うむ

生む


ぼこぼこ、と耳元を大きい気泡が通り過ぎる。苦しい。辛い。息ができない。

吐き出すことができても、吸うことが出来ない。怖い。

その時、死を間近に見た。




暑い。だるい。面倒くさい。

最近の子供は形容詞ばかりで会話をすると言ったのは中学の先生だった。ローファーの先についた砂を払おうかどうか迷って、結局払う。つい最近買ってもらった新品だというのに、もう皺が出来てそこの汚れは取れない。

ぼんやりと空を見た。光るような青は眩しくて、こうして影から見ている方が良い。日向に出たら頭皮が焼けてしまうだろう。

和花は足を投げ出してみた。午前十時をまわった公園には子供が保護者と来始めている。バケツに水を汲んで、砂場で水鉄砲が始まっていた。


「暑くないのか?」


低い声が聞こえる。和花は顔を上げてそちらを見た。久しぶりに見る顔だった。


「……暑い、です」

「だと思った。食べよう」


渡されたのはコンビニで買ったのであろう半分の最中アイス。もう半分は神崎律が咥えていた。

この変わった喋り方をする女性は、和花の母親の知り合いである。もっと詳しく言うと和花の母親と神崎の母親が仲良くしていたらしく、その繋がりで神崎と出会った。尤も、出会ったのは神崎の母親の具合が悪くなってからだが。

和花が神崎と知り合って少ししてから、神崎の母親が亡くなった。その後のことを和花の母親も手伝っていたようだが、和花は受験生だった為手伝うことはなかった。ただ、神崎のことは覚えていた。

第一印象は物静かで怖い人だったが、その間に優しさが見える。

いま、どうして怖かったのかが分かった気がする。


「溶けるよ」

「いただきます」


綺麗だからだ。正しさすらも曲げてしまうようなその美しさに、和花は太刀打ちできないと思った。

最中アイスを齧ると、バニラとチョコレートが口の中で溶けた。指を伝った甘いバニラが制服の紺スカートに落ちる。


「子供かよ」


呆れた顔をしながら神崎はウェットティッシュでそのスカートの斑点を拭う。それを和花に渡して、手を拭かせる。取り除かれても尚、バニラが香った。


「学校は、って言わないんですか?」

「仕事はって、言わないの?」


片頬笑む。あまり笑わないような雰囲気で笑顔を見せられると、どきりとしてしまう。

和花は小さく首を振った。


「神崎さん、普通の仕事じゃなさそうですから」

「バレたか」

「もしかしてヤクザですか?」


敬語でそんなことを尋ねられる日が来るとは思わなかった。神崎は更に笑みを深くする。ビニールの口を縛って答えた。


「女はヤクザには入れない。あたしは金融関係、闇金」

「闇金……」

「どっか行きたいとこある?」

「え?」

「遊園地とか、水族館とか、猫カフェとか」

「猫カフェ……行ってみたいです」

「悪い、却下。動物とガキは苦手」


両手を挙げた。自分で例を言ったのにそれはないだろう、と神崎の方を見る。

蝉が鳴いている。

ガキに和花は入らないのだろうか。その疑問を投げる前に、神崎が立ち上がった。それを自然と目で追う。

立ち上がらないのか、と視線で問われ、和花も立ち上がった。辺りは子供や保護者が多い。学生と社会人には不釣り合いな場所と化していた。

歩き始めた神崎になんとなくついて、公園を出た。どうせ時間は死ぬほどあるのだ。和花は暮れそうにもない太陽を睨もうとしたが、日差しに拒まれて断念する。神崎はゴミを捨てる場所を探していたらしく、コンビニの外付けゴミ箱にそれを放ると、コンビニの軒下へ静かに身を潜めた。


「学校行きたくないって顔してるから、そんなこと聞くのは野暮かなと思った」


しゃがんで和花を見上げた神崎は肩を竦めてみせる。


「……お母さんですか?」

「いや、通ったら見かけたから。アイス分けてやろうと思って」

「学校、つまんないから」

「辞めれば? 中卒で働いてる奴なんてゴロゴロいる。ヤクザとか闇金とかは勧めないけど」


辞めれば、なんて簡単に言ってくれる。辞めたらどうするのか。働くしかない。母子家庭の和花の家では、母親の働いた金で全てが賄われている。

そもそも、どうして高校に通うのか。根本的な部分に引っかかり始める。義務教育でもないのに殆どが高校に進学する。それから大学へ。勉強が好きなら別だが、クラスの半分以上がそうは見えない。


