シュレディンガーの猫
ありさは大きな目を瞬かせた。長い睫毛に雫がつく。思えば、雪が止んでいた。神崎律は空を少し仰いで、再度ありさを見る。
いや、ありさと名乗った女に。
「やけに危機意識が低い。歩き慣れていないヒールは身長を誤魔化す為か。あんた、事務所と"どれだけ"揉めてありさが辞めたのか知らないな?」
この冷たい空気の中、長話は野暮だ。すぐそこには本職たちが集まっているし、もし何かあっても言い訳できない。
「顔はそっくり、だけど」
「整形じゃないですよ」
「ああ、そうなのか」
「ありさの双子の妹です。みやび、と言います」
神崎はその手を引いた。冷たい手だったが、神崎の手も冷たかったので、気にはならない。
「どこで、気付いてたんですか?」
「マーブルは確かに焼き菓子、クッキーが有名だけど、あたしがありさに買って行ったのはバームクーヘンだから」
「え、バームクーヘンはプレーンしか無かったよ?」
「プレーンって答えれば良いだろ」
「それってずるくない?」
抗議の声が大きくなった。神崎が振り向いて、びくりと肩が強張る。
「……どうしてありさじゃないって分かってて、協力してくれたの?」
「信用してるって言ってたから」
「そんなの口ではいくらでも言えるじゃないですか」
「あたしのとこに来る奴ら、みんなここが瀬戸際って顔してるから。分かるよ」
神崎は笑ったが、口の中の痛さに顔を顰めた。
「でも、まさか双子とはな」
「最初に挨拶したのがありさだって気付いてました?」
「え、マジで? じゃあ元気なんだな。子供も?」
「元気です。旦那とも、仲良くしてますよ」
みやびも笑おうとして、頬の痛さに顔を顰める。神崎は「そりゃ良かった」と肩を竦めた。
「それで、みやびの気は済んだのか? 相手はあいつ一人だったけど」
「はい、あたしの狙いはあの男だけだったので」
「どうして」
「葵が惚れてた男だから。呪いをかけておこうと思って」
呪い、か。
神崎の家に寄って、みやびの手当てをした。二度も殴られていたが弱い力だったのか、神崎の痣よりは薄かった。鼻が折れていることを危惧していたが、大丈夫だった。タオルで包んだ保冷剤を頬に当てているみやびを見て、神崎は立ち上がった。
「今日はここに泊まってけって言いたいんだけど、あんまり安全な場所じゃないんだ」
「神崎さんって大変だね」
「望んでなってるわけではないんだけど」
「きっと呼ばれてるんだろうね」
その言い方はズルいな、と思う。みやびはマスクをして、伊達眼鏡をかけた。
神崎は自分の手当もそこそこに、再度上着を羽織る。
「タクシー呼ぶ。気をつけて帰れよ」
「はーい。りっちゃん、どうもありがとう」
「今の言い方、ありさに似てた」
きょとんとした顔のみやび。何かおかしなことを言ったか、と神崎はそれを見て思う。
「似てるなんて初めて言われたかも。同じ顔って言われてきたし」
「ああ、そうか」
「神崎さんも、気をつけてね。あたし達にできることがあったら、何でも言って。……死んだら、駄目だよ」
殺人鬼と言われたり、死ぬなと言われたり。
神崎は「善処する」と答えた。
七海宝は荒く息を吐いていた。
撃たれた腕から血が流れる。していた手袋まで流れ込んで、手が濡れる。細く、長く息を吐いた。
壁に寄りかかり、耳を澄ませた。扉の向こうで、足音が聞こえる。
辰巳通りの廃墟ビルの中。七海と連中は遊んでいた。
始まりは、奴等が薬を組員から受け取る場面を見たところからだった。常時所持していたボイスレコーダーでそれを録音した。それがばれて奴等の下っ端連中に追い掛け回されて傷を負った。言い方は綺麗だが、簡単に言えばリンチにあったのだ。そして、ライブ帰りの神崎に拾われた。
それから、神崎の知り合いの女子高生がペケを持っていた。明らかにそれは奴等の元から出回っているもの。売人は捕まったものの、大元は捕まってはいない。
その大元が、この男たちだ。この街とは関係のない人間なのだから、それは自由に営業ができるに決まっている。
振り返ってみると、神崎が何かと関係している。いや、それとも関係していると考えてしまうほど神崎と一緒に居すぎたのだろうか。
足音が止まった。撃たれた階段から血を辿ってくればすぐに場所がばれるのは分かっていた。
拳銃を握りしめる。最初、相手は三人だった。しかし今日来ているのは二人。どちらにしても奴等はこういう"遊び"の素人だ。七海に知られた時点で尻尾を巻いて逃げれば良かったものを。
それとも、上の人間から指示されたのだろうか。それでは捨て駒決定だ。
部屋の前で足音が止まり、更に近づいた。その足音の軽さに、七海は一瞬怯む。
「生きてたか?」
神崎がいた。月明りに顔が照らされ、酷い顔をしている。
しかし、同時に女神のようにも見えたのだ。
「いつから闇金の電話番から女神に転職したんですか」
