。


「あの宝石箱は、わたしにしか触れません。箱も必要だとセレジェイさんは言ったのでしょう? なら……!」

「あー、それなんだけどさ……」


 カフィが言いにくそうに口を挟んだ。


「実はもう一つ伝言、っていうかお願いがあって」


 きょとんとしてラピスはカフィを見る。カフィはそれを居心地悪そうにもぞもぞと避けながら、やがて呟くように小さく言った。


「セレジェイが、そのぉ、ら、ラピスとけ、ケッコンしたいって……伝えろって」

「ふぇ……」


 ケッコン、血痕、結婚。何度考えても変わらないその意味するところを確認して、ラピスは問答無用で腰が砕けるのを感じた。


                  ◇

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