ロック鳥


神崎律が家を出ると、外には白いものがちらついていた。

雪だった。寒いのは苦手だったが、神崎は雪を見るのは好きだ。幼い頃から大人びた子供ではあったが、雪を見ると童心に返った。

マフラーを巻きなおし、柵に手をつく。銀の手すりは冷たかったが、それは気にならなかった。積もったら交通機関が大変なことになることは分かっていながら、神崎は積もることを願った。

それから、帽子を目深に被った。






蓮浦は焦っていた。

ここに居ることは仲間内しか知らない。前に働いていた所には極力近づかないようにしていた。この前、少し駅の方へ踏み入れただけで。

そういえば、コンビニで雛井が「この前のヤクザの女がいた」と言っていた。

その女の家に盗聴器を仕掛けたが、結局安物だったので粗悪品を掴まされたと言って、結局情報は掴めなかったらしい。少し脅かす為に荒してきた、と得意げに言っていたが、それでは違和感があるのではないか。


「……くそっ」


蓮浦は現実逃避として考えを巡らせていたが、今朝起きて部屋のポストに入っていた手紙を見て、現実へ返ってきてしまった。

『蓮浦さまへ 運んだ物のことで、お話があります。16時に工場近くでお待ちします。必ず来てください』

差出人は、今井葵。

あの女は死んだはずだった。雛井の元同僚の女だ。雛井が言っていたのだから本当だ。いや、それなら雛井がこれを? 何の為に、どうして。

貧乏揺すりをする膝に、舌打ちをする。近くに置いたボストンバッグの奥に潜めていたパケを取り出した。現実逃避をするにはうってつけなモノを持っていたじゃないか。








指でとんとんと肘を打つ。ありさは落ち着かない様子で、そこに立っていた。あの劇場で踊っていたときとは違い、殺気立っていた。

ここの工場はもう動いていない。帚木によると半年前に閉鎖して、廃墟同然になっているらしい。たまに近くのギャングたちが面白半分に度胸試しに使っているとか。

なんでも幽霊が出るらしい。


「幽霊、神崎さん怖い?」


ありさの遠方で、木箱の上に気配を殺して座っていた神崎。ありさは入口をじっと見つめながら尋ねた。


「そりゃ怖いね、人間じゃないんだろ」

「神崎さんにも怖いものがあるんだ」

「死んだ人間程怖いものってなくないか? ありさは怖くないのか?」


亡くなった母親が今の神崎を見たらどう思うだろうか。倉木同様、危ないことには首を突っ込まないで、と怒るかもしれない。怒るならまだ良いだろう。

泣かれたら、困る。


「怖くないかも」

「どうして?」

「神崎さんがいるからかな」


それは殺し文句か。

足音がして、神崎は黙る。ありさはその姿をじっと見ていた。視線だけずらして時計を見た。16時5分少し前。


「あんたが、今井葵か?」


モッズコートを羽織った蓮浦がこちらに近づいてくる。


「いえ、違います。こんばんは、葵が自殺したのは知ってますよね?」


神崎はその問い方に、この間訪問してきた七海の同僚に似た響きを感じた。


「ああ、知ってる、雛井に聞いた。あんたは、葵の友達か何かか?」

「幼馴染です」

「で、何の用?」


蓮浦の瞳孔は不自然に開いていた。落ち着かないように、足踏みもしている。酒を飲んできたのか、ありさは一瞬思ったが、これは違う。


「謝ってほしいとか、そういうことなら」

「お金です」

「は?」


顔を顰めた。ありさは、薄笑いを浮かべて続ける。


「雛井さんが勧めたメンズバーに葵は行って、蓮浦さんにお金を貢ぐようになった。蓮浦さんに勧められた仕事を受けて、雛井さんから受け取ったものを運んでた。世の中の人間の殆どが、大切なものは金じゃないって言いますけど」


