倦む


神崎律は袖を折った。

梅雨を過ぎた都会に残るのは、社畜と蒸し暑さだけだ。金持ちと学生たちはどこか涼しい場所へ逃げていってしまう。神崎はジャケットを手に持ちながら事務所のエレベーター前で絶望した。『使用不可』の四文字。これは四字熟語か何かだっただろうか?


「昨日の昼に故障して、まだ業者さんが来てないらしい」


後ろから聞こえたのは倉木の声。

振り向くと、同じようにジャケットを手にしている。いつも涼し気な顔をしていると思っていたので、神崎はそれを珍しいと感じた。感じながら、額を抱える。


「……ってことは」

「階段」

「ですよね」


五階まで上るのかと思うと、この事務所が地獄か何かに見えてくる。


「……地獄か」


どうせみんな地獄行きだと言ったら、和花は酷い笑顔を見せた。神崎の呟きに倉木が返す。


「冷房がついてるだけ天国だな」

「そうですね、満員電車とか熱いアスファルトの上を歩くよりはマシです」

「神崎、昨日なんで欠勤したんだ?」


狭い階段なので、一列になって上っていく。倉木が身体を少し後ろの神崎の方へ向けて尋ねた。


「知り合いの子供に会いに行ってました」

「ガキ嫌いなんじゃないのか?」

「高校に行ってないらしくて」


神崎のヒールの音がコツコツと響く。その音が狭い空間に反響している。


「え、神崎が学校行けって促してきたの?」

「そんなことすると思います?」

「思えないから聞いてる。てか、どの口がそれを言うんだって感じ」

「学校辞めればって言ってきました」

「うわ……、そういうことに関して神崎は人選ミスだと思う」


失礼だな、と倉木を睨むが、神崎の方を見ていなかった。

五階に着き、二人とも深く息を吐いた。事務所から出てきた宮武が憐れんだ顔をして見ている。


「これ、矢田は遅刻決定ですね」

「俺も同じこと思った」









和花はイヤホンを耳に突っ込んでいた。

昇降口で上履きに替えようとしているところで、背中に鞄が故意にぶつかる。よろめいて手を靴箱につく。振り向くと、クラスの女子のリーダー格が何人かで並んで和花を見て、くすくすと笑っていた。気にせずに上履きを履く。

この世界に救いはあるだろうか。

ふとそんな言葉が脳裏を過る。イヤホンから流れる音楽は、神様が救ってくれると謳っているけれど、和花は滲みそうになる視界を上に向けた。


「おはよ」


イヤホン越しにかかる声。自分にではないと思って、和花は振り向かなかった。

声の主は「おーい」と和花の薄い肩を掴む。

ばっと振り向く。咄嗟に出た殺気に、掴んだ手が離れた。

和花は他クラスの田辺の姿に「……おはよう」と小さく返した。和花と田辺は同じ中学で、入学当初は姿を見たら話すこともあった。


「お前、学校来てる?」

「うん」


他クラスとはいえ、和花が学校に来づらくなっている理由は殆ど周知のものでもあった。担任は未だ何も言ってはこないが、それも時間の問題だ。


「でも二学期始まってから久しぶりにお前のこと見たんだけど」

「ずっと風邪ひいてた」

「本当?」

「本当でも嘘でも、田辺くんに関係ある?」


和花は口にして、笑顔を作った。和花も分かっているのだ。こうして学校で人の目を気にせずに話しかけてきてくれるのは田辺だけ。とても良い人間だと思う。一方で、偽善者だなと思う自分も無視できない。

何かを言おうとした田辺の横を通り抜け、教室に向かう。

始業ぎりぎりに席についた。入ってきた担任教師が和花の姿を見て、少し安心した顔を見せた。今日は家に電話をいれなくて済む、と言ったところだろうか。

二学期が始まり、勝手に席替えが行われていた。和花の席は変わっていない。和花の席だけが変わっていなかったのかもしれないが。

朝のHRが始まる。出欠がとられる。何も変わらない毎日が始まる。







放っておいてほしかったのだと思う。


「逃げちゃった……」


関はしゃがみ残念そうな声で、去っていく白黒猫の背中を見ている。その後ろで神崎がそれを見ている。暑いので蕎麦を食べに行こうと言った能見について来た倉木を除く事務所のメンバー。倉木は外回りに行って帰ってきていない。


