膿む
ぱたぱた、と音がする。ポタポタじゃない。水滴の落ちる音。水滴よりは粘度のある液体が落ちる音。
それが赤であるのを見て、どこか安心する自分がいた。
みしり、と音が鳴った気がした。実際そんな音が鳴っているわけがなく、爪と指の皮膚の間に血が付いているのが見えて、腕に目をやった。塞がっていた傷の上から引っ掻いた跡。そこから細く血が筋を描いていた。
神崎律は起き上がり、洗面所で腕を洗った。深いものではなく、滲んだ程度の血はすぐに流れて見えなくなる。
時計を見た。約束の時間が迫っている。
喫茶店に入ると、その姿はあった。すっと伸びた背筋と細長い指。踊り子の娘なだけはある。
「朱里さん」
ちょうどその視線がこちらを向いて、手を挙げて呼ばれる。朱里は同じく手を挙げて答えた。その席に近づき、正面の椅子に座る。
「遅れてごめん」
「いえ、何か飲みますか?」
「じゃあ同じものを」
すみません、と通りかかった店員にアメリカンコーヒーを注文する神崎。なんてスマートなのだろう。これで男だったのなら、いや同性でもイケる口は多いのではないか。
と、関係ないことを考えた朱里は、お礼を口にする。
「え?」
「和花に会ってくれたんでしょう」
「ああ、まあ、会っただけです」
「あの後からちゃんと学校行ってるみたいなのよ。本当にありがとう」
またしても礼を口にする朱里に、神崎は微妙な顔をする。
店員がアメリカンコーヒーを持ってきた。神崎が渡してくれたスティックシュガーを破り、全てを黒い液体の中に流し込む。
昼休みの時間帯はいつもよりも人間が多い。最近は駅の周りもカフェが増え、喫茶店は減ってきている。分煙や禁煙が訴えられている現代で、こんなに煙の多い飲食店はお勧めはできない。今も年齢層は高めだ。
「何か話しましたか?」
「学校行ってるのって聞いたら、うんって」
「そうですか。また会いに行きますね」
「そうしてやってちょうだい。あたしは元気で友達と仲良くやってくれてれば良いんだけどさ」
それは大きな願いだな、と神崎の口端が引き攣った。
「それにしても、早いね。もう一年経ったんだ」
「……そうですね、朱里さんには本当にお世話になりました」
「子供が大人を頼るのは、当たり前なのよ」
「母もきっと、朱里さんが居たから落ち着いて逝けたんだと思います」
「律、お世辞とか言うようになったの」
「あたしも立派は大人なんで」
そう言うと、朱里は笑った。お世辞を否定しない所が神崎の良い所だろう。朱里は壁に掛けてある時計を見た。
「時間大丈夫?」
「そろそろ……」
「律、やっぱりあの子にもう一回会ってくれないかな?」
立ち上がりかけた神崎を呼び止めるように朱里が言った。
その言葉に動きを止め、瞬きを一度する。神崎は「はい、もちろん」とそれ以上は何も言わせないような空気を纏う。
この雰囲気はどこから来たのだろう。
朱里は一瞬、息をするのを忘れる。確かに顔のパーツは響子―――神崎律の母から譲られたように、いや、盗んだように似ていて、美しい。なのに中身は別人のようだ。
別人だった。
会計伝票を持って行かれたことに気付いたのは、神崎が喫茶店を出るのを見た後だった。
朱里は響子と一瞬だけ同業だった。同じ時期にストリップを始め、朱里はすぐにその世界を去った。今とは違い、昔は治安が悪い劇場が多く、今と同じく、新しく始めた人間はすぐに去ってしまうことが多い。朱里はその中の一人で、響子は残った方の一人だった。去った朱里を責めることはなく、響子は朱里と連絡を取り合っていた。結婚をせずに学生のときに律を産んでいたと知ったときはとても驚いたが。
幼い律は大人びていて可愛げはなかったが、良い子であった。朱里は響子と知り合ってから数年後に律の存在を知ったのだが、最初に見たとき、律は小さい台所に立ってフライパンを洗っていた。
律と響子は、ぴったりと合わさったような家族だった。二人で家族なのだと誰が言わずともわかるような、空気と温度がそこにはあった。
それに比べて朱里と和花はどうだろうか。比べたところで、どうにかなることでもないのかもしれない。家族の形はそれぞれだから。
『律はね、きっと一人でも平気なのよ』
傍から見れば完璧な家族だとしても、実際はきっと大変なことの方が多かっただろう。一人で産んで育てるというのは簡単なことではない。響子の親は亡くなっているのかそれとも縁を切ったのか聞いたことはないが、親の話をしたことはない。金、世間の目、交友関係、仕事。
響子はそれをすべて一人で背負ってきた。きちんと律を高校まで行かせて、育てた。
『全然私に似てないでしょう? あの人にとても似てる』
その言葉を何度も聞いた。それを願っているように。