「傷大丈夫かって聞こうと思ったけど、元気そうだな」
「いえ、これは結構痛いです。神崎さん、よく入って来られましたね?」
神崎は七海の隣にしゃがみ、持っていたハンカチを広げ、その腕にきつく巻く。
「あっさり入れた。正面玄関なんてがら空きだった」
「誰かを見たりしませんでしたか?」
「既に簀巻き状態になってた奴に躓いて転びそうになったけど。あんなところに転がしておくなよ」
「すみません」
「もう一人は、雛井って男だな」
七海はどうして神崎がその名前を知っているのか追及することはしなかった。今すべての証拠は神崎が握っているのだ。この場所に来たこともすべてを把握しているとしても不思議なことはない。
「じゃあ、あたしが囮になって外におびき出すから、七海がその後ろからとどめを刺すって段取りで」
神崎はそう言って立ち上がった。
「え、おい」
「あ?」
「いや、あの、神崎さんはここに居てください」
「なに言ってんだよ、馬鹿か」
一蹴された。七海は入り口の方へ向かう神崎の腕を掴もうとして、空を握る。神崎の背中が遠くなる。
足音を立てて、階段の方へ行く。はあ、と溜息を吐いて七海は額を抱えた。なかなかどうして神崎は途端に行動を起こす。額縁の向こうで自分は関係ないという顔で見ていたかと思えば、次の瞬間こちらに足を踏み出している。長く一緒に居たつもりではいたが、それが計れなくて怖い。
血が流れて軽くなったはずの腕は重く、七海が立ち上がって右手に拳銃を持った。
神崎が足音を立てて下って行く。それを追いかける足音を聞いて、七海も急ぐ。
何者なのか、と神崎は尋ねた。
自分は何者なのだろう、と考えた。
悠々と歩く神崎のすぐ後ろを雛井が足音を立てずに近付いていた。その手にはサイレンサーのついた拳銃。先程七海の腕に命中したそれだ。
外は明るかった。もう夜明けなのかという疑問は飛び越え、七海は拳銃を構える。光が逆行で眩しい。それは雛井も同じだったに違いない。
迷いもなく、引き金を引いた。
「連れてきました」
「……そういうことでしたか」
神崎にボイスレコーダーを託したのは七海だったが、それを染谷に渡すとは考えなかった。普通なら警察に持っていく。
しかし、神崎の考えた結果なのだろう。七海の所属している組織に話が通れば、確かに警察よりも速く的確に動いてくれる。
「早く戻れよ。局長が話があるとさ」
「はい」
ビルを出て待っていたのは染谷と数人の仲間。仲間と言っても七海でなく染谷のだ。七海はその集団に直接関わったことはなかった。
間違いなく染谷は七海と同じ組織の人間だが、その仲間は染谷が自分で持っている集団、いや部隊と言った方が正しいだろう。七海は風の噂でそれを耳にしたことはあっても、実際見るのは初めてだった。
簀巻になった一人と、足を撃たれた雛井は車に乗せられている。行く場所が警察でないことは明らかだ。
先程の外の明かりは朝日ではなく、車のヘッドライトだった。漸く朝日が昇り、オレンジに焼けた光が差し込む。冬の朝だった。
「神崎のお嬢さん、今回のことは」
「分かってます。例外中の例外ですよね」
神崎が答えた。七海は腕を押さえながらその様子を見ていた。
「君は聞き分けが良いね」
「昔からの取り柄です」
「それは良いことだ」
笑って染谷は車の方へ行く。二人はその背中を見て、全ての車が去って行くまで黙っていた。
神崎は手をポケットへ突っ込み、欠伸を噛みしめた。この歳になって徹夜をするとは思わなかった。早く家に帰って眠りたい。七海の方を見ると、何か言いたげに神崎を見ていた。
「あんだよ」
「神崎さんて本当に堅気ですよね?」
「はあ? ストリッパーの娘は堅気じゃないって?」
喧嘩腰になったのは眠気からだ。七海も疲れた顔をしているが、それを真に受けることはしない。
「運が良すぎますね。神崎さんって協力な守護霊とかつけてるんじゃないですか?」
「それ、神崎響子っていう名前かもしれないな」
苦笑して、歩き出す。七海もその後ろを歩き始めた。
「染谷と、どこで知り合ったんですか?」
「七海を捜しにうちまで来たんだよ」
「あの男は組の中でも異質なんですよ。特に女は毛嫌いしてます」
「へえ、あたしが女に見えなかったのかもな」
投げやりな返事に、七海は納得いかない。
「神崎さんが女神に見えないってどんな腐った目で見たらそんな風になるのか知りたいです」
「おい待て、どこから突っ込めば良いんだ」
「あ、猫だ」
ボケておいてほったらかしにするな。
七海は団地の方から歩いてきた猫に近づく。すぐ逃げていくだろうという予想は外れ、黒猫は七海にすり寄ってきた。スラックスに黒い毛がつくが、七海は穏やかにその背中を撫でている。
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