「構い過ぎたらダメだろ」


宮武もそれを見ていたらしく、呆れたように声を出す。じりじりと暑いアスファルトと離れない関に神崎は感心をした。


「だって可愛いんですもん」

「可愛いって理由でセクハラされたらどう思うんだよ」

「それはセクハラです」

「関先輩が猫だったらすげー高いところに座って見下ろしてそうですけどね」

「セクハラ以前の問題だな」


その言葉を最後に、扉が開いて能見が出てきた。神崎と宮武が「ごちそうさまです」と言った後、関が立ち上がり矢田と共に頭を下げた。


「おう、帰るか。神崎、倉木からメール返ってきたか?」

「まだです。トラブルですかね」

「あいつに限ってそれはないと思うけどな……神崎」

「宮武が行きたいみたいです」


えっ、と宮武が声をあげる。神崎はこれ以上外にいることも、事務所と外を行ったり来たりするのは御免だった。


「午後は手一杯だ」

「ということで、行ってこい神崎」

「……はい」


舌打ちをする前に返事をした。

事務所に帰ると、エレベーターの前に業者が来ていた。それに一同で感動する。能見が尋ねると「夕方には終わりますよ」とおっさんが答える。神崎はそれに万歳をしてしまいそうになるほど嬉しかったが、流石に控えた。

再度階段を上り、再度階段を下って神崎は倉木の居る場所へと向かった。


繁華街を通り、駅の方へ歩く。黒塗りの車が数台停まっているのを見て、歩くスピードが緩まった。神崎は無意識にそちらを見て、姿を探していた。ガタイの良い男と派手なシャツの男、堅気には見えないオーラを纏うスーツ姿の男。

あ、いた。

灰色のスーツを着た七海が出てきた後に、本部長が出てくる。昼間だというのに物騒な空気が出ている。七海は神崎に気付いたが、少しも顔色を変えずに行ってしまった。あのビルは樺沢組の息のかかった店があると聞く。その背中が消えていくのを見て、神崎は関が触っていた猫の姿と重ねた。

何かあったのだろうか。

考えながら駅へと急ぐ。しかし、そうして急ぐ必要はなかった。改札前まで来て、倉木が現れたからだった。


「神崎、帰んの?」

「倉木さんが返事しないから」


鞄から携帯を出して「本当だ」と呟く。


「……ここまで暑い中、あたしが来た意味とは」

「お迎えどうもありがとう」

「倉木さん、コンビニで飲むヨーグルトを買ってください。そうしないと事務所には帰しません」

「えー……」


不満の声を漏らしながらも、倉木はコンビニへ入って神崎に飲むヨーグルトを買った。


「女子はヨーグルト好きだね」

「牛乳飲めないので、カルシウムを摂る為に」

「神崎にとってヨーグルトは好物じゃなくて手段なんだ」


コンビニの冷気を惜しみながら二人は外に出た。


「あー俺も蕎麦食べたかった」

「また汁が飛ぶから嫌だって言いそうですけどね、倉木さんは。……何かあったんですか?」

「いや、ちょっと話が盛り上がってさ。別にトラブルとかではない」

「それなら良いんですけど。倉木さん、キレたら怖いっていうし」

「どこ情報なんだ、それ……」


事務所まで来て、はっと気づかされる。そういえばエレベーターが直るのは夕方だった。神崎は額を抱えた。

「朝も同じ格好見た気がするんだけど」と苦笑いしながら倉木は階段の方へ歩いていく。その後を神崎も続いた。


「神崎、今朝はごめん」

「……え、何がですか?」


本当に心当たりがなくて怪訝な顔をする神崎。思い当たる節がないのに謝罪をされる方が恐ろしく思えた。倉木は振り向かずに話を進める。


「人選ミスとか言ってさ」

「ああー、全然気にしてませんよ。実際その通りだと思いますし、てゆーかそんなこと……気にしないでください、びっくりした、怖い」

「言ってからずっと気にしてた俺の気持ちは」

「倉木さんなら何て言いますか? 不登校の、高校生に」


息が上がってきた。白い手すりを掴んで、神崎は一度立ち止まった。

帰りはエレベーターが動いていることを願う。


「……楽しくなかったことも、大人になったら笑えるようになる」


大人の答えが返ってきた。倉木は反応を見せない神崎の方を見る。

神崎は片足のヒールを脱いでいた。


「あたしもひとつ、謝りますね」

「なにを」

「気付いてて聞いたんです、すみません」


やっと五階につく。そこで二人は立ち止まった。

事務所から人の声がする。客だろうか、と二人は頭の片隅で予想していた。


「それって多分、高校生の自分に送りたい言葉なんですよ」





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る