殺めるだけならただの鬼
こっちの水は甘いぞ
息が荒い。嬌声と甘い汗の匂い。それに発情する。貪るように噛み付いて、肉を引き裂いて、骨を砕く。啜り泣くような声に、更に欲が強くなる。気持ち良くなりたくて、欲をぶつけた。
バスルームからシャワーの音が聞こえる。まだカーテンの向こうは薄暗い。神崎律は気怠い身体を起こして、ベッドの周りを見た。脱ぎ散らかした神崎の服と下着とベルト。
「……あー……」
そんなに飲んでいなかったので、記憶はきちんとあった。それなのに、何故。視線が床を彷徨いていた。
なんだあれ。硬い小型のそれを指で引き寄せる。神崎は手に取ってから、正体を知った。
ボイスレコーダー。
手の中で一度くるりと回し、動いてないのを確認する。神崎のものではない、とすると、もう一人の物に違いない。
シャワーが止まる。こちらに戻って来るかと思ったが、そのまま玄関の扉が開く音がして、そのまま閉まった。
起きると、服がきちんと畳んであり、その横にミネラルウォーターと近所のパン屋の袋が置いてあった。小人でもやって来たのだろうか。神崎は蓋を開けてミネラルウォーターを口の中に含んだ。
指の背で頬を撫でてみる。たくさん、舐められたような、いや唇が触れたような、噛まれたような。思い出して熱を持って、ミネラルウォーターをそこへ当てる。
そのままもう一度ベッドへ寝転んだ。枕の下に手を入れると、朝方に拾ったものが触れる。持って行かなかったのだ、と少し意外に感じた。
カーテンの向こうはもう明るい。時刻は昼前。ボイスレコーダーの使い方は知らない。これまで使う必要性と方法について考えたこともなかった。神崎は単なる好奇心でそれを再生してみた。
すれ違う車のナンバープレートを見て、この街に帰ってきたと感じた。この排ガスと、午前中のくたびれた街の感じ。
「違うんですよー、パンダですパンダ」
「目の大きい犬だろ」
若いギャルのような声と、女のハスキーボイス。恋人同士だろうか。この雑多な街では、珍しくもない。
「猫もありますよ」
「ま、可愛いんじゃないか。関に似合ってる」
「神崎さん、またそうやって女を落としてるんですね?」
神崎。
その名前に顔が向く。声と同じで、明るめの髪色の若い女と、黒髪で背の高い女。
同じように、二人の視線がこちらに向いた。
目を丸くする神崎へ飛び込むように駆けた。
「神崎さん!」
後ろに倒れそうになりながら神崎はその身体を支えた。
「え……ありさ?」
「久しぶり!」
ぎゅうぎゅうとその身体を締めるように腕へ力を入れるので、神崎は呻いた。関がぽかんとしながらそれをみている。
「もしかして、神崎さんの恋人……」
「いや、友達。離れろ、苦しい」
「まさかこんな簡単に会えちゃうなんて! りっちゃんて本当に見つけやすい!」
「馬鹿にしてんの?」
「嬉しくて心が踊りそうなの!」
「ハイテンションすぎて怖い」
漸く神崎から離れたありさが、関の方を見た。同い年くらいであろう。
「神崎さんの恋人?」
「ちげーよ」
くるくると変わる表情の豊かさに、神崎の方が疲弊する。
「昼休みがもう少しで終わるんだ。悪いけど、」
「えっとね、りっちゃんに返さないといけないものがあって」
ありさは肩にかけていた小さな鞄から封筒を取り出す。いつか見たことのあるそれを神崎へと押し付けた。
あの日のように。
「なんで?」
「あたし、子供流れちゃったの」
「……は?」
「だから、結婚もなし」
にこりと笑った。悲しいときに、どうしてこんなに美しく笑えるのだろう。
この世のどれだけの人間にそんな技が成せるというのか。
「でもね、りっちゃんにこれを返しに来たのはついで。あたしはあたしですることがあってここに戻ってきたの」
「すること?」
「復讐」
その笑顔には似合わない言葉。遠巻きにそれを聞いていた関も、背筋に冷たいものを感じた。
神崎は少し黙ってから、口を開く。
「六時には切り上げるから、喫茶店で待ってて。好きなもの奢る」
「そんな、」
「待ってて欲しい。頼むから」
返事も聞かずに神崎は事務所の方へ歩いて行った。関はありさに頭を下げてから、慌ててその後を追う。昼休みが終わる五分前だった。
「あの人、本当に友達ですか? ワケアリの人っぽい気がしましたけど」