父親譲りの雰囲気。その厳かな空気は、堅気の人間だろうか。
『でもね、律は本当はすごく寂しがり屋だから。……だから、朱里』
―――私の葬式のときは、手伝ってあげて。
いじめなんて、運の問題だ。と書いてある本を前に読んだ。
学校は、子供をひとつの箱に集めて、神様がどれにしようかなで指さして決める。選ばれた子は他から省かれる。いないものとして扱われたり、足をかけたり、物を隠されたりする。それには嘆くしかない。次の子が指さされるまで、子供はじっと耐えるか、学校に通うのを辞めるか、死ぬか。
ボールをカゴに戻そうと背伸びをする。よろけて、そのカゴを咄嗟に掴んでしまった。あ、ボール全部落ちてくる。
目を瞑って構えたが、それは起こらなかった。
「あっぶねえ……」
すぐ近くから声がして驚く。そこには田辺の姿があった。
思わず和花は手を離す。えー、と田辺が非難の声をあげながらそのカゴを戻した。それから、和花の持っていたボールを掴んで入れていく。
「あ……ありがとう」
「一人かー? もう昼休みなのに」
田辺は校庭でクラスメートとサッカーをするためのボールを取りに外の倉庫まで来た。サッカーボールを見つけても尚、和花の片づけを手伝おうとした。
「もう良いよ。本当ありがとう」
「お前さ、大丈夫?」
重なった跳び箱に寄りかかりながら、田辺は尋ねた。ここには二人しかいない。
しかし、和花の態度が変わることはない。田辺は和花にとって他人であり、ここの生徒であり、傍観している人間の一人だ。ジャージのポケットに入っている小さなジッパー付きの袋を触る。これに触れると少し安心することができた。
「何が?」
「何がって……」
「仮に大丈夫じゃなかったとして」
ぎゅっと握る。錠剤が粉々にならない程度の力で。
田辺はそれに続く言葉を容易に想像できた。これまで何度か言われたことのあることだからだ。
「田辺くんがどうにかしてくれるの?」
和花は静かに笑った。田辺は久しぶりに和花の笑顔を見たと思った。そんなことしか考えられなかった。
それは、救いを求める声だったのに。
「おーいー、田辺まだー?」
倉庫の入り口で田辺の友人が呼ぶ。
はっとしたように二人はそちらを見て、和花は俯いた。それに気づかず、田辺が返事をする。
「悪い、いつものとこに無くて手間取った」
「何やってんだよ」
じゃあ、と田辺は視線を和花へ送ったが、和花は俯いたままだった。何か言おうと口を開きかけ、「誰かいんの?」という友人の言葉に制される。友人の位置から和花の姿は見えない。
少し躊躇って、「……早く行かないと昼休み終わるぞ」と答えて、出口へ歩いた。
ここには誰もいないのだから、倉庫の扉がぴたりと閉まった。
その扉が再度開くことは無かった。
雨が降る。神崎は空を仰いでそう予感した。
夏の終わりは嵐を呼ぶ。台風がもうすぐやってくるらしい。嵐の前の静けさというものだろうか。神崎は腕まくりをした下の皮膚に貼った絆創膏に血がついているのが見えた。
自傷なんて、馬鹿馬鹿しい。こんなの自慰と何も変わらない。
それでもあの頃の自分は死にたくて堪らなかった。それは誰がなんと言おうと嘘ではなく、夢でもない。自分には誰も殺せないことを知っていたから、死にたくて堪らなかった。
殺せたら、と考える。
もしも殺せたら、と幾度となく想像した。
最初に、隣の部屋で眠っている母を殺す。見送るとき「行ってらっしゃい」、帰ると「おかえり」と言ってくれる母親が悲しむ姿を見るのは嫌だった。それから、同じ学校に通う同級生を片端から。教師も、みんなみんな。
考えて、泣いた。そんなことはできない。
どうして泣いているのか、誰か知っているのなら教えて欲しかった。
「神崎さん」
姿を見るのは、この間ぶりだ。
「……また傘忘れたんですか?」
そういう本人はビニール傘をてにしていた。本当に雨が降り始めている。一瞬にして、激しく叩きつけるように、神崎と七海を守っていた軒にぶつかる大粒の雫。その音に呆然として、神崎は大通りを見た。先程までいた通行人が蜘蛛の子のように散らばり、屋根のある建物に逃げて行った後だった。
「今日、雨降る予報だった?」
「はい。お天気お姉さんが、夕立ちがあると」
「……七海は傘持ってんのに、なんでここにいるんだよ」
その問いに、この空間に張り詰めた緊張感を覚える。神崎が見せる警戒心に、七海は少しだけ怯んだ。大抵の女も男も攻略はできた。しかし、神崎は別だ。彼女には、いつも感情が振り回される。
何に気が立っているんですか、と訊ねても答えないだろう。そんな単純明快には出来ていない。
そのとき、神崎の携帯が鳴った。
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