神崎はそれを聞いていた。蓮浦は視線を泳がせている。

冷たい気温。日はすっかり落ちていて、暗くなってきた。

廃墟と化した工場には、静かな空気が降りてきている。


「愛で食っていける程、世の中甘くないですよ」


何がそうさせるのだろう、と神崎は思っていた。

ありさにとって幼馴染は幼馴染だろう。しかも死ぬ前まで殆ど連絡を取っていなかったという。なのにありさは危険を冒してまでここに来て、こうして蓮浦に対峙している。


「金なんて、用意するわけねえだろ」

「葵が貴方に貢いだ分は結構です。葵が運んで働いた分だけで」

「あんたが欲しいってこと?」

「いえ、葵が搾取された分、貴方たちから搾取したいんです」


淡々とした言葉が、蓮浦の思考が支配されていく。

搾取、搾取とは。


「こっちは証拠全部揃っているので。期限はそうですね、明後日まで待ちます。一週間待っていたら年を越しちゃいますから」

「おま、おまえ何言って」

「安心してください、今でも開いてる闇金を知ってますから」


神崎は笑いを堪えた。まさかうちの事務所を紹介してくれるつもりじゃあるまいな。取り立ての苦労も考えてくれよ。


「そんなこと、するわけね、ねえだろ」

「できますって。クスリ買えるお金はあるんでしょう?」


その言葉が引き金になったのか。蓮浦がありさの胸ぐらを掴んだ。


「ああ゛!? 何言ってんだてめえ!」

「怒鳴っても怖くないですよ。あんたみたいなヤク漬け人間と居た所為で、葵は死んだ」

「てめえも死ねよ!」


ありさが殴られた。しかし、蓮浦はその胸ぐらを掴んだままだった。


「本当にそれ言ってるんですか?」

「うる、うるせえんだよ、くそっ」

「貴方の後ろに葵、いますけど」


ぞっとした。ありさの鼻からは血が垂れていた。しかし薄ら笑いは浮かべたまま。

蓮浦はもう一度その顔を殴った。それよりも先に、振り向いた。

誰もいない。本当に誰もいないのか? 暗くて良く見えない。いや、何かが動いた。

うわああああ、と叫ぶ声。神崎が立ち上がった。

尻もちをついたありさの腕を掴む。立たせて、抱き寄せた。


「おい、なに女に手あげてんだよ」


低く言うと、蓮浦の視線が神崎へ向かう。どこから出てきたのか、と考える思考はもう残っていない。


「そ、その女がっ」

「"俺"の女に何か用か? ああ、お前は後ろの女とヨロシクやってんだっけな」

「葵は、勝手に死んだんだ! 俺は何も」

「じゃあお前も死ねよ」


神崎の拳は、ラリッた男の拳の数倍強かった。顔面にめり込んだ拳を見て、ありさがぽかんと口を開ける。

呻いてよろめく。蓮浦は据わった目で神崎を睨んだ。それから、その拳で神崎を打つ。勿論ありさと同じ女の神崎も吹っ飛ぶが、その反動を利用して、レザージャケットに隠し持っていたそれを蓮浦の身体に押し当てた。

電撃の走ったそれをすぐに離す。倒れた身体が痙攣をおこしていた。それから、静まった。


「……死んじゃった?」

「いや、伸びてるだけ。クスリ切れだろうな、こいつどうする? 金取れそうにないけど」

「ううん、お金はもういいや」

「ふーん。あ、そうだ、なあ」


その肩を安全靴で押す。蓮浦が目を覚ました。


「あんたの仲間、どうしてんの?」

「なか、なか、なかまは」

「ヤクザ一人を追ってるのは知ってんだよ。……てかさ、あんた等って誰からクスリ卸してんの?」

「来ないでくれ!! 俺は悪くな、ない!!」


先程から誰も動いていない。神崎は足に入れる力を強くした。


「早く答えろよ。ヤクザを追ってる奴等は」

「きょ、今日の夜に、袋叩きにするって」

「なるほど。そうか、情報ありがとう」


神崎は感謝の言葉を口にしたが、頭の中では口内の血の味のことで一杯だった。切れたのだろう、痛い。

ありさがその腕に捕まる。いや、支えようとしたのかもしれないが、神崎との身長差では捕まると言った表現が的確だった。


「あのー、どうぞ。もう良いです」


神崎がありさの捕まっていない方の腕を上げた。掌をそちらにきちんと見せる。

パッと灯りが点いた。ぞろぞろと出てきたのは数人の明らかに堅気でない空気を纏った衆。それらが蓮浦を取り囲んでいる。

ありさはそれに驚いた顔をして、神崎の袖を更にぎゅっと掴んだ。


「約束通り、蓮浦はお渡しします。この様子だと、きっとクスリの卸主も吐くと思います」

「ああ、貰っていくよ」

「それでは失礼します」


神崎と話すのは、神崎の部屋の前で張り、七海を捜していた男、染谷だった。

蓮浦達はやりすぎたのだ。ここは樺沢と檜垣の縄張り。特に檜垣会を怒らせてはいけない。

ガキに売っている内はまだ良かった。それが構成員に及べば命はないことは分かっていただろうに。クスリの闇は深い。

その話を持ちかけたのは神崎だった。その様子は七海のボイスレコーダーにきちんと収められていた。

樺沢の息のかかった高級クラブの前で染谷を捕まえることに成功し、それを話した。神崎の切り札はそれで全てだった。あとは樺沢や檜垣を巻き込むことができるかどうか。


成功した。

がくがくと膝を震わせるありさを引き摺るようにして工場を出て、大きく溜息を履いた。そこで漸く打たれた頬と鼻が痛いことに気付いた。


「……で?」


ありさの鼻血は固まり、止まっていた。それはとても素敵な面とは言い難かったが、ありさは今にも泣きそうだった。痛いからか、怖かったからか。


「あ、ありがとうございました」

「そうじゃないな。あんたは誰?」


この質問をあと何回すれば良いのか、と神崎は少し嘲笑ってしまった。





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