「関って勘鋭いな。男の浮気とかすぐに見破る?」
「だいたい」
言いながら悲しくなる。見破るということは、浮気されるということだ。関は開いたエレベーターに乗り、ボタンを押す。
「花中央通りの一本逸れたところに劇場があって、そこで踊ってた」
「へえ、ダンサーの方ですか」
「ダンサー……というより、踊り子」
神崎が乗って、扉が閉まる。関はそれを聞いてすべてを理解した。ダンサーではなく踊り子ということは、神崎の母親と同じ職業だったということだ。
「引退したってことですか?」
「うん、妊娠してて。まあ、事務所とは結構揉めて半分逃げるように辞めたらしいっていうのは倉木さん情報」
「ずっと思ってたんですけど、倉木さんって何者なんですか? この界隈での話で知らないことの方が少ない気がします」
「さあ? あたしも長く一緒にいるけど、実態はよく分からない」
五階に到着した。神崎は開いた扉を押さえて、先に関を通す。
事務所には能見がいなかった。倉木と宮武の視線が二人に向いた。矢田は欠勤。
「能見さんは?」
「上に呼ばれて出ていった。会議って感じじゃなかったですよね」
「うん、樺沢か檜垣で何かあったのかもね」
宮武の問に倉木が答えた。何か、の内容まで倉木が知っているように思ったが、口を噤んだ。関は関心した返事をしてから椅子にカーディガンをかけている自分の椅子に座る。
能見のいない事務所は少し空気が緩む。それを正すのが倉木の役目である。
六時には仕事を切り上げ、神崎は事務所を出た。倉木にありさのことを告げようかどうか迷ったが、止めた。どうせどこかの筋から、もしかすると関の口から倉木の耳に入るのだろうと予測する。
喫茶店に入ると、ありさの姿はなかった。期待していた自分が少し嘲笑えて、椅子に腰かけた。神崎は店員にコーヒーを頼んで、息を吐いた。少しだけ、七海が来ないかな、と願った。
すとんと正面に座ったのは、ありさだった。伊達眼鏡をかけて微笑んでいる。
「仕事お疲れさま」
「……来ないと思った」
「行くよ。あたし、神崎さんのこと好きだもん」
「なんだそれ」
本当の口実がそれではないことを神崎は感じていた。
「ねえ、このパフェ食べてみよう」
メニューを開くなり、そう言った。神崎はこの喫茶店を話す場として使っていたので、メニューを開いたことはなかった。いつも周りはサラリーマンばかりだったのでパフェがあることは知らなかった。
「でかくないか?」
「大丈夫、一緒に食べれば怖くない」
「赤信号じゃないんだぞ」
店員を呼び、本当に注文したありさを見て、神崎は呆れた。昼に会ったときに感じたあれは幻だったのか。というか、女友達とはこういうものなのだろうか。
友達なのか。
届いたパフェを食べるありさを観察した。
「はい、あーん」
「いらない。甘いものすきじゃない」
「りっちゃんって、同性の友達少ないでしょう」
「ああ。いない」
「あたしの幼馴染もね、同性の友達が少なかったなあ。まあ、異性の友達は一人もいなかったけど」
ふうん、と神崎はクリームから目を逸らした。コーヒーを口に含んで吐きそうな思いを中和させる。
「幼馴染ね、この前自殺したの」
「なんで?」
「なんでだろうね?」
「どうしてそこではぐらかすの?」
ありさは神崎を見た。神崎は真っすぐにこちらをみていた。
「ありさはそれをあたしに話すために腹を括ってここに来たんだろ。パフェを食べるためじゃなくて」
口の生クリームが重たく感じた。この人はどうして急に人を見透かすようなことを言うのだろう。どうしてそうして優しい言葉をかけてくるのだろう。
そんなことを言われたら、勘違いしそうになる。自分を任せて大丈夫だと、足を投げて全体重をかけて寄りかかって大丈夫だと、きっと助けてくれると。
子供みたいに泣きつくたくなるのだ。
「あたし、神崎さんが殺人鬼でも構わないなって思うことがあったんだ。今も思ってるけど」
「は? 流石に殺人鬼じゃない」
「分かってるって。神崎さんが例えどんな人でも、あたしは変わらずに好きだなってこと」
「それはどうも」
で、と神崎はパフェを横に退けた。
本題に入ろうじゃないか。
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