狐と狸の化かし合い

せなかあわせ


その日もまた、神崎響子の歌に一人の男が惹かれた。


いつもと同じ唐揚げ定食を食べていた。顔馴染みになったおばちゃんに「いつもの」と言えばこれが出てくる。生姜の香りが良く、さくさくとした衣が美味しい。出てくるまでの間、暫し客を観察するのが日課だった。

いつも来ているのに、一度も同じことなんてない。

そんな日常が恐ろしく、そして楽しいのだと気付けたのはいつだっただろうか。もっと若いときに気付いていれば、と思うのはいつものことだ。

昼時は混んでいた。時間が少しずれると空いているのだが、近くの会社の昼休みが重なる時間に来るとこれだ。おばちゃんが唐揚げ定食を持ってきてくれた。

左利きなのを考慮して、箸の向きが右利きとは逆方向になっている。これが気遣いというものだろう。

いただきます、と手を併せると、前の椅子が引かれた。


「ここ、良いですか」

「どうぞ」


若い女性の声がした。顔を見ずに答える。混んできているので、相席をするのは珍しいことではない。

男は最初に味噌汁へ手を付けた。


「すみません、唐揚げ定食ひとつ」


その注文に、顔を上げる。

正直、味噌汁を噴かなかったことを褒めたいくらい、驚いた。


「唐揚げ定食、美味しいですか?」

「ええ」

「あたしも唐揚げ好きなんですよ」

「そう。ここに来たのは正解だ」


確かに、正解だ。

神崎律は、頬杖をついてその顔をじっと見た。見たことがあると思ってはいたが、


「うちの母の葬儀に来てくれましたね」

「……よく覚えてるな」

「一回見た人の顔は忘れないんです」

「すごいな。警察に迎え入れたいくらいだ」


男は神崎を見た。


「母とは、どこで出会ったんですか?」

「神崎響子がストリッパーを引退してから、シャンソン歌手だったのは知ってるか?」

「いえ……そうなんですか?」

「とても短い間だったけど」


すぐに神崎の注文した唐揚げ定食が置かれた。男は唐揚げに手をつけた。サクサクジューシーなそれに、いつも食べているのに感嘆を漏らしそうになる。わ、と神崎は漏らしたわけだが。それを聞いて笑った。


「俺はそこで響子を知った」

「……そうでしたか」

「綺麗な歌声だったよ。響子のファンは沢山いた」

「はい」

「よく調べてみると、驚いた。十年前に付き合った女だったから」


神崎はきょとんとした。いま天地がひっくり返ったのではないか。世の中は本当にいつも通りだろうか。

男を見つめたまま、神崎は口を開いた。


「あたしのこと、いつから知ってましたか?」


そのときから、と答えた。味噌汁が冷め始めていた。


「君にとって、響子はどんな母親だった?」


隣の席のサラリーマンたちが食べ終えて立ち上がる。神崎はその質問に、言葉を紡ぐ。


「良い母親でした……けど、きっと、あたしがあんまり、母親をさせてあげなかったかもな、と思います」

「母親をさせなかったって、すごい表現だな。母親をしなかった、はあるけど」

「家事は殆ど母よりも出来たし、強請ったこともあんまり……でも、サンタクロースはちゃんと毎年来てました」


へえ、と男は関心したように声を出す。

それから、二人は静かに昼食を食べた。会わなかった時間を埋めるような会話は特に無かった。共有しなかった時間が戻らないように、その時間はもう過去になったのだ。

二人は生きている。そして生きていくのだから、戻る必要は無いのだろう。


「この場所は結城に教わったのか」

「……さあ?」

「どうせ、店を出て角を曲がった所で、君のことを待ってるんだろ」

「よくわかりますね」

「信頼の出来る部下のことなんでね」


立ち上がって、神崎の分の伝票も持った。神崎はそれを掴もうとしたが、一緒に会計に出されてしまった。


「お客さん、若い彼女さんだねえ」


おばちゃんがパパッと金額を売っていく。それに苦笑しながら、男が答える。


「いえ、娘みたいなもんです」


神崎はその言葉に気を取られ、金を返すタイミングを失った。店を出て、「じゃあ」と男が手を上げて行ってしまう。


「あの、ごちそうさまです」

「別に良い。元気でな」


いつでも来いとか、何かあったら連絡しろとか、そんな言葉はない。次いつ会うかなんてわからない。明日だって生きている保障はないのだ。

しかし、いつかは出会うだろう。元気な姿を見せてやりたい。

お父さん、と神崎は呟いた。










気配もなく、七海が横に居た。いつから来たのだろうか、神崎は驚きながら隣を見る。


「もう良いんですか」

「うん」

「話は出来ました?」


会ったとしてもドライな二人のことだ。特に積もる話なんてないのだろう、と七海は分かっていた。未だに青い神崎の頬を見て、その手を掴む。


「できたけど、なんかあっさりしてた」

「神崎さんと似ていて、結構ドライな人ですからね」

「あたし、そんなにドライ?」

「じめじめいているよりは良くないですか?」


確かに、と納得させられてしまう。

クリスマスの終わった世間は年末モードだ。急に静かになってしまって、少し寂しくなる。

七海がその手を引いて行く。自分たちの街へ。


「結城って、呼んでた。七海のこと」

「そうですか」

「あたしのことは、君って呼んでた」

「年頃の女性を呼ぶのは照れたんじゃないですか?」

「七海、あの街から出て行くの?」


初めて会った頃、神崎は七海に『この街からいなくなる前に教えろよ』と言った。それをきちんと七海が覚えていたのなら、それもありうるという話だ。


「どうですかね」


七海はただ笑うだけだった。









年明け、その街から有名な二人が姿を消した。それぞれの思いは割愛するが、とりあえず能見は怒っていた。そして事務所の壁が揺れることになる。


「良いんですか、神崎さんにとっては故郷でしょう」


流れゆく車窓の外の景色を見ている神崎に話しかけた。買ってきた缶コーヒーをその膝に乗せる。


「故郷なら、いつでも帰れば良いし」

「結構ポジティブですよね」

「ネガティブよりポジティブの方が良いだろ」


缶コーヒーを手で包み込み、冷たい指先を温めた。トンネルに入って、窓の外が暗くなる。


「ま、あんたの邪魔にはならないようにするし」


笑った神崎がこちらを見る。何度も見たのだが、不覚にもときめいた。


「……うわ」

「うわって何だよ、首絞めるぞ」

「物騒ですね、落ち着いてください」


トンネルを抜けると、向こうは銀世界だった。


「雪って積もるとキラキラするんだ」

「キラキラって可愛い表現ですね」

「うっせえ」


そう言われて、肩を抱き寄せた。驚いた様子で、神崎がじっとしている。


「どうした、寂しくなったのか」

「いやまさか」

「まあ、あたしに背中を預けるにはちょっと頼りないかもしれないけど。どんと来い」


背中をとんとんと叩かれた。


「そんな、背中を預ける相手にはもったいないくらいですよ」














せなかあわせ END.

20171225

これはフィクションであり、暴力・薬物・犯罪行為を推奨するものでは決してありません。

ここまで読んでくださって、ありがとうございました。








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せなかあわせ 鯵哉 @fly_to_venus

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