「神崎さんは、高校楽しかったですか?」

「高校は普通だけど、中学は最低だった」


つまらない、ではなく最低。

その言葉の選択が、今の覚悟を伝えている気がした。


「最低ですか?」

「そう、今もだけどさ。人生の底辺にいたんだ」

「どうやってその底辺から抜け出したんですか?」

「だから今も底辺なんだっつの。抜け出してない」


笑ったが、神崎は笑っていなかった。それに和花は気付かず、遠くの逃げ水を見ていた。


「私も今人生のどん底なんだろうな」

「どん底なんて決めない方が良い」


和花は神崎の横顔を見る。長い睫毛に影ができていた。

それを言うなら、上限値を決めない方が良いとか、限界を決めない方が良いとかじゃないのか。声には出さないが、頭の中で疑問が浮かぶ。


「振り向いて、あの時は底を歩いてたんだなって思うくらいが良いんだ。今からどん底決めてたら、それ以上に苦しいところで死ぬよ」


死ぬと神崎の口から出た。それは思うより軽く、そしてただの言葉だった。


「どうして分かるんですか? 神崎さん、死んだことないでしょう」

「そういう奴、何人も見てきたから」

「もっと苦しいところなんて、地獄しかないと思います。それでも?」

「みんな死んだら地獄に落ちる」

「それなら、寂しくないですね」


意外な返事に、神崎は目を丸くする。

寂しいのが嫌なら、学校へ行けば良いのに。

それこそ野暮な話だ。学校に行くから寂しいのだ。孤独を感じる。それを神崎は少しだけ理解していた。

その寂しさは悲しみに形を変え、悲しみから怒りに変わるのだ。


「みんな、死ねば良いのに」


口元が歪む。笑みを作りたかったが、和花はそんな風に笑うことしか出来なかった。


「あたしも同じこと思ってた」


ただ、神崎は違った。とても美しい笑みだった。


「同じこと、思ってたよ」


どうして二回言ったのだろう。何度言われたとしても、和花は同じ言葉に救われるのだろう。


「毎日誰かのこと呪って、死ねば良いって思ってた。よく知らない奴等なんだけど、よく知らないから呪えたんだろうな」

「誰なんですか?」

「最終的には自分だったのかもしれない」

「今は?」


蒸し暑さが気にならなくなっていた。どうしてこんな場所で、神崎とこんな会話をしているのだろう、と思考回路の端で少し思ったが。


「もう呪うのも疲れる歳になってきたから。大丈夫、歳取るとそんな元気もなくなるよ」


人間なんて、人なんて、生きててなんぼだ。


その答えが欲しかったのだと、思う。どうしたって、死なないのなら自分たちは生きていくしか選択肢は残されていない。

その先にいくら分岐点があっても、死ぬという選択肢がどれだけ付きまとってきたとしても。

生きるという選択肢を選ぶ限り、生きることと自分と闘い、ときに呪いながら、過ごしていかなければならない。


「そっか、良かった」


和花は少し視界が滲むのを感じた。でも笑えた。

次はとても可愛く、笑えたように思う。










大丈夫? と声をかけられた。振り向くと、男が立っていた。

転んで傷ついた掌から少量の血が出ている。それが生きている証というものだろうか。


「絆創膏、ないや」

「だ、大丈夫です」

「代わりにこれあげる」


ぺらん、と出された小さい袋の中に入った錠剤。何か文字が彫ってあり、それを見る間もなく差し出される。


「これ飲むだけで楽しくなれるよ。今日は特別にタダで、きみカワイイから」


にこ、と笑った。その笑顔は、神崎とは違った。


「い……いいです、私……」

「大丈夫、依存性ないからさ。辛いこと沢山あるでしょ。全部忘れて楽になれるよ」


辛いこと、が頭の中を巡る。それを忘れられる。楽になれる。

死に誘うような台詞だったが、それに気付いたのは、既に手に取った後だった。


「じゃあ、気をつけて帰ってネ」





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