あっちの水は苦いぞ


人は死といつも隣り合わせに座っている。

自分がその席に座っていたら、明日を迎えられないのだ。雨の匂いも、白く光る月の色も、貴方の爪にも触れられない。


「こんばんは」


暗闇の中からゆらりと現れた七海の姿に神埼律は足を止めて驚いた。ちょうど街灯の下だった。


「もう少し気配を出せよ」

「驚かせようと思って」

「その驚かせるは楽しい方じゃなくて怖い方」

「遅いお帰りですね」

「……まあ、ちょっと」


神崎の家まであと少し。七海はここで張っていたのだろうと考えた。しかし、どうして街ではなくここだったのだろうか。


「何してんの?」

「神崎さんの帰りを忠犬のように待ってたんですよ」

「あっそ」


そうやって他の人間にも尻尾を振っているのだろう。神崎は小さく溜息を吐いて七海の横を通り抜けた。後ろをついてくる音に安堵する自分とは裏腹に。


「そういえば」


階段をのぼり、神崎は家の鍵をまわしながら思い出した。隣に立つ七海を見上げる。


「これ、置いていったろ」


扉を開けた玄関先の棚の上にちょんと乗っていたボイスレコーダーを取った。


「……さあ、なんのことだか」


七海は受け取ろうとはしなかったので、神崎の手は宙に浮いたままになった。


「あんたってさ、何者なの?」


がちゃん、と七海が後ろ手で鍵をかける音。


「……中身、聞いたんですね」

「うん、"置いていった"んだって思ってたから。違う?」

「"忘れていった"んですよ。ずっと探してました」

「じゃあ、名前くらい教えて」


神崎の手ごと掴んだ。七海はにこりと笑う。


「それはカノジョ面ですか?」

「……は?」

「一回寝たからって、相手のことを全て知ることが出来る権利を得られるんですか?」


ぴくりと頬が痙攣した。がりがりと心臓に削られているような気分だ。


「……ねえよ、そんな権利。てか、いつお前がその範疇に入るって言ったよ?」

「範疇というと」

「花中央通りで噂だろ。神崎響子の娘は、男に興味ないって」


―――神崎さんって恋愛対象が女なんでしょう? え、違うの? みんな言ってるよ。


その噂を否定しなかった。神崎は手を振り払って、レコーダーを棚に戻した。勝手に持っていけ、という意味だった。


「神崎さん、俺は」

「ビッチと寝たくらいで、なに優位に立った顔してんだよ?」


七海の顔を睨み、パンプスを脱ぎ捨てる。リビングへ行くと、扉が開く音に閉まる音。鞄をソファーに放り投げて、低いテーブルに足を置こうとして止めた。昔いらついてテーブルを蹴ったら、母親に酷く怒られたことを思い出した。

死んだ人間はずるいと思う。意志表示はしないくせに、居ないままに心を支配してくる。

コートを脱いでから玄関に戻った。勿論七海の姿はなく、しかしレコーダーは残っていた。どうして持っていかなかったのか、考えるのも面倒な気がした。

ただ、名前が知りたかっただけなのに。

何故か、あの日の朝、黙って出て行ったことが脳裏に浮かんで、あんな聞き方になってしまった。結局カノジョ面をしていたのだ、自分は。

神崎はレコーダーを取って、開いていた鞄の中に向かって放る。綺麗に吸い込まれるように入っていった。









退けられたパフェを見てから、ありさはスプーンを皿の上に置いた。


「長い話になるけど、良い?」

「どうぞ」


話はありさの幼馴染について。

幼馴染はつい最近自殺をした。社会人で、小さい工場の事務をしていた。特に派手な方ではなく、男友達は勿論、女友達も少なかった。

こちらで働いていたありさは暫くその幼馴染に会っていなかったが、一年前程にこの街で見かけた。道路の向かいを歩いていたので話しかけることは出来なかった。


「でも話しかければ良かった。着そうにない派手な服を着てたから」


それから一年後、幼馴染が自殺したと友人から聞いた。葬式は身内だけで執り行われ、死因は縊死。遺書には家族へ当てた謝罪と感謝の言葉。


「あたしには、封をした手紙があった」

「どうやって受け取ったんだ?」

「あーえっと、その子の家に行ったときに、お母さんから貰ったの」

「内容は?」

「二つ手紙があって、一つは普通に昔のあたしとの思い出話」

「もう一つは」

「バイトしてたって」


この話の流れでいくと、コンビニの深夜バイトでないことは確かだな。神崎はカップの縁についた紅を指で拭う。

バイトは、工場の同僚に紹介されたもの。その同僚から荷物を受け取り、指定された場所に行って渡す。

要するに、運び屋だ。

彼女はその荷物の中身を知ることはなかった。違法だと分かっていたからだ。


「金が必要だったのか?」

「……ホストにハマってたみたい」

「ああ、だからこの街で見たのか。ホストクラブって見たことないけど」

「新しく出来たところ、ミミックだって」


ミミック。どういう意味だ。


「ちなみにその工場の同僚は仕事辞めてて、ホストの方はこれから行くつもりだった」

「ありさが?」

「その為に来たんだもん」

「お前……馬鹿なの? 劇場の人間に見つかったらどうするつもりなんだよ」

「え……」


全く考えていなかったのか、ありさの表情が固まった。神崎は溜息を吐いて、眉を顰める。


「……その幼馴染の名前と、写真くれ」

「神崎さん」

「なんか分かったら連絡する。それまでは絶対に動かないこと。約束して」


ありさは鞄から、昼に持っていた封筒を出した。それを神崎の前に置く。


「あたし、神崎さんのこと信用してる」

「そりゃどうも」

「神崎さんが殺人鬼でも構わないって言ったよね」

「だから、殺してないって」

「だから、お願いします。もう、神崎さん以外居ないの……」


頭をテーブルより深く下げた。整った爪先を見て、神崎はその封筒を受け取る。これは神崎が、ありさが子供と共に歩んで行けるようにと託した金だった。それがこうして却ってくるとは、夢にも思わなかった。

分かった、とは返事をしない。


「善処する」


もしかしたら人を殺すかもしれないし、と心の中で付け加えた。






ソファーに深く沈んでいると、コートのポケットの中で光る携帯が見えた。手を伸ばしてそれを取ると、ありさからメッセージが来ていた。


「今井葵、か」


送付された写真は、未だ制服を着ている写真。おいおいいくつの時の顔だよ、と呆れながらそれを見る。これで見つかるのか……。

セーラー服を着るその姿は、たぶん高校生だろう。クラスに二、三人はいそうな普通に細い女子。


『了解。マーブルのとこで買ってたやつ、今度会うときに持ってく』


何気なく送ったメッセージ。否、鎌をかけるつもりではいた。


『ありがとう。楽しみにしてます』

『ちなみに何味が好きだって言ってたっけ』


時間が空いて、メッセージが届く。


『抹茶が好きです』


ふ、と笑いが漏れた。そうか、抹茶。

携帯をテーブルに乗せて、猫のように背を丸める。顔をソファーの背もたれに埋めて目を瞑った。

涙が出た。




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